統一教会 Q&A – はじめての方へ

WORSHIP_66挨拶

本サイトは、主に統一教会の教理に対する疑問、批判に対する回答、反論をQ&A方式で掲載しています。以下、このサイトを作成した背景と目的を記します。

1966年以来今日に至るまで、世界基督教統一神霊協会(以下、統一教会)の信者は、反対派と共謀した親族らの手によって拉致され、その信仰を破壊して脱会させる目的で強制的説得を受けてきました。その数は4300人以上にもなります。拉致監禁された信者は、マンションの一室等に作られた“監禁部屋”に閉じ込められると、脱会するまでは一切外出を許されないという身体の自由を奪われた上で、孤独な信仰の闘いを強いられます。→全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会HP 参照

信仰のためには命がけの信念を持つのが宗教者の共通の思いですが、そのような統一教会信者を脱会させるために“監禁部屋”に必ず登場するのが自称「脱会カウンセラー」と呼ばれる脱会説得の専門家であり、その多くは「反対牧師」と呼ばれるキリスト教の牧師です。

ここで、反対牧師が信者の信仰を崩す“切り札”として持ち出すのがキリスト教の教典である『聖書』です。反対牧師は、統一教会の教理(特に『原理講論』)は聖書を間違って引用、解釈、あるいは改ざんしており、そのことを信者に理解させれば信仰を崩すこと事ができると考え、今日まで実践してきました。

そして、残念なことに多くの統一教会の信者は、教育不足、あるいは監禁下による特殊な環境など、さまざまな要因があってのことでしょうが、反対牧師のいいように説得されて脱会へと追い込まれてきました。

もちろん、統一教会信者は、今までこれらの反対牧師による批判を無視してきたわけではありません。これら批判に対する反論、回答に関する書籍が多く発行されてきました。

しかし、現在それらが手に入りにくい状況であることを鑑みて、それらの書籍から監禁現場で特に用いられる頻度の高い批判を中心に抜粋し、本サイトにQ&A形式でまとめました。それに加えて教理以外の批判についても反論、回答を試みてみました。

本サイトを熟読して頂ければ、反対牧師の批判は、統一教会の教理の真理体系をいささかも損なう事のない“陳腐”かつ他愛もない“詭弁”であることがはっきり分かると思います。それだけでなく、統一教会の教理の真理性を再確認して頂けると自負しています。

本サイトを読むことをきっかけに、より深く研究することで、統一教会の信者の皆さんが監禁下での反対牧師の詭弁に惑わされることなく、統一教会の教理に対する自信を一層深めて下さり、あわせて、不当な監禁下での説得により信仰を失ってしまった元信者の皆さんが再び統一教会の教理を学ぶ機会となれば幸いです。

拉致監禁・強制改宗被害者の会 代表 後藤徹

 

Q:病気の原因は、「本人や両親が罪を犯したからではなく、神のみわざが人にあらわれるため」(ヨハネ書9章1節~3節)であるから先祖の因縁は関係がない?

Q:病気の原因は、「本人や両親が罪を犯したからではなく、神のみわざが人にあらわれるため」(ヨハネ書9章1節~3節)であるから先祖の因縁は関係がない?

A:ここでイエス様が弟子たちに語ろうとされた真意は、“病気や一切の不幸が、先祖や本人の犯した罪と全く関係がない”といった思想を表明することではなく、弟子たちが“この人が盲人なのはだれのせいだろう”などと罪の責任の所在をあれこれ考えていた時に、大事なことはそういうことではない、我々、罪の血統の中に生まれた堕落人間は、この道端に座って物乞いをしている盲人と同じであって、みな等しくメシヤによる救いを必要としている哀れな存在なのだ、ということを示そうとされたということです。

『新聖書註解』ではこの部分を、「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の苦難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(新約1 487ページ)と述べることによって、イエス様がある特別な意図をもって語られたことを示しています。

事実、ヨハネによる福音書5章14節(足なえの癒しの場面)では、「この事件は9章3節と違っていて、彼の病気が罪の結果であったことを暗示する」(『カトリック新聖書註解』1319ページ)。

エレミヤ書31章30節の聖句に関しても、「ここで問題になっているのは、刑罰における共同責任論から個人責任論への変化ということにあるのではない」(『新聖書註解旧約4』190ページ)と解説されています。

罪の遺伝的性格は、十戒の「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出20・5)の言葉にはっきりと表されています。

『聖句Q&A』

ハムはノアの末の子だった?

ノアの3人の息子、セム・ハム・ヤペテについて、『新共同訳・旧約聖書注解Ⅰ』では、「セム、ハム、ヤフェト(ヤペテ)は年齢順ではない……出生順はセム、ヤフェト(ヤペテ)、ハムとなる。ヤフェト(ヤペテ)とハムを入れ替えたのは、短い名前(音節が少ない名前)が前に来ることによって全体の音調(口調)をよくするため……」(40ページ)と説明しています。

しかし、『新聖書大辞典』(キリスト新聞社)では、ハムを「ノアの第2子」と説明しており、また、イエス時代の写本、死海文書の所有者だったとされるクムラン教団で盛んに読まれていた「ヨベル書」(小創世記)では、長男セムと次男ハムの年齢差は2歳であり、三男ヤペテはハムよりさらに3歳下であったと説明されているのです。このように、現代のキリスト教辞典や、またユダヤ教古文書でも、セム、ハム、ヤペテがそのまま年齢順であるとしているのです。

また、口語訳聖書の創世記9章24節に「末の子」とあることから、ハムは次子ではなく、三男だとする解釈があります。しかし、24節の「末の子」は「若き子」と訳すべきであるとし、ハムは、やはり次子であるとする学者が多くいます。事実、文語訳聖書では、それを「若き子」と訳し、七十人訳聖書、ラテン語訳聖書も「年下の子」と訳しています。ところが、このような見解については、全く触れずに、一切無視して論述しているのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

アダムとエバは、結婚していたから堕落ではなかった?

