浅見定雄氏の批判
『講論』は人間始祖の堕落の問題をすべて「セックス」と関係づけている(浅見定雄『統一協会=原理運動――その見極め方と対策――』148ページ)。
批判に対する回答
『講論』は、人間始祖の堕落を単なる「セックス」と関連づけているのではなく、そこで真に主張されている内容は、人間始祖による“愛の秩序の破壊”と言うことなのである。楽園(神の国)は、神を中心とした愛の秩序の下に築かれなければならなかった。この愛の秩序の破壊が楽園喪失の真意だったのである。ところでこの愛の秩序は性的な次元で最もシビアに表れる。人間始祖の堕落も、性的な次元において決定的な出来事として生起したのである。
人間始祖の堕落の背後に性的な問題が潜んでいるという考えは、これまでにも見られた。例えば『カトリック聖書新注解書』は、神話的表現の背後に堕落の性的要素が語られているとして次のように述べている。少し長くなるが参考のため以下に紹介しておきたい。
「聖書の作者によって表明されている人祖の罪は、異教徒の神話となんらかの関連があると考えられる。作者は、これらの神話を良く知っていたに違いない。彼は、自分と同時代に生きているだけでなく、同じ文化的背景を持つ男女のために書いたのである。その読者たちは著者と同程度の教養を持っていなかったと考えられる。著者は、物語を記述するに当って、故意にあるいは無意識のうちに(ただし意識的であった可能性が大きい)、読者が知っている近隣諸国の神話や伝説を利用せざるを得なかった、という事実を否定することはできない。すぐれた語り手として、著者は同時代の人々に、すべての人が持っている罪への傾きを説明するために、誘惑と堕落をすぐれた方法で描写したと思われる。これが、コペンスなどによって推唱されている罪の〈性的〉解釈の基礎である。
蛇は、パレスチナにおけるカナン人の宗教において、セム族の諸宗教におけると同様に、性の象徴であった。蛇は、カナン人によって、神バアルおよび女神アシェラ(共に多産の神)と関連づけられていた。この関連づけから、イスラエル人聴衆にとって、蛇が悪魔的儀式への誘惑の象徴であったことが容易に理解できる。カナンにおけるイスラエルの歴史を通じて、バアル崇拝はイスラエルの民にとって非常に魅惑的であった。この民の傾きに対して、律法と預言者は絶え間なく非難を続けたが、警告が聞き入れられない場合が多かった。〈善悪の知識〉は道徳全般に関するものであったが、性的知識に関連づけて使われている(申1:39、サムエル下19:35)。〈禁断の実〉を食べることは、女神アシェラの礼拝の際に行われた〈ぶどう菓子〉を食べる(ホセア3:1)のと同様に性に関連したことを思い起こさせたのであろう。最後に、男女は罪を犯した直後に、性に気づいた。そして、女への罰は性の次元で宣告される。確かに、聖書作者は、性そのものが悪であるとか、あるいは神が男女に求めた理想的状態においては性交がなかったとか言おうとしているのではない。それとは反対に、すでに見たように(創2:24)、作者は一夫一妻の結婚が神によって定められた制度であることを教えている。むしろ、作者は、カナンの影響によってイスラエル人に伝染する危険のある性に関する悪弊、例えば、多産の神への祈願、または本来の目的に反する性の体験などを暗示しているのであろう」(エンデルレ書店205ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)