神のかたちとは、人間特有の理性、人格、道徳性のことであって、男と女のことではない?

アダムとエバ 神のかたちsQ:「『統一原理』は東洋哲学でいう陽陰が神の属性であることを裏付けようとして、創世記1章27節の『神のかたちに創造し、男と女とに創造された』を『神の陽陰の二性性相が分立実体として展開されたのが、男と女である』と解釈しているが、“男と女に創造した”は、次の28節に“生めよ、ふえよ”とあるように繁殖のためであって、“神のかたち”とは、人間が動物とは異なった理性的、人格的、道徳的存在であることを示しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:「統一原理」は、“神のかたち”に理性的、人格的、道徳的存在としての内容が含まれることを決して否定するものではありません。むしろそれらは、性形の二性性相として陽陰の二性性相と比べ、より本質的なものであるとしています。一般的に、東洋哲学(易学)は陽陰を強調し、西洋哲学(キリスト教)は性形を強調しています。

したがってキリスト教はどうしても、“神のかたち”を人間一個人における内容としてしか見ない傾向が強いのです。しかし「統一原理」は、“男と女に創造された”こと自体に、はっきりと“神のかたち”が現れていると見ます。

バプテスト、カルヴァン系で保守派の神学者の一人であるヘンリー・シーセンは、“神のかたち”として精神的、道徳的性質の他に社会的性質の類似性を挙げており、その“交わり”の基本が正にアダムとエバにおける夫婦としての交わりであり、しかもその交わりの原型は正に神の三位一体性に由来していると述べています(『組織神学』366ページ)。

ところでキリスト教の三位一体、すなわち“父と子と聖霊”という概念は、『原理講論』の示す神の三相、すなわち“中和的主体”(神)、“神の男性性相”(イエス)、“神の女性性相”(聖霊)という概念と相通ずるものがあるといえます。したがって“三位一体性に由来する”とは、言い換えれば“神自体内の陽陰の二性性相に由来する”ということにもなりましょう。

新正統主義の代表的神学者K・バルトは、このことを次のように説明しています。「人間における神の像とは、人間が男と女とに造られたことを言い、それは神自身の本性の中で起こる共同と共存の関係すなわち三位一体という原型的関係を模写し繰返したものにほかならない」(『キリスト教大辞典』226ページ)。

さらに『新聖書註解』でも、同様に「K・バルトはボンヘッファーなどの考え方に従い、男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する。神性には「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場が内在している。人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある……。神のかたちとは人間同士の相互関係であり、個人としての人間そのものは神のかたちではない」(旧約1 いのちのことば社 81ページ)と記されています。このように“男と女に創造された”ことを“神のかたち”と解釈することは何ら非キリスト教的見解ではないといえましょう。(広義昭『聖句Q&A』より)