失楽園を性的に解釈したカトリック神学に対抗し、それを性的に解釈しようとしないプロテスタント神学があります。

創世記2章24節の「結婚賛歌」と、創世記3章の「失楽園」の関連性をめぐって、聖書の記述順序を、そのまま時間的経過と同一視したルターは、結婚賛歌に「妻」という言葉があることから、アダム・エバは堕落(失楽園)前にすでに性交していたとして、次のように解釈しました。

 

「原人アダムとイブ(エバ)とはその堕落の以前にすでに性の交わりを行っており、それは二人の貞節ときよき愛のしるしでもあった。彼らは裸であって、性に対しても自然な開放的な態度をとっていた」(岩村信二著『キリスト教の結婚観』日本基督教団出版局、122ページ)

 

反対牧師は、このルターの聖書解釈に基づいて、「妻」の言葉に注目させ、アダム・エバの堕落の原因は、統一教会がいうような「性的問題」ではなかったします。そして、ルターが、原罪を「自己中心」「高慢」と見て、心的解釈をした見解を利用しながら、統一原理の「堕落論」は間違いであると批判し、統一教会信者を脱会説得するのです。

しかし、ルターとは違って、聖書の記述順序をそのまま時系列とはとらえない解釈も存在しているのです。カトリック聖書(ウルガタ)を校訂した教父ヒエロニムスは、次のように述べます。

 

「アダムとエバに関しては、堕落以前の彼らは楽園で純潔であったと主張しなければならない。しかし、罪を犯し楽園を追放されてからはただちに結婚した。それから『それ故に人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、そして彼らは一つの体となる』の(創世記2章24)節がくる」(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』203ページ)

 

人間始祖アダムとエバの堕落を性的に解釈することは正しいというのです。

創世記2章2節で、神は天地創造を終えて休まれたと書かれているにもかかわらず、2章4節から、再び、違ったかたちの天地創造が記されています。ですから、ルターのように、聖書の記述順序をそのまま時間的経過と同一視するのは単純すぎて、問題があります。

いずれにせよ、カトリックとプロテスタントは、失楽園解釈をめぐって対立しています。統一原理は「堕落論」において、ルターのように「自己中心」の動機で、アウグスティヌスのように「性的形態」を通じて堕落したと見ており、その意味では、カトリック神学とプロテスタント神学を和合させる観点を持っていると言えます。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

 

キリスト教では「生命の木」を契約の印と教えているそうですが。

統一原理は、生命の木を「個性完成したアダム」と解釈しますが、反対牧師は、それをこじつけだと批判します。例えば、浅見定雄氏などは、統一教会の聖書解釈は支離滅裂であり、奇怪な教理であるとまで批判します(『「原理講論」の仮面を剥ぐ!』13〜15ページ)。

しかし、キリスト教では、伝統的に「生命の木=十字架=メシヤ」という解釈を綿々と語り伝えてきているのです。

1979年11月号『現代思想』(青土社)に収録されたテオドール・ライク著「原罪の起源」には、「古代キリスト教を通じて、十字架を生命の樹とする解釈は一般的である。それは旧約において十字架の象徴である……。アウグスティヌスはキリストを生命の樹の果実と見なし、オリゲネスは、生命の樹=十字架=キリストという等式を提出した」(142ページ)と論じています。

また、オスカー・クルマンもその著書『クリスマスの起源』(教文館)において、ピーター・ミルワード氏もその著書『旧約聖書の智慧』で、生命の木=十字架=キリストという解釈が伝統的にあったことを紹介しています。

統一原理は、メシヤを「個性完成したアダム」と解釈するので、生命の木=十字架=メシヤ=個性完成したアダム、という解釈も可能なのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』

統一教会に対する。“血分け”の中傷は、1950年代半ばから絶えず行われてきました。しかし実際は、卓明煥氏が告白したように、「明確な証拠は何もなかった」のです。おそらく、反対派の人々は、このような状況にしびれを切らしていたに違いありません。

統一教会を貶めるために、何としてもその証拠になるものを提示したいと切望していたところに、問題の書、朴正華氏の『六マリアの悲劇』(恆友出版)が登場してきたのです。

朴氏は、その後、心を入れ替えて、『六マリアの悲劇』で書いた文師のセックス・スキャンダルは、すべてでっち上げだったとして、新たに、真相告白の書『私は裏切り者』(世界日報社)を出版しました。

では、著者の朴氏が“でっち上げ”であることを自ら暴露した、この問題の書『六マリアの悲劇』は、どのようにして出版されることになったのでしょうか。その経緯について、朴氏は『私は裏切り者』の「けじめに」で、次のように述べています。かなりの長文ですが、重要ですので次に引用します。

「当時(1993年)、日本では、韓国で行われた三万双国際合同結婚式以来、統一教会に異常な関心が集まっていた。そこに、教会の草創期を先生とともに歩んだ男が、『真のサタンは文鮮明だ』と銘打って、ありもしない先生の『セックス・スキャンダル』をブチ上げたのだから、これは一大事件である。統一教会批判のネタ漁りに余念のない反教会ジャーナリストが、黙って指をくわえたまま放って置くはずがない。

たちまち私は、“統一教会バッシング”に便乗、相乗りした週刊誌やテレビーワイドショーの寵児となってもてはやされた。

なぜ、大恩ある先生をマスコミに売るような信義に悖ることをしたのか。

それは先生に対する憎しみ、抑えることの出来ない私憤のためである。私は『六マリアの悲劇』を、先生と差し違える覚悟で書いた。先生の宗教指導者としての生命を断ち、統一教会をつぶして俺も死ぬ、そんな破れかぶれな気持ちだった。だから、ありもしない『六マリア』までデッチあげたのである。

昔から宗教指導者を陥れるためには、セックス・スキャンダルほど効果的なものはない。聖なるものを泥まみれにして叩きつぶすには、その最も対極にあるセックス・スキャンダルほど有効な手段はない。そのことは誰もが知るところで、私もその卑劣な手段に手を染めた。

『生きるも死ぬも一緒』とまで誓った男と男の約束を、自ら裏切るほどの憎しみが生じたのは、なぜか。その赤裸々な告白が、この本の一つのテーマであるが、ここでかいつまんでお話しよう。

私は夢で、文先生が『再臨のメシア』だと教えられ、一緒に生活する中で、多くの奇跡を体験してきた。だから、先生が再臨のメシアであると確信できたのである。ところが、人間とはおかしなもので、いくら夢のお告げを聞いて体験しても、めまぐるしく移り変わる現実生活がだんだん自分中心になっていくと、それにつれ自分自身も見失っていく。そうなると、神の摂理のために公的に生きる先生まで、自分中心にしか見られなくなる。統一教会の教勢が発展していくにつれ、優秀な人材が教会に入ってくる。摂理を進めるために、先生がその人たちを活用する。

そういう時、私は何か自分が疎外されているのを感じ、愛の減少感にとらわれ、孤独の淵に落ち込む。そうなると、なかなか立ち直れない。真理を学ぶ気持ちもおきないし、祈る気持ちにもなれない。ただ、寂しさだけがひたひたと募ってくる。自分だけのことしか意識のいかない、そんな世界を乗り越えることは難しいことだ。

その時、自分の心に何かが囁きかけてくる。あなたは正しいんだ。あなたを認めない相手が悪いんだ。そんな相手は倒さなければならないーと。強烈な自己正当化と相手に対する批判と憎悪。

聖書には、イエス様を裏切る前のイスカリオテのユダに「サタンが入った」と書かれているが、そのような得体の知れない冷たい思いこそ、サタンの囁きかも知れない。これにとらわれると、だんだん居ても立ってもいられなくなる。

お前を裏切ったのは文先生の方だ。お前は先生にだまされている。先生は身内のものを身近におき、先生のために苦労しかものを無慈悲にも捨て去った。その証拠に、お前も追い払われたではないか。憎め!悔しがれ!復讐だ! 彼を倒すために何でもやれ…。

