文師は1935年4月17日、イエスから特別な啓示を受けられましたが、反対牧師は「それは嘘だ」と批判します。
①批判その1︱︱森山牧師の批判の流れ
この点について、森山牧師が『現代日本におけるキリスト教の異端』(以後、『……異端』という)の中で、それは「まっかな嘘だ」と批判しています。『……異端』には、次のように書かれています。
「ところで、文氏が、『わたしは16歳の年に宗教体験をして、真理の御霊を受けた』いう話はまっかな嘘です。彼は1920年陰暦1月6日、現在朝鮮民主主義人民共和国にある平安北道定州郡徳彦面に生まれ、本名は文龍明と言いました。昭和15年(1940)5月、文が京城商工実務学校の生徒として、先生や同級生と一緒に写した写真がありますが、彼はそのとき数え年21歳で、同校の電気科に学んでいました。
フェリス女子学院大学英文科主任の園部治夫氏が、その写真を私に示して、『この顔は今のとそっくりでしょう。彼はその当時日本名に改名して、江本竜明と名乗っていました。校長は熱心なクリスチャンの土井山洋先生(現在福岡市在住、九州電気学校校長代理)であり、私も土井先生に招かれて京城商工実務学校に勤めました。同校はミッション・スクールではなかったのですが、学校では盛んにキリスト教の集会を持っていました。文の担任教師は吉村晶先生です。しかし、文は当時まだクリスチャンになっておりませんから、『16歳で聖霊を受けた』というのは嘘です。さきごろ私が教え子たちに招かれてソウルに行ったさい、同窓生たちが、『文のやつ、大ホラ吹きになって学校の名折れだ。同窓会から除名せよ』と非難していました』」(112〜113ページ)
森山牧師は、園部氏個人の「文は当時まだクリスチャンになっていない」という証言をもとに、16歳のときの宗教体験はあり得なかったと断定しているのですが、それにしても、園部氏はどのようにして文師がクリスチャンでなかったことを知ったのでしょうか?
この批判は事実誤認に基づくものです。なぜなら、文師は京城商工実務学校に入学し、定州からソウルに移り住んだとき、平壌に本拠地を置く朝鮮イエス教会に所属する、ソウルの明水台教会に足しげく通っていたからです。そのころすでに文師が熱心に信仰している事実は、その教会の権徳八伝道師とともに聖書研究をしている写真、日曜学校の子供たちと礼拝堂前で撮った写真、京城商工実務学校を卒業するとき、明水台教会の卒業生と一緒に撮った写真などを見れば分かります(参考:武田吉郎著『聖地定州』光言社、158〜173ページ)。
②批判その2︱︱出版物相互間の食い違い
1980年代後半から、「啓示を受けたとされる日はイースターではない」とか、あるいは、「統一教会の出版物に記載された年月日が食い違っている」など、違ったかたちでの批判が始まりました。
反対牧師の説得で脱会した山浩浩子さんは、「その日はイースターではなかった」とショックを受け、文師を不信し、次のように述べています。
「文鮮明師は、1935年4月17日のイースターの時、イエスの霊が現れ、
『私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい』
と啓示を受けた——というふうに私たちは教えられてきた。
しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日が来て満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の4月17日は日曜日ではなかった。
反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年4月17日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、〝イースターの時〟という補足は削除されているようだ」(『愛が偽りに終わるとき』195〜196ページ)
確かに、山浩浩子さんが言うように、1935年4月17日は日曜日ではなく、受難週の水曜日に当たっています。(注、1935年のイースターは4月21日)しかし、その日が、現在のキリスト教で祝うイースターではないからといって、文師が嘘をついているということにはなりません。
1978年10月14日に韓国で出版された『統一教会史』(成和社)には、次のように記されています。
「先生が(数え年で)十六歳になられた年の復活節、(1935年)4月17日のことであった。この日が本当の復活節であるということも、このとき先生は初めてお分かりになった。それは霊的にイエス様に会われたなかで、初めてあかされたからである。今日、一般のキリスト教で守っている復活節(イースター)記念日は年ごとに異なっている。それはイエス様が亡くなられた日が分からず、復活日も調べようがなく、西暦325年、ニケア公会議において『春分後、初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう』と規定したためであった」
つまり、キリスト教自体、イースターがいつなのか分からず、明確でない時代がしばらくあって、AD325年の会議によって決めたのが、現在、キリスト教で祝われているイースターなのです。ゆえに、キリスト教で祝っているイースターは、正確なイエスの復活日かどうかハッキリしないのです。
文師はイエスから「4月17日が本当のイースターである」と知らされたのです。その内容が日本に正確に伝わらなかったために「イースター問題」となったのです。
いろいろな統一教会関係の出版物を調べてみると、反対派がその矛盾をあげつらって指摘しているとおり、出版物相互間に大小さまざまな食い違いがありました。
例えば、1978年に発行された統一教会紹介パンフレット「明日をひらく」には、「1936年4月17日16歳の復活祭の朝にイエス様が現れ」とあり、1988年発行の統一運動紹介パンフレット「世界平和への新しいビジョン」には「1936年のイースターの朝」とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には「1935年4月17日、イースターの朝、文先生は、重要な啓示を受けました」(14ページ)、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には「1936年4月17日日曜日、復活祭(イースター)の日に……」(136ページ)となっています。
どうして、こういう食い違いが生じたのでしょうか? それは、啓示に関する情報が日本に伝わる際、断片的に伝えられたり、あるいは勘違いして受け取ったり、さらには、韓国と日本の風習の違いの問題も、そこに絡んでいたのです。
例えば、「文師が16歳のとき啓示を受けられた」と伝え聞いた人が、韓国社会では、通常〝数え〟で年齢を数えていることに無知であった場合、単純に生年の1920年に16を足して「1936年」としてしまったり、あるいは「文師が啓示を受けた4月17日こそ、本当のイースターだった」という内容が微妙に変化して、「文師は4月17日のイースターに、啓示を受けた」と伝聞されてしまったり、という具合にです。そして十分に確認しないまま、そこに「日曜日」という補足まで入れてしまったのです。
このようにして、情報に食い違いが生じてしまったのでした。その情報の食い違いを反対派があげつらい、監禁現場での脱会説得の材料の一つに利用(悪用?)するようになったのが、「イースター問題」の真相なのです。
初代教会時代においても、福音書をはじめ新約諸文書間に矛盾があり(注:新約聖書の4つの福音書間にも矛盾がある)、それをユダヤ教側が「キリスト教諸文書は自己矛盾している」と批判しましたが、反対牧師の行為は、それと同じなのです。
(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)