『原理講論』はキリスト教の神と易学の太極を同一視?

浅見定雄氏の批判
神が陽性と陰性を持つという教えの背後に、韓国の通俗的陰陽五行説、日本の陰陽道がある。「陰陽の中和的主体である太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものである云々」、「陽陰が即ち『み言』であるという易学の主張は妥当である」という『講論』の箇所がそれを示している。『講論』は、「キリスト教の〈神〉と易学の〈太極〉、否〈陰陽〉そのものを、まったく同一視している」(浅見定雄『統一協会=原理運動―その見極め方と対策』206~207ページ)。

原理講論

原理講論

批判に対する回答
ここでも浅見氏は、『講論』の論旨を正しく伝えず、また、自分かってに〈まったく〉などという言葉を付け足して故意に文章の意味を曲げ、読者に誤った『講論』のイメージを与えようとしている。『講論』では、キリスト教の「神」と易学の「太極」とを〈まったく〉同一視しているわけではない。〈それに当たるものだ〉と言っているのである。

『講論』は、浅見氏が引用している部分の後、次のように言っている。「しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。

したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである」(『講論』49ページ)。すなわち『講論』の「太極は二性性相の中和的主体である神を表示したものである」という記述は、〈太極は二性性相の中和的主体である神の陽陰の中和的主体という内容のみを表示したものである〉と解釈されるべきなのである。

「陰陽」「み言」に関する問題も同じである。『講論』では、「陰陽が、すなわち〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(49ページ)と記されている。この〈み言〉というのは、前後の文意からして「一陰一陽之謂道、道也者言也」という易経に記されている〈言〉を指すものであるのに、浅見氏は、「陰陽が、即ち(聖書のヨハネ福音書のいう)〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(『対策』207ページ)と文意を取り違えた上、それをかっこにして注意書きまでしている。
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ここでも『講論』は易学の〈言〉は、聖書のヨハネ福音書の〈言〉と同じであると短絡的に考えているわけではなく、それに当たるものだと言っているのである。

ところで、これらのことをもって浅見氏は鬼の首を取ったかのように、「統一原理」はキリスト教ではないなどと主張しているが、事実は反対である。これらのことは、「統一原理」がユダヤ・キリスト教思想の流れの上に立ちながらも、東洋思想の受容できる優れた神学を有していることを示すものであり、むしろアジアにおけるこれまでのキリスト教が、東洋という視座に立って神学の見直しをしてこなかったところに問題がある、と言うべきであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)