こんな時に限ってよくしたもので、日本の出版社から“おいしい”出版話が持ちかけられた。金に困っていた当時の私には、願ってもない話だった。『朴先生の本だったら二十万部は売れますよ』と。

〈定価1,500円の印税10%、一部につき150円で、二十万部だと3,000万円(韓国のウォンで約二億一千万ウォン)が手に入る計算になる〉と、ついその気になり、とんでもない本を出してしまった」(2~5ページ)

朴氏は、統一教会の草創期を歩んだ、数少ないメンバーの一人でした。しかも、興南の徳里特別労務者収容所で文師とめぐり会った、古参信者の一人でした。ところが、後から入教してきたメンバーが自分より優遇されて用いられていく姿を見て、寂しい思いにとらわれ、やがてその寂しさが憎しみへと変貌を遂げていったのだと言います。

その憎しみに取り憑かれてしまった朴氏は、まさに“魔がさした”かのように「とんでもない本」をでっち上げて出版しようと思ったのです。そのことを知った反対派の人々が放っておくはずがありません。願ってもない獲物が来たと言わんばかりに、朴氏に急接近し、うまい出版話を持ちかけていったのです。

このようにして、朴氏は統一教会反対派のジャーナリストやキリスト教関係者らから持ち上げられ、センセーショナルにマスコミでも取り上げられるようになりました。そして出版されたのが『六マリアの悲劇』だったのです。

しかし、朴氏はその後、『六マリアの悲劇』の内容は、「文師に対する個人的な恨みからでっち上げた作り話で、真相はこうである」として、約2年後の1995年11月1日、『私は裏切り者』(世界日報社)を出版したのです。そうなった経緯について、朴正華氏は次のように語っています。これも長文になりますが、次に引用しておきましょう。

「『六マリアの悲劇』を出版した後、私は本の販売キャンペーンのため日本全国の反統一教会グループの集会に顔を出し、本のPRをして歩いた。キャンぺーンの反応は悪くなかったので、私の期待は膨らんだ。しかし、意気込みに反して本はあまり売れなかった。

そんなある日、ソウルの安炳日氏から仁川の自宅に電話が入った。会いたいというので、気軽にOKをした。

仁川から電車でソウルに出て、待ち合わせたロッテホテルのコーヒーショップで彼と会った。

私は当然、彼が私の本の出版を非難してくると思っていた。そうしたら、その場ですぐ殴ってやろうと思った。そして、この本をさらに英訳して世界に公表しようと思っていた。たまたま、日本の反統一教会グループから、再び全国巡回講演の依頼を受けていた時でもあった。

『朴先生、お元気ですか』

にこにこして挨拶する彼に、私は『あーっ』とあいまいな返事をしながらコーヒーを飲み始めた。

私は、先生を裏切る行為に出た理由を、一つ一つ語った。

『棲鎮鉱山に追いやられ、何の援助もなかった』こと。

『教会に戻ろうとしたが、組織が出来上がっていて、もう自分の位置がなかった』こと。

『後から来た者に『はい、はい』と頭を下げることができない』ことなどである。

さらに『ダンベリーに七回も手紙を出しだのに返事がこない』こと。

『一和の金元弼社長に二十回も電話したが、返事もこない』ことも付け加えた。

自分の主張をまくしたてたあと、教会を出た後に反教会グループの者から聞いた悪口も、怒鳴るように大声を出して吠えた。

彼は、私の話をたっぷり二時間の間、黙って聞いてくれた。

それで、私の心はすっきりした。

安氏はそれから、問題の一つ一つについて丁寧に説明してくれた。

彼とは、金徳振氏の一件で一緒に仕事をしたことがある。心の中で、統一教会にもいい 人がいるんだな、とかつて抱いた思いがよみがえってきた。本の出版前に彼に会っていれ ば、こんな馬鹿なことはしなかったかも、という悔悟の気持ちがわいてきた。

その日はそれで別れ、その後彼と二、三回会って話をした。

彼は最後に会ったとき、日本の兄弟たちが先生の本で相当苦しめられている、とポツリ と言った。私は〈何言っているんだ。今まで俺を疎外したくせに。日本の兄弟が苦しむの は、先生に対する復讐なのだ。ざまあみろ〉という気持ちに戻った。

それから少し経ったある日、安氏から電話が入った。また会いたいという。

会ってみると、彼は真剣な表情でこう切り出してきた。

『朴先生と一緒に日本で本を出版した人たちが、政府のある高官と手を組んで、朴先生の本を韓国語に翻訳し二、三百万部を韓国中にばらまき、統一教会を壊滅状態に追い込む。

それをやめさせてやるから、二、三百億ウォンを自分たちに払えと脅迫してきた』

驚いた私は、彼の顔をじっと見つめていると、

『自分は、政府の関係者を通して、金大統領がそのようなことをするのかと尋ねたところ、そういうことはないと言われた。もし、それが本当なら恐喝で彼らを牢屋に入れる、と言われたそうだ』

私は、心臓が止まるほどの驚きを覚えた。

『朴先生は、その一味に加担しているのですか』

たしかに、私は、先生をやっつけようとしたが、それは私憤からである。それが、仲間に利用されて統一教会を恐喝し、金儲けの道具にされていることを知り、義憤と落胆が交錯した。だが、安氏は私を咎めなかった。彼は、逆に私をなぐさめてくれた。人間とはおかしなものだ。悪口を言われると、『何を!』と対決する力が出るが、過ちを怒らないでかえって慰められると、何か悪いことをしたような反省の気持ちにさせられる。

さらに、少し日が経って、安氏ともう一度会った。

 

『日本で反対派が、先生の本を利用して兄弟たちを苦しめている』

最初にそれを聞いた時は、〈ざまあみろ〉という気持ちだったが、それが金儲けのための道具に利用されていると聞いた後なので、私の心は複雑だった。ちょっと可哀想な気がして、良心の呵責を覚えた」(231~234ぺージ)

朴氏は、単なる“個人的恨み”を晴らそうとする動機から出版しようとしたのです。ところが、その本を、心ない一部の反対派の人たちに悪用され、しかも自分を出し抜いて、本人の知らない水面下で統一教会に脅迫まがいのことをしていることを知って興ざめしたというのが、朴氏が悔い改めた第一の理由だったのです。

おそらく、孤独な自分の味方と思っていた反対派からの「裏切り行為」に出会い、統一教会のときに感じた「愛の減少感」以上の疎外感や空虚感を感じたのでしょう。もちろん、そこに至るまでには、嘘をついてしまったことに対する良心の呵責から来る「後ろめたさ」と、安炳日氏の心温まる“心のケア”があったのは言うまでもありません。

