嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(上)

平成10年(1998年)4月1日 中和新聞 
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(上)
今回は、『原理講論』の中で、モーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する部分を取り上げてみます。この部分はよく統一教会に反対する人たちや誤解する人により、意図的に曲解されて統一教会を攻撃するために使われる部分です。神のみこころについて語ったものを、反社会的、違法な内容を教えるものだと解釈するその人たちの意図や誤解を正していかなくてはなりません。

 宗教の経典の多くは矛盾内包

教会に反対する人たちが、ヤコブやモーセ路程の『原理講論』の解説を引用して、あたかもそれらが統一原理の教えであり、統一教会が殺人や略奪行為、またはヤコブの嘘などを正当化しているがごとく主張し、統一教会が反社会的行為を教理上において奨励していると主張していますが、それはまさに自分たちの不当な訴えを正当化するために、意図的に曲解した解釈にほかなりません。
それらの人たちは、宗教書における言語にはさまざまな問題があることを全く無視しています。そもそも宗教における経典(教祖の言葉を含む)や教理霄には。一見矛盾すると思われる表現が数多く見いだされます。そのためにそれらの表現を調和させ、その表現上の矛盾を解消するために何らかの解釈施す必要性が生じてくるのです。
例えば、キリスト教の経典である聖書においても、イエス・キリストは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書五章9節)と教えていますが、一方では為を教理上において奨励し「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っている・:そうではない。むしろ分裂である」(ルカによる福解音書十二章51節)などと、全く矛盾すると思われることを述べています。
また、「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ぱれるであろう」(マタイによる福音書五章18~19節)と語る一方、自らは「安息日の主である」(同一二章8笳)と称して安息日の戒律を破ったり、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」(ルカー六章9節)などと教えたりしているのです。

また後にも述べますが.マタイー五章4節では「父と母とを雅又」という神の戒めを奨励しながらも、ルカー四章26節では「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ.わたしの弟子になることはできない」などと、あたかも父母を捨てることを奨励するかのごとく語っているのです。
以上の様に、経典や教理解説書の中には一見矛盾すると思われる表現が少なからず見受けられるので、その見かけ上の矛盾を解消するために「神学(言語の解釈)」がどうしても必要となってきたのです。その結果、キリスト教では厖大(ぼうだい)な神学書や注解書が生れたのでした。
このように宗教的言語にさまざまな学問的釈義問題があるにもかかわらず、反対する人たちはそのようとな諸事情を無視し、宗教法人世界棊腎教統一神霖塰=(以下当法人という)の発行している出版物の言語を、当法人にその正確な概念規定や意義を確認することもなく、自分かってな意図的解釈を施し、当法人を誹謗(ひぼう)中傷しようと画策しているとしか思えません。

