このコーナーでは、「お問い合わせ」窓口にこれまで寄せられたご質問とその回答を掲載しています。※掲載にあたっては、質問者様の許可を事前に得ています。
-ご質問 –
よく教会内で「先祖の功労」と言われます。
私もその事を疑うわけではないのですが、原理的に言うと、これはアベルの心情の基台の上にノアが召命された、またノアの尽くした心情の基台の上にアブラハムが召命されたという内容と同義と理解してよろしいのでしょうか?
【回答1】
質問者の捉え方は間違っていないと思いますが、教会内で言う「先祖の功労」を
最も端的に表現している原理講論の箇所は以下のとおりです。
『原理講論』の第6章「予定論」、第3節「人間に対する予定」
つぎに、神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるもの
であるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの摂理の目的は、
堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、
その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定さ
れているのである(ペテロ・三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、
神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つ
から始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべて
このようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中
心人物を予定して召命されるのである。
それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきで
あろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければなら
ない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同
じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに
必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であって
も、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後
天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場
所に適合する個体を先に選ばれるのである。
【回答2】
「先祖の功労」という概念と、「心情の基台」という概念は、深く関連性をもっ
た概念ではありますが、全く〝同義〟であるというわけではありません。(先祖
の〝善行〟が、後世において〝恵沢〟として現れるという意味においては、深く
関連しています。)
「先祖の功労」という場合には、〝血統的〟なつながり(つまり、先祖と子孫の
関係)を前提とする意味合いを強くもっています。ところが、アベルとノアは直
接的な血統のつながりがありません。ノアは、セツの子孫であって、アベルの子
孫ではなく、血のつながりが直接的にはないからです。
アベル、ノア、アブラハムは、摂理的な中心人物であり、その時代の人々(人類)
を代表する人物です。したがって、摂理的中心人物である彼らは、全体を代表す
る立場にいるため、彼らの勝利は全体の勝利であり、彼らの失敗は全体の失敗を
意味するということになります。(例えば、アブラハムの象徴献祭の失敗は、イ
スラエル民族400年のエジプト苦役につながります。)
したがって、その時代、その時代における摂理的中心人物による「心情の基台」
とは、後世において、より全体の人々に対する〝時代的恵沢〟として現れてくる
ようになります。これは、あえて言えば、類的な〝先祖の功労〟と表現すること
ができるかもしれません。
『原理講論』の復活論に、「使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身
の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠を尽くし
たので、それだけ堕落人間が、神と心情的な因縁を結ぶことができる基盤を広め
てきたのである。したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前
の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢を
もっと受けるようになるのである」(216ページ)とあるのが、まさにそれです。
この場合の「預言者や義人」とは、直接的な先祖・子孫の関係ではないかもしれ
ません。しかし、その「預言者や義人」が積んだ心情の基台は、次の時代に生き
る人々へと残されるというのです。
つまり、精誠を尽くすその人が、摂理的にみて、どのレベルに立って〝善行〟を
積んでいるのかが問われてきます。個人レベルなら、それは後孫に対して、個人
レベルでの恩寵がいきますし、家庭レベルでの〝功労〟を積めば、家庭レベルの