そして、朴氏が悔い改めた2つ目の理由は、『私は裏切り者』の中に書いていることですが、安氏から紹介されて日本の世界日報社社長の石井光治氏と会い、統一運動の現状を聞かされ、さらにアメリカにまで渡って視察して回ることによって、かつて興南の収容所で文師から聞かされていたことが現実のものになっている姿をまざまざと見せつけられ、深く感動したことが挙げられます(『私は裏切り者』237~248ページ)。

そして、第3の理由として、拙著『統一教会の正統性』(広和)を読み、特にイエスの歩まれた生涯と文師の歩まれた半生が、あまりにもよく似ていることを知ったことが一因でもあったとのことです(『私は裏切り者』248~251ページ)。

このように、朴氏は悩んだり苦しんだり、また仲間から裏切られたりして心の傷を受け、安氏の“心のケア”を受けて、やっと立ち直ることができたのです。

それにもかかわらず、浅見定雄氏は、「(朴氏は)日本で本を出したりすれば大金が入ると思っていた期待が裏切られたため、再び統一教会へ寝返ったというだけの話」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』かもがわ出版、37ページ)と切り捨てています。あまりにも人の心を踏みにじる発言であるとしか言いようがありません。

朴正華奢『六マリアの悲劇』(恒友出版)は、反統一教会派の人々の甘い誘いに乗せられてしまった著者が、まるで“魔がさした”かのごとくに出版してしまったデッチ上げの書なのです。

ところが、日本で出版された『六マリアの悲劇』が、反対派の主導によって韓国語に翻訳される作業が行われ、1996年3月1日付けで『野録統一教會史』として韓国で出版されたのです。

この『野録統一教曾史』の出版は、朴正華氏の本意ではありません。悔い改めて統一教会に再び帰ってしまった朴氏に“秘密”にして、反対派が出版に漕ぎ着けてしまったものです。事実、この『野録統一教曾史』に掲載されている朴正華氏の「前書き」部分は、『六マリアの悲劇』の「あとがき」を一部削除し、それをそのまま転載し、著作日付も1993年10月の古いままになっています。著者の意向を完全に無視して出されたためです。

その事実を知った時点で、朴氏は「その出版は本人の許可なくして出したもので、違法に当たる」として法的訴えを起こしました。

しかし、満83歳という高齢であった朴氏は、係争中、志半ばにして、97年3月26日に亡くなりました。その2か月前の1月に、念願し続けてきた「祝福」を受けています(「ファミリー」1997年5月号、4ページ)。

ところが反対派は、それらの事の成り行きを知らない統一教会信者に対し、『私は裏切り者』が1995年11月1日に世界日報社から出された後で、1996年3月1日に、韓国語に翻訳された『野録統一教曾史』が出版されていることから、「この出版が新しい事実から見ても、『私は裏切り者』は統一教会が勝手にでっち上げて出版したものだ」と脱会説得をすることもありました。これなどは、反対派のあくどさを表すものです。

出版事情をひた隠しにする、このような手法は、反対派全体に見受けられる傾向です。例えば、1997年8月20日付で出版された浅見定雄監修『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)でも、こういった出版事情のあることを無視し、さも『六マリアの悲劇』には真実が書がれているかのような思わせぶりで、文師に対するゆがんだ情報を流し続けているのです。

その浅見定雄氏は、『六マリアの悲劇』について、「この本の最大の意義は、著者の朴正華氏が統一協会の創立以前から文鮮明の片腕だった人であり、文鮮明の『血分け』(『復帰』という)の乱行の生き証人であるという点にある。著者は自分自身も文鮮明の指示で血分けを実行させられたと告白している。この本で明らかになったことはたくさんある……」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』14ページ)として、書いた当の本人がすでに取り下げているにもかかわらず、真相が明らかにされた後も、なお、その著者の意向を完全に無視して著述し続けているのです。これが反対派のやり方なのです。まさに「嘘も百回言えば真実になる」を地で行っているのです。

文師や統一教会は長い間、何の証拠もないのに、キリスト教関係者や反対派グループから、淫行の教祖、血分け教と言われ続けてきました。それは、初代キリスト教会時代においても同様でした。極めて古い初期の頃からユダヤ教側が「イエスはローマ兵士パ

ンテラと母マリアとが“姦淫の罪”を犯して生まれたいかがわしい人物である」と噂し始

め、その噂はなかなか止まず、何とオリゲネスがAD248年頃に書いたとされる『ケル

ソス駁論』においてさえ、まだ弁明し続けなければならなかったほどです。

キリスト教会も、近親相姦をしているとか、いかがわしい儀式をしているとか、長い間、

噂された歴史的事実がありましたが、それと同じ状況を統一教会に対する“血分け”の中

傷に感じます。

文師が、“偽の写真”で信徒を欺いた?

韓国「中央日報」に掲載された写真をめぐって

反対牧師が、脱会説得に使用する資料の一つに、文師が朴正華氏を背負って海を渡っておられる場面と信じられていた写真があります。

朴氏は、文師が北朝鮮の興南監獄(徳里特別労務者収容所)で苦役されているとき、夢に現れた老人の導きもあって、文師を再臨主と信じ、弟子になった人です。

1950年10月14日、文師は国連軍による爆撃で解放され、平壌の弟子のもとを訪ねられます。そのころ、朴氏は足を骨折しており、平壌市内に避難命令が出されたとき、足手まといになるとして家族に置き去りにされていました。そんな朴氏を、文師は見捨てずに救い出されたのです。

1950年12月、文師は足の不自由な朴氏を自転車に乗せ、金元弼氏とともに釜山を目指して南下しました。その途中、龍媒島という島から仁川に直行する船が出ていることを知って、朴氏を背負って浅瀬になった海を渡られたのでした。

反対牧師が批判する写真は、もともと韓国の「中央日報」に連載された李承晩大統領夫人の回顧録に出ていたもので、その写真は朴氏を背負って海を渡られる文師を彷彿させるものでした(83年10月24日付「中央日報」)。

1984年5月9日、来日した朴正華氏は、東京の本部教会で「この写真は私と文先生です」と証言しました。その後、名古屋、宝塚、九州などを巡回し、同じように証言したのです。当事者の証言であったことから、当然、多くの人々は全く疑うことなく、それを「文師と朴氏の写真」として受け入れたのです。しかし、その後、写真は文師と朴氏でないことが判明しました。

写真が見つかり、朴氏が来日した1984年当時は、文師がアメリカの裁判でダンベリー収監が確定されるかどうかの時期であり、文興進様が昇華されてから数か月後でした。この写真の発見が、どれほど統一教会信者を慰め、励ましたことでしょうか。瞬く間に、その情報は統一教会全体に伝わったのです。

反対牧師は、監禁場所で、その写真を統一教会信者に見せながら、「これは文鮮明ではない。文は嘘をついている」と批判します。しかし、これは文師が嘘をついたのでも、統一教会がだまそうとしたのでもありません。写真の雰囲気があまりにも似ていたこと、および当事者の証言もあったため、そう信じられるようになったのです。

たとえ、この写真が文師と朴氏でなかったとしても、文師が足の不自由な朴氏を見捨てずに南下された事実が否定されるわけではありません。足を骨折していた朴氏が、南にたどり着いたのは事実です。

ところで、イエスの遺体を包んだとされるイタリアのトリノの聖骸布も、その真贋のほどが取りざたされ、ある人は「偽物だ」と批判します。しかし、万一、聖骸布が偽物であったとしても、それでイエスが十字架で亡くなった事実そのものが否定されるわけではないのです。写真の問題は、それと同じであると言えるでしょう。

「文鮮明を不信させよう!」と意気込む反対牧師の姿は、まさに2000年前のユダヤ教徒がクリスチャン迫害に取り組んだのと同じ姿勢であると言えます。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師が“学歴詐称”って本当?

