韓国「中央日報」に掲載された写真をめぐって
反対牧師が、脱会説得に使用する資料の一つに、文師が朴正華氏を背負って海を渡っておられる場面と信じられていた写真があります。
朴氏は、文師が北朝鮮の興南監獄(徳里特別労務者収容所)で苦役されているとき、夢に現れた老人の導きもあって、文師を再臨主と信じ、弟子になった人です。
1950年10月14日、文師は国連軍による爆撃で解放され、平壌の弟子のもとを訪ねられます。そのころ、朴氏は足を骨折しており、平壌市内に避難命令が出されたとき、足手まといになるとして家族に置き去りにされていました。そんな朴氏を、文師は見捨てずに救い出されたのです。
1950年12月、文師は足の不自由な朴氏を自転車に乗せ、金元弼氏とともに釜山を目指して南下しました。その途中、龍媒島という島から仁川に直行する船が出ていることを知って、朴氏を背負って浅瀬になった海を渡られたのでした。
反対牧師が批判する写真は、もともと韓国の「中央日報」に連載された李承晩大統領夫人の回顧録に出ていたもので、その写真は朴氏を背負って海を渡られる文師を彷彿させるものでした(83年10月24日付「中央日報」)。
1984年5月9日、来日した朴正華氏は、東京の本部教会で「この写真は私と文先生です」と証言しました。その後、名古屋、宝塚、九州などを巡回し、同じように証言したのです。当事者の証言であったことから、当然、多くの人々は全く疑うことなく、それを「文師と朴氏の写真」として受け入れたのです。しかし、その後、写真は文師と朴氏でないことが判明しました。
写真が見つかり、朴氏が来日した1984年当時は、文師がアメリカの裁判でダンベリー収監が確定されるかどうかの時期であり、文興進様が昇華されてから数か月後でした。この写真の発見が、どれほど統一教会信者を慰め、励ましたことでしょうか。瞬く間に、その情報は統一教会全体に伝わったのです。
反対牧師は、監禁場所で、その写真を統一教会信者に見せながら、「これは文鮮明ではない。文は嘘をついている」と批判します。しかし、これは文師が嘘をついたのでも、統一教会がだまそうとしたのでもありません。写真の雰囲気があまりにも似ていたこと、および当事者の証言もあったため、そう信じられるようになったのです。
たとえ、この写真が文師と朴氏でなかったとしても、文師が足の不自由な朴氏を見捨てずに南下された事実が否定されるわけではありません。足を骨折していた朴氏が、南にたどり着いたのは事実です。
ところで、イエスの遺体を包んだとされるイタリアのトリノの聖骸布も、その真贋のほどが取りざたされ、ある人は「偽物だ」と批判します。しかし、万一、聖骸布が偽物であったとしても、それでイエスが十字架で亡くなった事実そのものが否定されるわけではないのです。写真の問題は、それと同じであると言えるでしょう。
「文鮮明を不信させよう!」と意気込む反対牧師の姿は、まさに2000年前のユダヤ教徒がクリスチャン迫害に取り組んだのと同じ姿勢であると言えます。
(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)