恩寵があるということです。
当然、民族を代表するレベルの人物、国家を代表するレベルの人物ならば、民族
レベル、国家レベルでの恩寵があるということになります。
アベルやノアの「心情の基台」という場合には、神様を中心とした摂理の中で、
神様から召命を受けた人物が、全体を代表し、どこまで精誠を尽くしたのかによっ
て、全体が恵沢を受けるという、より公的な意味合いが強く含まれてくると見て
もいいでしょう。(それは、民族、国家、世界レベルでの〝先祖の功労〟という
ことになります。)
それに対し、「先祖の功労」という場合は、先祖が、他の家庭や地域社会の人々
に対し、より善良に生き、より犠牲となって尽くして生きた場合、その直接的な
子孫(血のつながりのある者)が、恵沢を受けるということになります。
『原理講論』の予定論に、「召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべ
きであろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければ
ならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない」
(246ページ)とありますが、ここでいう「先祖の功績」というのが、まさに
「先祖の功労」ということに他なりません。(『原理講論』には、この「善なる
功績」という言葉が何度か出てきます。)
「選民の一人として生まれる」というのは、より全体の〝類的〟な立場のことを
言っており、そこには、クリスチャンたちが摂理的中心人物として築き上げてき
た「心情の基台」というものが含まれています。そして、次の条件として述べら
れている「善なる功績」というのが、直接的な血統のつながりという側面のこと
を言っています。
ちなみに、出エジプト記20章5節に、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
わたし(神)を愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至る
であろう」と記されていますが、この十戒の言葉などは、俗に言う「先祖の功労」
あるいは「先祖の因縁」を言い表したものであると言えるでしょう。
ところで、キリスト教においては「先祖の功労」「先祖の因縁」という考え方を
極度に嫌い、完全否定するクリスチャンが多くいます。しかしながら、その反面、
それを力説しているクリスチャンもいます。その代表的なものを次に紹介してお
きます。
沢村五郎著『基督教案内』(クリスチャン文書伝道団)には、次のようにありま
す。この書籍は、伝道などでよく用いられました。
「アメリカにマックス・ジュークという酒飲みの道楽者がいました。彼は自分に
似たような道楽女を妻にめとり、子が生れ孫ができて、八代余りも続いた後、そ
の血を受けた者、二千七十七人について調べて見たところ、三百十人はこじき、
百三十人は前科者、七人は殺人犯、六十人はどろぼうの常習犯、三百人は若死に、
四百人は白痴または不具者、四百四十人は梅毒患者、三百十人は行き倒れ、五十
人は不義の夫婦で残った二十人は正業に従事しているが、そのうち十人は入獄中
覚えた職業によって生活をしており、この一族のためニューヨーク州が使った費
用が二百五十万ドル以上であったとのこと、これによっても一人の人の罪がどれ
だけ多くの人に災いを及ばすものであるかがわかりましょう」(36ページ)
また、山室軍平著『平民の福音』にも同様の内容が、次のように記されています。
「今から百七、八十年ばかり前、ドイツにアダ・ヨークという婦人が生まれたが、
この婦人は年長ずるに及んで大変な大酒家となり、路頭にまようほどにおちぶれ
て、六十幾歳かで死んだ。しかるに後日、その国の大学教授ベルマンという人が、
思う仔細あってこのアダ・ヨーク女の子孫の成り行きを取調べ、真に驚くべき罪
とがの繁殖力の実例を見いだした。すなわち、この婦人の血筋を引いた男女の数
は、すぐる百数十年間に合わせて八百三十四人あり、取調べの届いた七百九人だ
けについて見ても、その中私生児の数が百九人、こじきになった者が百四十二人、
養育院の世話になった者が六十四人、醜業婦となった者が百八十一人、犯罪人の
数が七十六人、しかもその内の七人は殺人罪を犯した者であり、最近七十五年間、
養育院、刑務所等にて、この一族のために費やした金額は、実に二百五十万円余
りであった、ただひとりの罪とががその後世子孫をわづらわすことも、ここに至っ
てはなはだしいではないか」(35ページ)
また、それとは反対に、アメリカの第一次大覚醒運動の立て役者の一人、ジョナ
サン・エドワーズ(1703~1758、牧師、伝道者、神学者)の子孫について、優れ
た人物が多く排出されたとして、次のように述べ、賛美しています。
「ジョナサン・エドワーズの子孫1394人の足跡を追跡調査したところ、多くの優
れた人物を輩出されており、大いに社会貢献している。
大学総長が13人。大学教授が65人。アメリカ合衆国上院議員が3人。裁判官が30
人。弁護士が100人。医師が60人。兵士と海軍士官が15人。伝道者と宣教師が100
人。作家が60人。公務員が80人」
このように、俗に言われる「先祖の功労」「先祖の因縁」のようなことを強調し
て述べているクリスチャンもいることはいます。