「学歴詐称」批判の真相

反対牧師は、「文は学歴詐称をしている」と批判します。この〝学歴詐称〟の批判には大きく2つの流れがあります。

 

①批判その1︱︱森山諭牧師の批判の流れ

一つの流れは、森山牧師の批判で、早稲田大学……云々を論ずる以前に、文師の日本留学それ自体が怪しいというものです。

森山牧師著『原理福音統一協会のまちがい』(ニューライフ出版)には、次のように書かれています。

 

「統一協会の資料では、彼は1939(昭和14)年に、釜山から日本に渡り、早大で学んだことになっています。1945年、日本が敗戦。韓国が独立した年に帰国したと言いますが、その前の44年、彼を世話した下宿屋から、悲しい葬儀が出たと伝えます。それは、その下宿屋の美しい娘が大先生に恋していたが、ある時、大先生に扮した男がその美しい娘さんをだまして貞操を奪った。純情なこの美女が大先生に申しわけないとして自殺した。この悲しい事件を通して、大先生は、エバに対するへびの誘惑が、姦淫の罪だと知った(「播植十年—早稲田十年の歩み」62ページ)とします。『この生々しい事件が、彼をして日本への復讐心を抱かせた動機でしょう』、と統一協会を批判するジャーナリストが証言するから、『それはウソです』と語ったところ、『いや、その下宿屋のおばさんがG県に住んでおり、今も文氏から時々手紙や贈物があるので、〝さすが文さんだ〟と賞めているそうです』と言います。私は、『早大で学んでいたというその期間、京城商工実務学校にいるのだから、日本におれるはずがない』と断言しました。あとでそのジャーナリストから、『調べて見たら、やはりウソでした』と伝えてきましたが、この失恋自殺事件は、お涙頂戴のメロドラマにしても、お粗末すぎます」(10〜11ページ)

 

森山牧師は、統一教会の資料の中に、「1938年に日本に留学したとある」としていますが、例によって、この情報の出所を明確にしていません。

確かに森山牧師のいうように、かつて統一教会内では、非公式的に、1938年説、1939年説、1941年説の3種類の説が流布されていたようです。

しかし、森山牧師がこの批判書の改訂三版を出した1985年時点では、すでに統一教会の見解は1941年に統一されており、ジャーナリスト那須聖氏が統一教会について取材し、1984年に出版した『救世主現わる』(善本社)にも、1941年春とされています(37ページ)。

森山牧師は、そのことを十分に調べもしないまま、ただ文師が1941年3月に撮った京城商工高等学校の卒業写真があるという理由で、即、文師の日本留学自体が疑わしいと、勝手に決めつけているのです。

しかし、日本に留学した事実は、当時、文師に下宿を提供した三橋孝蔵夫妻が証言しておられます。三橋氏はその後、何度か文師と手紙のやりとりをしています。また、1997年5月29日には、文師の日本留学時代の写真が見つかっています(1997年7月号「ファミリー」93ページ)。

現在は、森山牧師の流れをくむ批判は、全く聞かれなくなっています。なお、森山牧師は、文師が「終戦の年」に帰国したとしていますが、この情報も間違っており、正しくは1943年10月です。

 

②批判その2︱︱茶本繁正氏の批判の流れ

もう一つの批判は、1977年8月10日出版の茶本繁正著『原理運動の研究』(晩聲社)に端を発する批判の流れで、それは、統一教会関連の出版物に書かれている内容の事実関係を調べようと、早稲田大学の学籍課で調べたが、早稲田大学には文師と思われる人物名が見当たらず、その裏付けを取れなかったというものです(63〜65ページ)。

山崎浩子さんが脱会説得を受けたとき、この茶本氏の流れの批判の影響を受けたようで、著書『愛が偽りに終る時』には次のように書かれています。

 

「文師の学歴だって、『早稲田大学理工学部電気工学科卒』となっていたり、『早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科卒(現在の早稲田大学理工学部)』となっていたり、( )内の注釈がとれていたりと、語られる年代、講師によって様々だ。( )内の注釈がとれたものが本当の学歴らしく、最近はそう言っているが、もちろん早稲田大学の理工学部とは何の関係もない。

別に私は、メシアは大学出じゃなくていいと思う。むしろ学歴なんか関係ないと思う。ただ、最初は大学出のような顔をして、卒業生名簿などを調べられ、ウソがつけなくなってくると、知らぬ間に経歴を変えていく。そのウソのつき方があまりにも滑稽でバカバカしかった。

メシアである文師の学歴は問わずとも、どんな経歴をたどってきたかは重要なことだ。メシアがどんな家に生まれ、どんな環境に育ち、どういう出会いがあってここに至るのかは『主の路程』として語り伝えられ、それだからこうなのだと結論づけられているのだから、それぐらい正確にしてほしいものだと思った。関係者の聞き間違いですまされるものではない。〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」(196〜197ページ)

 

確かに、山崎さんの言うように、主要な統一教会関連の出版物を読み比べてみると、そこに食い違いがあります。

例えば、1970年代前半に読まれていた野村健二著『血と汗と涙』には、「1939年19歳の折、もはや青年になられた文先生は、大学にはいるため、はじめて日本本土に渡られることになった。……日本本土に渡った文青年にとって、この1939年から1945年までの6年間は、イエス様から託された神の使命に向かって公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。……(文先生は)早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(17〜21ページ)とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には、「文先生は、日本の早稲田大学附属早稲田高等工学校電気科で勉強を続けました」(16ページ)とあり、さらに、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には、「東京の早稲田大学で電気工学を学びました」(136ページ)とあります。

文師が入学されたのは、「早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科」というのが正しく、統一教会の月刊機関誌「ファミリー」では、次のように説明しています。

 

「文先生が……学ばれた期間は、1941年4月から1943年9月である。同校は夜間学校で、授業は午後6時から9時半まで行われた。授業の内容は、電気に関する専門的なものが多い。同校は1928年に創立され、1951年に閉校した。……文先生がおられたときの修学年限は3年間であったが、戦争のため6か月繰り上げ卒業となった」(1997年7月号「ファミリー」93ページ)

 

この食い違いの問題に対して、山崎浩子さんは「〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」と断定します。

