ロマ書7章の「パウロの嘆き」における自己矛盾の描写は、イエスによる回心以前のことを指している?

イエス キリスト教 十字架 復活s:「統一教会では、ローマ人への手紙7章15節から24節のパウロの嘆きを例に挙げながら、『イエスによって救われたと主張するクリスチャンが相変わらず自己の矛盾性に悩んでいるということは、結局、その救いが完全なものではなかったことを示している』と言っている。

しかし、パウロがここで言いたいのは、7章25節から8章にかけて述べられているように『そのような自己矛盾に悩んでいた罪深い自分がイエスによって救われたのだ』ということなのであって、この自己矛盾の描写はイエスによる回心以前のことを指しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいのでしょうか。

:確かに指摘のとおり、この聖句をキリスト教の救いの限界性の根拠として用いるには若干説明が必要かと思います。実はこのパウロの嘆きが信仰をもつ以前のことなのか、それとも信仰者の現実を指しているのか、学者の間でもかなり意見が分かれているのです。

しかし、たとえこれが回心以前のことであったとしても、このような自己の内における罪との闘いが、イエス様との出会いによって完全に解消されたのかといえば、パウロは決してそのようなことは一言も言っていないのです。『新聖書註解』(いのちのことば社)には、次のように述べられています。

「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。

それに対し、高橋三郎は、……律法に対して死ぬということは、われわれの人生において、ただ一度だけであるのであって、それ以後は機械的に同じ状態が進行するという風にもし考えるとすれば、それは信仰生活の実相を完全に無視した議論と言わねばならない。宗教改革者がいみじくも言ったように、われわれキリスト者の生涯は、常に新たな悔い改めの連続である。そうだとすれば、律法に対して死ぬという体験的事実は、(ある決定的一時点において、一回限りの出来事として開始されたとしても)その後われわれの全生涯を通して繰り返されて行く継続的事態であると言わねばならない。

そして、『律法に対して(常に新たに)死ぬ』ということは、われわれが常に新たに、律法主義的生活に逆転する可能性をうちにはらんでいるということを前提としている」(新約2、226, 227ページ)。

これはキリスト者の救いがイエス様を信じた瞬間に何もかも完成してしまうのではなく、その後も常に罪と闘わねばならない事実をはっきり示しているといえましょう。しかも8章23節には既にみ霊によって新生した者にも、さらに体のあがないが残されていることがはっきりと記されています。

このようにパウロの嘆きを一般キリスト者の現実と理解することは、必ずしも不当な解釈でないばかりか、キリスト教の救いというものが、終末(再臨)時にもたらされる体のあがない(完全なる救い)という基準から見て、いまだ未完成であるとの「統一原理」の主張は、聖書的見地から見ても何ら誤っていないといえます。

〔厳密には、完全に救われる(原罪を脱ぐ)ということと、自己の矛盾性から解放される(堕落性を脱ぐ)ということは別問題であり、原罪が赦されているということが直ちに霊肉の何の葛藤もない状態を意味するわけではありませんが、『原理講論』では、キリスト教においていまだ肉的救い(原罪の清算)が残されている事実を明示するための一例として、このような表現が用いられていることを御承知願います〕。(『聖句Q&A』より)