「ルーシェル」の存在は聖書の誤訳から生じた俗説?

AG_DE_HV_HL_39浅見定雄氏の批判
「ルーシェル」と言う言葉は、「明けの明星」に当たるヘブル語「ヘーレール」(輝くものの意)の誤訳から生じたものであり、後世のキリスト教で生まれた俗説であって実在するものではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』17ページ)。

批判に対する回答
イザヤ14:12の「明けの明星」は、確かにヘブライ語原典では〈ヘーレール〉であり、その意味は〈輝くもの〉である。しかしながら、この言葉は〈黎明の子〉を意味するヘブライ語〈ベン・シャハル〉と対で使用されているのであるから、単に輝くものを意味しているのではなく、夜明けにおける輝くものであり、結局、明けの明星を意味している。

イザヤ14:12のヘブル語〈ヘーレール〉がラテン語に訳されるとき、ラテン語の〈Lucifer〉(「発光」、「明けの明星」の意)があてられ、それが英訳へと受け継がれてきたと考えられる。これは、誤訳というより意訳というべきものである。以下この部分についてもう少し詳しい考察をしてみたい。

このイザヤ14:12の聖句の背景には当時カナンに伝わっていたウガリット神話があることを学者は指摘している。例えば、『旧約聖書略解』には「カナンに流布されていたウガリット神話から取材したものである。ウガリット神話には夜明け、または、明けの明星の神シャハル〈夜明け〉のことやシャハルの子ヘラル〈明星〉のことが書かれてある」(日本基督教団出版局、675ページ)とあり、また『ATD旧約聖書注解18イザヤ書』には「ウガリットの人々においては、シャカルとシャリム、すなわち夜明けとたそがれの薄明かり、もしくは明けと宵の明星の対の神々の誕生についての典礼的な物語が見出される。……光を放ちつつ現れ出る明けの明星は、立ち昇る太陽の光によって色あせてしまう。カナン人もまた夜明けの薄明かりの神シャカルたる明けの明星が、雲居と星々のはるか上方に住まう至高の神の王座を覆そうと身のほど知らずにも思い上がったことを語っていたと見てよいだろう」(68~69ページ)と述べられている。

このようなことからも、イザヤ14:12におけるヘブル語〈ヘーレール〉は単に〈輝くもの〉の意とするだけでは、文脈からの理解としては不足であって、この言葉は明らかに〈明けの明星〉を意識して使われているといえよう。

ところで、浅見氏によると「ルーシファ」が、「天上から落とされた大天使」とか「サタン」であるという説明は、後のキリスト教で生まれた俗説であり、研究社の『新英和大辞典』では「イザヤ書14:12の誤訳から」となっている、と言うことであるが、ハーバード大学で博士号を取得したという聖書学者が、神学文献の代わりに英和辞典を引き合いに出すとは驚きである。

大辞典であれば権威があるというのであれば、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)では「①天から落ちた傲慢な大天使:Satanと同一視される、②《文語》明けの明星 「morning star」とあり、『WEBSTRE`S NEW UNIVERSAL UNABRIDGED DICTIONARY』(published by New World Dictionerie/Simon & Schaster)という32万語からなる大辞典では、「①the planet venus, when it is the morning star. ②Satan, especially as the leader of revolt of angels before his fall.」とある。

念のため英語の辞書としては世界で最も権威があるといわれる『OXFORD ENGLISH DICTIONARY』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)を見てもだいたい同じ意味の事が書かれている。これらの辞典は研究社の『新英和大辞典』にも引けを取らない大辞典であるが、むしろ『講論』に近い説明が書かれてある。しかしながら、いくら大辞典といえども専門書でないものをもって、われわれは云々するつもりはない。

さて、イザヤ14:12の「明けの明星」が〈天から落とされた大天使〉ないしは〈サタン〉を意味するかどうかという問題については、諸説のあることは事実である。確かに、この聖句は、直接的にはバビロンの王を指していると思われるが、しかし、それを通して、その背後にサタンをも示しているとの理解は、特に福音派の人たちから伝統的に支持されてきた。

例えば、ルネ・パーシュはサタンの起源に関して、「聖書は、多くの詳しい説明を与えていない。しかし、エゼキエル書28章12~27節と、イザヤ書14章12~15節の二個所で、聖書は、ベールの片隅を持ち上げている。預言者はツロとバビロンの王たちを越えて、そこに、これらの人物を自分の道具としている者を見る(イエスがヘテロに〈サタンよ、わたしの後に行け〉と言われたように)」(『再臨』いのちのことば社、182ページ)と述べており、また、『聖書教理ハンドブック』では、「少なくとも二つの聖句が、サタンの本来の性格を示し、彼が天から堕落したことを述べている、①エゼキエル書28章12~19節、……②イザヤ書14章12~15節……」(いのちのことば社、74ページ)と述べられている。

その他、『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)には「ルシファー(明けの明星)の堕落がしるされている。〈明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。……〉この事は、次の主の言葉によってくり返されているのではないだろうか〈わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た〉(ルカ10:18、黙12:7~9と比較せよ)」(74ページ)と述べられている。

なお、『講論』が、サタンの存在や、天使長ルーシェルについて、これほどまでに確言する背景には、聖書における証言のほかに、文師自身が天界で体験してきた啓示的事実――文師自らが神と一問一答し、天界で人間の始祖アダム・エバに会い、サタンと対決しその中で与えられた事実――が存在する。おそらく、多くの人は、すぐさまこのようなことは信じられないであろう。実際、今日、サタンはおろか天使の存在さえ疑問とする人も多いのである。

多くの学者は、〈サタン〉という概念は、中間時代の「ユダヤ思想」において発展してきたものと指摘する。しかしこのことは、サタンの実在性を軽視する理由にはならない。なぜなら、このような“概念の発展”という問題については、ヘブライ人の「神観」についても同様のことがいえるからである。もし神の本質が漸次啓示されてきたと見ることができるならば、〈サタン〉と言う概念についてもそのようなことがいえないことはない。

サタンの実在性については、後期ユダヤ教のラビたち、原始キリスト教における新約聖書の記者たち、そしてそれに続く教父たちをはじめ、多くの伝統的な神学者、ルター、カルヴィンに至るまで、それを強調してきた。しかし、啓蒙主義の時代以降、神学者の間には、サタンや天使の存在を軽視する傾向の出てきたことも事実である。

しかしながら、昨今の複雑な世相を反映して、悪(罪)に対するこのような楽観的(リベラル)傾向に対し、もう一度この世の悪と言うものの背後にある「人格的な力」(サタンの実在性)を見直そうとする動き――例えば、ドイツのヘルムート・ティーリケやスウェーデンのグスターフ・アウレン――の出てきたことは大いに注目すべきことである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)