しかし、果たして、統一教会関係者が意図的に〝嘘をつこう〟としていたのでしょうか、それとも、何か他の理由によるものなのでしょうか。それを見極めることは、とても重要なことです。

日本統一教会が創立されてから20年にも満たない1970代は、組織も十分に整備されていない頃であり、さまざまな伝承が語られ、情報が混乱することは十分あり得たことです。

特に、この文師の留学問題については、まず、文師が日本名を使っておられたこと、早稲田大学附属早稲田高等工学校が閉校されてから久しくなっていたことなどから、その事実関係を調べることが極めて困難だったと推察されます。事実、茶本繁正氏も調べきれなかったのです。

ですから、誰からか「早稲田大学附属……云々だった」と伝え聞いたとき、その裏付けが取れないなかで、〝附属〟という言葉の意味を十分理解できない人の場合、「どうやら早稲田大学の、何とか学部だったらしい」という情報に変貌してしまうことは十分あり得ました。そういう事情から、不幸にして起こった問題だったと言えるでしょう。

もし統一教会関係者に「嘘をつこう」という意図があったなら、むしろこのように情報が混乱すること自体、不自然なことと言えます。

事実、1979年6月25日発刊のF・ソンターク著『文鮮明と統一教会』(世界日報社)には、留学問題に関して「1938年、彼は電子工学を学ぶべく、日本に留学した」と118ページにあるにもかかわらず、その前のページに掲載された韓国の学生時代の写真説明文には、1941年2月27日撮影とあります。1941年2月、いまだ韓国で就学しておられた文師が、どうして1938年に日本へ留学しているのでしょうか?

ページを前後し、こういう初歩的ミスが起こってしまった背景には、本文を書いたソンターク氏は、文師が韓国の学校を卒業したのは18歳と推定し、「留学は1938年」と単純に思い込んでいた統一教会メンバーからその情報を入手して著述し、一方、前ページの写真の説明文は、著者とは違う別の人物が挿入したからだと思われます。

このような本が出回っていたこと自体、統一教会が嘘をつこうとしていたのではなく、当時、教会内で情報が混乱していたことを如実に物語っています。もしそれを「悪意」と言うなら、福音書に書かれたイエスの生涯の記述も、相互矛盾が数多くあることから、「イエスやクリスチャンは人をだまそうと経歴を偽っている」という批判も成り立つでしょう。

〈福音書の相互矛盾の問題については、拙著『「原理講論」に対する補足説明』(広和)の40〜69ページを参照〉

それにしても、このような記述の矛盾をあげつらうことで、さも文師や統一教会が意図的に「学歴詐称」をしていたと、山崎さんに信じ込ませることに成功した反対派の話術に〝狡猾さ〟を感じます。

なお、このような無益な混乱が起こらないためにも、『日本統一運動史』など、日本歴史編纂委員会による公式的な出版物を学ぶことをお勧めします。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師がイエスより啓示を受けた「イースター」は嘘?

文師は1935年4月17日、イエスから特別な啓示を受けられましたが、反対牧師は「それは嘘だ」と批判します。

 

①批判その1︱︱森山牧師の批判の流れ

この点について、森山牧師が『現代日本におけるキリスト教の異端』(以後、『……異端』という)の中で、それは「まっかな嘘だ」と批判しています。『……異端』には、次のように書かれています。

 

「ところで、文氏が、『わたしは16歳の年に宗教体験をして、真理の御霊を受けた』いう話はまっかな嘘です。彼は1920年陰暦1月6日、現在朝鮮民主主義人民共和国にある平安北道定州郡徳彦面に生まれ、本名は文龍明と言いました。昭和15年(1940)5月、文が京城商工実務学校の生徒として、先生や同級生と一緒に写した写真がありますが、彼はそのとき数え年21歳で、同校の電気科に学んでいました。

フェリス女子学院大学英文科主任の園部治夫氏が、その写真を私に示して、『この顔は今のとそっくりでしょう。彼はその当時日本名に改名して、江本竜明と名乗っていました。校長は熱心なクリスチャンの土井山洋先生(現在福岡市在住、九州電気学校校長代理)であり、私も土井先生に招かれて京城商工実務学校に勤めました。同校はミッション・スクールではなかったのですが、学校では盛んにキリスト教の集会を持っていました。文の担任教師は吉村晶先生です。しかし、文は当時まだクリスチャンになっておりませんから、『16歳で聖霊を受けた』というのは嘘です。さきごろ私が教え子たちに招かれてソウルに行ったさい、同窓生たちが、『文のやつ、大ホラ吹きになって学校の名折れだ。同窓会から除名せよ』と非難していました』」(112〜113ページ)

 

森山牧師は、園部氏個人の「文は当時まだクリスチャンになっていない」という証言をもとに、16歳のときの宗教体験はあり得なかったと断定しているのですが、それにしても、園部氏はどのようにして文師がクリスチャンでなかったことを知ったのでしょうか?

この批判は事実誤認に基づくものです。なぜなら、文師は京城商工実務学校に入学し、定州からソウルに移り住んだとき、平壌に本拠地を置く朝鮮イエス教会に所属する、ソウルの明水台教会に足しげく通っていたからです。そのころすでに文師が熱心に信仰している事実は、その教会の権徳八伝道師とともに聖書研究をしている写真、日曜学校の子供たちと礼拝堂前で撮った写真、京城商工実務学校を卒業するとき、明水台教会の卒業生と一緒に撮った写真などを見れば分かります(参考:武田吉郎著『聖地定州』光言社、158〜173ページ)。

 

②批判その2︱︱出版物相互間の食い違い

1980年代後半から、「啓示を受けたとされる日はイースターではない」とか、あるいは、「統一教会の出版物に記載された年月日が食い違っている」など、違ったかたちでの批判が始まりました。

反対牧師の説得で脱会した山浩浩子さんは、「その日はイースターではなかった」とショックを受け、文師を不信し、次のように述べています。

 

「文鮮明師は、1935年4月17日のイースターの時、イエスの霊が現れ、

『私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい』

と啓示を受けた——というふうに私たちは教えられてきた。

しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日が来て満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の4月17日は日曜日ではなかった。

反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年4月17日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、〝イースターの時〟という補足は削除されているようだ」(『愛が偽りに終わるとき』195〜196ページ)

 

確かに、山浩浩子さんが言うように、1935年4月17日は日曜日ではなく、受難週の水曜日に当たっています。(注、1935年のイースターは4月21日)しかし、その日が、現在のキリスト教で祝うイースターではないからといって、文師が嘘をついているということにはなりません。

1978年10月14日に韓国で出版された『統一教会史』(成和社)には、次のように記されています。

 

「先生が(数え年で)十六歳になられた年の復活節、(1935年)4月17日のことであった。この日が本当の復活節であるということも、このとき先生は初めてお分かりになった。それは霊的にイエス様に会われたなかで、初めてあかされたからである。今日、一般のキリスト教で守っている復活節(イースター)記念日は年ごとに異なっている。それはイエス様が亡くなられた日が分からず、復活日も調べようがなく、西暦325年、ニケア公会議において『春分後、初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう』と規定したためであった」

