『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。
批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。
かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。
ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)
CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える
統一教会の教義 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