神は人間の成長と進歩に即して摂理

それではそれらの人たちが問題にしているヤコブとモーセ路程に関して、以下に反論します。
神の救いの摂理の本質は「サタンを自然屈伏」してなされるもので、決して強制や何らかの策略またはごまかしによってなされるものではありません。「サタンを自然屈服」するとは、中心人物の愛と真理と精誠によって、霊界のサタンとそれに相対する地上の人たちが心から感動して、敵対していたものが神の愛により一つとなり、神を中心とした人間世界が取り戻されていくことにほかなりません。メシヤとはまさにそのような神を中心とした人間関係を取り戻すために、来られる方なのです。
したがって、そのような「サタンが自然屈伏する」過程、すなわちサタンやサタンの側に立つ人たちが自然に本心で納得して心から屈伏する過程で、殺人やだまし、あるいは脅迫といった強制的、暴力的手段が取られることは、決して摂理の本来的形ではありません。しかし神の救いの摂理は、人類の歴史的心霊と知能の成長と進歩に即して行われるものであり、そのような段階的摂理を『原理講論』は、「サタンを屈服してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった」(342㌻)と記しています。
したがってあくまでも、ヤコブ路程は象徴型(蘇生型)、モーセ路程は形象型(長生型)摂理なのであり、イエス路程に至って初めて実体型(完成型)として展開されたというのです。したがってヤコブやモーセが歩んだ路程とは、どこまでも象徴的・形象的な表示であって、本来あるべき神の実体的な摂理をそのまま表しているわけでは決してありません。
ノア家庭における摂理においても、統一教会に反対する人々は、『原理講論』の。「裸を恥じることは罪であった」との教説(311㌻)を盾にとって、「統一教会は裸になることを奨励している」などといった的はずれな批判をしているわけですが、これに閧しても『原理講論』は、「裸を恥ずかしがることがだれにとっても罪になるのであろうか。そうではない。……アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである」(312㌻)と、はっきりと時代的限定的摂理であったことを明記しています。
このような旧約聖書の記述に関する歴史的段階的解釈は、決して統一教会だけに限ったことではありません。キリスト教においても同様な見解が見られます。『聖書事典』(日本基督教団出版局)31-32㌻には、次のように述べられています。
「……イスラエル民族を通してなされた神の啓示が、今日から見て多くの欠陥をもっていることは否定することができない。その表現において原始的・神話的であるものが少なくない。神の属性、神の意志行動の表現がすべて人間的であるばかりでなく、神に対する人間の態度もあたかも人間の主君や裁判官や父母に対するようにあらわされている。
けれども旧約聖書をすこし注意して読む人は、神の啓示がイスラエル民族の歴史の進展、その文化の発達に伴って展開され、次第に高く深くなっていったことを認めざるを得ないであろう。すなわちイスラエル民族の初期の遊牧時代から、カナン移住後の農耕時代を経、更に王朝時代からアッシリヤ、バビロニヤとの国際関係を経て王国の滅亡、人民の追放捕囚と、移り変わったイスラエル民族の歴史は、その間に起った幾多の預言者により、また先進諸国民との接触交渉によってイスラエル人民の知識思想が次第に発達進歩し、これと同時に彼らの道徳も宗教もともに進歩発達したことを示しているのであって、我々はここに神の啓示の進展を認めざるを得ないのである。
もちろん、これは神の知識思想が進歩発達したことを意味するものではなく、神が選民イスラエルの知的・宗教的発展に伴ってその啓示を展開されたことを意味するのである。われわれが旧約聖書を年代順に注意して読むならば、その思想にも、道徳にも、信仰にも、低きより高きに、物質的より精神的に、肉体的より霊的に進歩発展していった跡を認めることができるであろう。けれどもなお、旧約だけの範囲では神の啓示も、結局、人間の人格、惷、道徳の不完全によって制限されざるを得なかった」

 統一教会の教えの中心は「愛と許し」

ヘンリー・シーセンの『組織神学』190㌻にも、今日の倫理道徳観念から見て理解できない旧約聖書の記述問題に対して、「……キリスト教以前の時代には、絶対的でなく相対的な意味で正当と認められたこともいくつかある」とか「みなごろしの戦争は、腐った手足を切断することによって、後世のへブル民族を救おうとされる、慈悲深い神の外科手術にすぎなかった」(同191㌻)などと述べています。
このように旧約摂理はあくまでも、その時代のみに許された時代的摂理であって、今日も同様にすべき普遍的倫理道徳基準を述べているのではありません。自然屈服の本質とはあくまでも愛することです。したがって実体的摂理を歩まれたイエス様は、敵を暴力的に打ち負かすのではなく、逆に「汝の敵をも愛せよ」と教えられたのです。
同様に文鮮明先生の教えも、「怨讐(おんしゅう)を愛せよ」という思想に満ちあふれており、その教説中に、殺人や略奪、だましなどを自然屈伏の方法として推奨する表現はありません。文先生はその説教の中で「天国に入ろうとするならば、怨讐を愛さなければなりません」「神様が怨讐を打ち殺すのではなく、怨讐を愛したという条件……を立てねばなりません」(1986年2月22日、韓国ソウルでの説教)と語られており、最終的にいかなる敵をも愛し許すことが、復帰摂理の本質であることを強調されています。
このように統一教会は、文先生の教えに藁つき、その信者に対して.神様の頽う愛と人格をもつ者となり、怨讐ともいうべき人々に対しても無条件の許しと愛と精誡を尽くし、それらの人々が、自然に背後にいる神様を信じ、神様の愛を受け入れるようになり、最終的に敵対するすべてのものが和解し、一つとなっていくことができる「自然屈伏」の道を教えているのです。      (「下」に続く)