 

つまり、キリスト教自体、イースターがいつなのか分からず、明確でない時代がしばらくあって、AD325年の会議によって決めたのが、現在、キリスト教で祝われているイースターなのです。ゆえに、キリスト教で祝っているイースターは、正確なイエスの復活日かどうかハッキリしないのです。

文師はイエスから「4月17日が本当のイースターである」と知らされたのです。その内容が日本に正確に伝わらなかったために「イースター問題」となったのです。

いろいろな統一教会関係の出版物を調べてみると、反対派がその矛盾をあげつらって指摘しているとおり、出版物相互間に大小さまざまな食い違いがありました。

例えば、1978年に発行された統一教会紹介パンフレット「明日をひらく」には、「1936年4月17日16歳の復活祭の朝にイエス様が現れ」とあり、1988年発行の統一運動紹介パンフレット「世界平和への新しいビジョン」には「1936年のイースターの朝」とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には「1935年4月17日、イースターの朝、文先生は、重要な啓示を受けました」(14ページ)、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には「1936年4月17日日曜日、復活祭(イースター)の日に……」(136ページ)となっています。

どうして、こういう食い違いが生じたのでしょうか? それは、啓示に関する情報が日本に伝わる際、断片的に伝えられたり、あるいは勘違いして受け取ったり、さらには、韓国と日本の風習の違いの問題も、そこに絡んでいたのです。

例えば、「文師が16歳のとき啓示を受けられた」と伝え聞いた人が、韓国社会では、通常〝数え〟で年齢を数えていることに無知であった場合、単純に生年の1920年に16を足して「1936年」としてしまったり、あるいは「文師が啓示を受けた4月17日こそ、本当のイースターだった」という内容が微妙に変化して、「文師は4月17日のイースターに、啓示を受けた」と伝聞されてしまったり、という具合にです。そして十分に確認しないまま、そこに「日曜日」という補足まで入れてしまったのです。

このようにして、情報に食い違いが生じてしまったのでした。その情報の食い違いを反対派があげつらい、監禁現場での脱会説得の材料の一つに利用(悪用?)するようになったのが、「イースター問題」の真相なのです。

初代教会時代においても、福音書をはじめ新約諸文書間に矛盾があり(注:新約聖書の4つの福音書間にも矛盾がある)、それをユダヤ教側が「キリスト教諸文書は自己矛盾している」と批判しましたが、反対牧師の行為は、それと同じなのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

教会内で言われる「先祖の功労」って何?

このコーナーでは、「お問い合わせ」窓口にこれまで寄せられたご質問とその回答を掲載しています。※掲載にあたっては、質問者様の許可を事前に得ています。

-ご質問 –

よく教会内で「先祖の功労」と言われます。

私もその事を疑うわけではないのですが、原理的に言うと、これはアベルの心情の基台の上にノアが召命された、またノアの尽くした心情の基台の上にアブラハムが召命されたという内容と同義と理解してよろしいのでしょうか?

 

【回答1】

質問者の捉え方は間違っていないと思いますが、教会内で言う「先祖の功労」を

最も端的に表現している原理講論の箇所は以下のとおりです。

 

『原理講論』の第6章「予定論」、第3節「人間に対する予定」

 

つぎに、神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるもの

であるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの摂理の目的は、

堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、

その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定さ

れているのである(ペテロ・三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、

神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つ

から始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべて

このようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中

心人物を予定して召命されるのである。

それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきで

あろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければなら

ない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同

じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに

必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であって

も、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後

天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場

所に適合する個体を先に選ばれるのである。

 

 

【回答2】

「先祖の功労」という概念と、「心情の基台」という概念は、深く関連性をもっ

た概念ではありますが、全く〝同義〟であるというわけではありません。(先祖

の〝善行〟が、後世において〝恵沢〟として現れるという意味においては、深く

関連しています。)

 

「先祖の功労」という場合には、〝血統的〟なつながり(つまり、先祖と子孫の

関係)を前提とする意味合いを強くもっています。ところが、アベルとノアは直

接的な血統のつながりがありません。ノアは、セツの子孫であって、アベルの子

孫ではなく、血のつながりが直接的にはないからです。

 

アベル、ノア、アブラハムは、摂理的な中心人物であり、その時代の人々(人類)

を代表する人物です。したがって、摂理的中心人物である彼らは、全体を代表す

る立場にいるため、彼らの勝利は全体の勝利であり、彼らの失敗は全体の失敗を

意味するということになります。(例えば、アブラハムの象徴献祭の失敗は、イ

スラエル民族400年のエジプト苦役につながります。)

 

したがって、その時代、その時代における摂理的中心人物による「心情の基台」

とは、後世において、より全体の人々に対する〝時代的恵沢〟として現れてくる

ようになります。これは、あえて言えば、類的な〝先祖の功労〟と表現すること

ができるかもしれません。

 

『原理講論』の復活論に、「使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身

の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠を尽くし

たので、それだけ堕落人間が、神と心情的な因縁を結ぶことができる基盤を広め

てきたのである。したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前

の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢を

もっと受けるようになるのである」(216ページ)とあるのが、まさにそれです。

 

この場合の「預言者や義人」とは、直接的な先祖・子孫の関係ではないかもしれ

ません。しかし、その「預言者や義人」が積んだ心情の基台は、次の時代に生き

る人々へと残されるというのです。

 

つまり、精誠を尽くすその人が、摂理的にみて、どのレベルに立って〝善行〟を

積んでいるのかが問われてきます。個人レベルなら、それは後孫に対して、個人

レベルでの恩寵がいきますし、家庭レベルでの〝功労〟を積めば、家庭レベルの

恩寵があるということです。

当然、民族を代表するレベルの人物、国家を代表するレベルの人物ならば、民族

レベル、国家レベルでの恩寵があるということになります。

 

アベルやノアの「心情の基台」という場合には、神様を中心とした摂理の中で、

神様から召命を受けた人物が、全体を代表し、どこまで精誠を尽くしたのかによっ

て、全体が恵沢を受けるという、より公的な意味合いが強く含まれてくると見て

もいいでしょう。(それは、民族、国家、世界レベルでの〝先祖の功労〟という

ことになります。)

 

それに対し、「先祖の功労」という場合は、先祖が、他の家庭や地域社会の人々

に対し、より善良に生き、より犠牲となって尽くして生きた場合、その直接的な

子孫(血のつながりのある者)が、恵沢を受けるということになります。

『原理講論』の予定論に、「召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべ

きであろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければ

ならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない」

(246ページ)とありますが、ここでいう「先祖の功績」というのが、まさに

「先祖の功労」ということに他なりません。(『原理講論』には、この「善なる

功績」という言葉が何度か出てきます。)

 

