浅見定雄氏の批判
統一教会は、心身障害者を受け入れない。受け入れないどころか、彼らを、前世の因縁が悪いとか悪霊がついているからだと言って蔑視している。これは、聖書の教え(キリスト教)とは真反対の教えである。ヨハネ福音書第9章には、はっきりと盲人であるのは本人の罪でも、親の罪でもないと書かれている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』11ページ)。
批判に対する回答
統一教会が心身障害者を信徒として受け入れないなどという方針はどこにも存在しない。「統一原理」の内容を理解し、受け入れることのできる者は誰でも信徒になれる。実際、統一教会の職員の中には身体障害者もいる。ただし、教会の業務に専従するためには、それに相応する心身の健康が要求されることは当然である。このことは、カトリック、プロテスタントを問わずどこの教会でも同じことであろう。
心身障害者になった原因という問題であるが、「統一原理」はすべての物事の原因には内的側面と外的側面のあることを主張する。外的側面というのは地上界からのものであり、内的側面とはそれを超えた霊的側面からのものである。内的側面の中には神からの直接的なものをはじめ、先祖の霊を含めたいわゆる霊界(天界)の霊人からの影響も含まれる――出エジプト記20章5節参照。ただし、浅見氏が言うような〈前世〉すなわち〈輪廻転生思想〉は「統一原理」にはない――。
ところで浅見氏の言うヨハネ9章の解釈の問題であるが、イエスの「神のみわざがあらわれるために」と言う言葉は、そのときの状況を十分考慮しつつ解釈されるべきである。イエスがここで意図したことは、“病気や一切の不幸が先祖や本人の犯した罪と全く関係がない″といった普遍な真理を表明することにあったのではなく、弟子たちが、その盲人に関する罪の原因の所在をあれこれ考えていたときに、“今、大事なことはそういうことではない。人間は皆等しく罪人であって、その意味ではこの盲人も他の者もなんら変わるところがない。大切なのは眼の前にいるメシヤをメシヤと認めて、一日も早く救いに入れられることなのだ”ということにあったといえる。
この部分については『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社)も次のように言っている「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の受難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(487ページ)。
すなわち、この場合、見当はずれの質問に対して解答が避けられ、それをきっかけにして新しい別のメッセージが語られているのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)