「選民の一人として生まれる」というのは、より全体の〝類的〟な立場のことを

言っており、そこには、クリスチャンたちが摂理的中心人物として築き上げてき

た「心情の基台」というものが含まれています。そして、次の条件として述べら

れている「善なる功績」というのが、直接的な血統のつながりという側面のこと

を言っています。

 

ちなみに、出エジプト記20章5節に、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

わたし(神)を愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至る

であろう」と記されていますが、この十戒の言葉などは、俗に言う「先祖の功労」

あるいは「先祖の因縁」を言い表したものであると言えるでしょう。

 

ところで、キリスト教においては「先祖の功労」「先祖の因縁」という考え方を

極度に嫌い、完全否定するクリスチャンが多くいます。しかしながら、その反面、

それを力説しているクリスチャンもいます。その代表的なものを次に紹介してお

きます。

沢村五郎著『基督教案内』(クリスチャン文書伝道団)には、次のようにありま

す。この書籍は、伝道などでよく用いられました。

 

「アメリカにマックス・ジュークという酒飲みの道楽者がいました。彼は自分に

似たような道楽女を妻にめとり、子が生れ孫ができて、八代余りも続いた後、そ

の血を受けた者、二千七十七人について調べて見たところ、三百十人はこじき、

百三十人は前科者、七人は殺人犯、六十人はどろぼうの常習犯、三百人は若死に、

四百人は白痴または不具者、四百四十人は梅毒患者、三百十人は行き倒れ、五十

人は不義の夫婦で残った二十人は正業に従事しているが、そのうち十人は入獄中

覚えた職業によって生活をしており、この一族のためニューヨーク州が使った費

用が二百五十万ドル以上であったとのこと、これによっても一人の人の罪がどれ

だけ多くの人に災いを及ばすものであるかがわかりましょう」(36ページ)

 

また、山室軍平著『平民の福音』にも同様の内容が、次のように記されています。

 

「今から百七、八十年ばかり前、ドイツにアダ・ヨークという婦人が生まれたが、

この婦人は年長ずるに及んで大変な大酒家となり、路頭にまようほどにおちぶれ

て、六十幾歳かで死んだ。しかるに後日、その国の大学教授ベルマンという人が、

思う仔細あってこのアダ・ヨーク女の子孫の成り行きを取調べ、真に驚くべき罪

とがの繁殖力の実例を見いだした。すなわち、この婦人の血筋を引いた男女の数

は、すぐる百数十年間に合わせて八百三十四人あり、取調べの届いた七百九人だ

けについて見ても、その中私生児の数が百九人、こじきになった者が百四十二人、

養育院の世話になった者が六十四人、醜業婦となった者が百八十一人、犯罪人の

数が七十六人、しかもその内の七人は殺人罪を犯した者であり、最近七十五年間、

養育院、刑務所等にて、この一族のために費やした金額は、実に二百五十万円余

りであった、ただひとりの罪とががその後世子孫をわづらわすことも、ここに至っ

てはなはだしいではないか」(35ページ)

 

また、それとは反対に、アメリカの第一次大覚醒運動の立て役者の一人、ジョナ

サン・エドワーズ(1703~1758、牧師、伝道者、神学者)の子孫について、優れ

た人物が多く排出されたとして、次のように述べ、賛美しています。

 

「ジョナサン・エドワーズの子孫1394人の足跡を追跡調査したところ、多くの優

れた人物を輩出されており、大いに社会貢献している。

大学総長が13人。大学教授が65人。アメリカ合衆国上院議員が3人。裁判官が30

人。弁護士が100人。医師が60人。兵士と海軍士官が15人。伝道者と宣教師が100

人。作家が60人。公務員が80人」

 

このように、俗に言われる「先祖の功労」「先祖の因縁」のようなことを強調し

て述べているクリスチャンもいることはいます。

「霊人体の繁殖」と「霊人体の成長」はどのように違うのでしょうか?

このコーナーでは、「お問い合わせ」窓口にこれまで寄せられたご質問とその回答を掲載しています。※掲載にあたっては、質問者様の許可を事前に得ています。

-ご質問 –

「霊人体の繁殖」と「霊人体の成長」はどのように違うのでしょうか?

 

-回答-

ご連絡ありがとうございます。

さて、「『霊人体の繁殖』と『霊人体の成長』はどのように違うのでしょうか?」とのご質問についてですが、以下、ご説明いたします。

 

まず、「霊人体の成長」についてですが、これは肉身が成長し、幼年期、少年期、青年期を経ながら、やがて成人していくのと同様、霊人体も成長して、やがて完成していくことを意味しています。

 

肉身の成長とは、外的な肉体が、幼年期、少年期、青年期と大きくなっていくことですが、それに対し、霊人体の成長は、『原理講論』に次のように説明されています。

 

「霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という」(87ページ)

 

肉身の成長は、身長の伸び具合で計測したり、体重の増加具合などで量ることができますが、霊人体の場合には、「愛の体恤」の度合いに応じてなされる、人格完成の度合いによります。

成長途上にある長成期の霊人体を「生命体」といい、完成期にある霊人体を「生霊体」というとありますが、その違いを『原理講論』は次のように説明しています。

 

 「イエスは……復活後、霊界においても、弟子たちと異なるところのない霊人体としておられるのである。ただ、弟子たちは生命体級の霊人で、受けた光を反射するだけの存在であるのに比べて、イエスは、生霊体級の霊人として、燦爛たる光を発する発光体であるという点が違う」(259ページ)

 

ちなみに蘇生期の霊人体を、『原理講論』は次のように述べています。

 

「では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた(新約時代の)楽園から見れば、旧約時代の聖徒たちがとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである」(154ページ)

 

以上のように、霊人体の成長は、光輝いている美しい姿なのか、それとも闇のように、暗く醜い姿なのかで、その成長の度合いを知ることができるということです。すなわち、その光りかたが、その霊人体の成長のバロメーターになると言えます。

次に、「霊人体の繁殖」についてです。『原理講論』には、次のように記されています。

 

「また、霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる」(88ページ)

 

すなわち、ここでいう「霊人体の繁殖」とは、個性真理体としての人間の数(人数)がふえていくことを言います。霊人体は、肉身生活を土台としてのみ、成長し完成するため、その繁殖(数の増加)も、肉身を土台として、子女が生み殖えることによって、霊人体の数も増加していくという意味です。

そのことについて、文先生は次のように、み言を語っておられます。

 

 「女性には1カ月に1度ずつ生理がありますね。誰のためですか。子孫がどれほど貴いかを知らなければなりません。(神様が)アダムとエバを造られた目的は、天国の民を生産することです。霊界では生産ということがありません。

 神様は縦的な愛の主人であられるので、縦的なことにおいて軸が一つしかありません。一点しかないのです。一点では生産できないので、横的な面積が必要なのです。それで、人間と一つとなり、天国の民をたくさん繁殖し、移譲するというのが神様の創造目的です」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」94ページ)

 

上記、ご参考になれば幸いです。