反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』

統一教会に対する。“血分け”の中傷は、1950年代半ばから絶えず行われてきました。しかし実際は、卓明煥氏が告白したように、「明確な証拠は何もなかった」のです。おそらく、反対派の人々は、このような状況にしびれを切らしていたに違いありません。

統一教会を貶めるために、何としてもその証拠になるものを提示したいと切望していたところに、問題の書、朴正華氏の『六マリアの悲劇』(恆友出版)が登場してきたのです。

朴氏は、その後、心を入れ替えて、『六マリアの悲劇』で書いた文師のセックス・スキャンダルは、すべてでっち上げだったとして、新たに、真相告白の書『私は裏切り者』(世界日報社)を出版しました。

では、著者の朴氏が“でっち上げ”であることを自ら暴露した、この問題の書『六マリアの悲劇』は、どのようにして出版されることになったのでしょうか。その経緯について、朴氏は『私は裏切り者』の「けじめに」で、次のように述べています。かなりの長文ですが、重要ですので次に引用します。

「当時(1993年)、日本では、韓国で行われた三万双国際合同結婚式以来、統一教会に異常な関心が集まっていた。そこに、教会の草創期を先生とともに歩んだ男が、『真のサタンは文鮮明だ』と銘打って、ありもしない先生の『セックス・スキャンダル』をブチ上げたのだから、これは一大事件である。統一教会批判のネタ漁りに余念のない反教会ジャーナリストが、黙って指をくわえたまま放って置くはずがない。

たちまち私は、“統一教会バッシング”に便乗、相乗りした週刊誌やテレビーワイドショーの寵児となってもてはやされた。

なぜ、大恩ある先生をマスコミに売るような信義に悖ることをしたのか。

それは先生に対する憎しみ、抑えることの出来ない私憤のためである。私は『六マリアの悲劇』を、先生と差し違える覚悟で書いた。先生の宗教指導者としての生命を断ち、統一教会をつぶして俺も死ぬ、そんな破れかぶれな気持ちだった。だから、ありもしない『六マリア』までデッチあげたのである。

昔から宗教指導者を陥れるためには、セックス・スキャンダルほど効果的なものはない。聖なるものを泥まみれにして叩きつぶすには、その最も対極にあるセックス・スキャンダルほど有効な手段はない。そのことは誰もが知るところで、私もその卑劣な手段に手を染めた。

『生きるも死ぬも一緒』とまで誓った男と男の約束を、自ら裏切るほどの憎しみが生じたのは、なぜか。その赤裸々な告白が、この本の一つのテーマであるが、ここでかいつまんでお話しよう。

私は夢で、文先生が『再臨のメシア』だと教えられ、一緒に生活する中で、多くの奇跡を体験してきた。だから、先生が再臨のメシアであると確信できたのである。ところが、人間とはおかしなもので、いくら夢のお告げを聞いて体験しても、めまぐるしく移り変わる現実生活がだんだん自分中心になっていくと、それにつれ自分自身も見失っていく。そうなると、神の摂理のために公的に生きる先生まで、自分中心にしか見られなくなる。統一教会の教勢が発展していくにつれ、優秀な人材が教会に入ってくる。摂理を進めるために、先生がその人たちを活用する。

そういう時、私は何か自分が疎外されているのを感じ、愛の減少感にとらわれ、孤独の淵に落ち込む。そうなると、なかなか立ち直れない。真理を学ぶ気持ちもおきないし、祈る気持ちにもなれない。ただ、寂しさだけがひたひたと募ってくる。自分だけのことしか意識のいかない、そんな世界を乗り越えることは難しいことだ。

その時、自分の心に何かが囁きかけてくる。あなたは正しいんだ。あなたを認めない相手が悪いんだ。そんな相手は倒さなければならないーと。強烈な自己正当化と相手に対する批判と憎悪。

聖書には、イエス様を裏切る前のイスカリオテのユダに「サタンが入った」と書かれているが、そのような得体の知れない冷たい思いこそ、サタンの囁きかも知れない。これにとらわれると、だんだん居ても立ってもいられなくなる。

お前を裏切ったのは文先生の方だ。お前は先生にだまされている。先生は身内のものを身近におき、先生のために苦労しかものを無慈悲にも捨て去った。その証拠に、お前も追い払われたではないか。憎め!悔しがれ!復讐だ! 彼を倒すために何でもやれ…。

こんな時に限ってよくしたもので、日本の出版社から“おいしい”出版話が持ちかけられた。金に困っていた当時の私には、願ってもない話だった。『朴先生の本だったら二十万部は売れますよ』と。

〈定価1,500円の印税10%、一部につき150円で、二十万部だと3,000万円(韓国のウォンで約二億一千万ウォン)が手に入る計算になる〉と、ついその気になり、とんでもない本を出してしまった」(2~5ページ)

朴氏は、統一教会の草創期を歩んだ、数少ないメンバーの一人でした。しかも、興南の徳里特別労務者収容所で文師とめぐり会った、古参信者の一人でした。ところが、後から入教してきたメンバーが自分より優遇されて用いられていく姿を見て、寂しい思いにとらわれ、やがてその寂しさが憎しみへと変貌を遂げていったのだと言います。

その憎しみに取り憑かれてしまった朴氏は、まさに“魔がさした”かのように「とんでもない本」をでっち上げて出版しようと思ったのです。そのことを知った反対派の人々が放っておくはずがありません。願ってもない獲物が来たと言わんばかりに、朴氏に急接近し、うまい出版話を持ちかけていったのです。

このようにして、朴氏は統一教会反対派のジャーナリストやキリスト教関係者らから持ち上げられ、センセーショナルにマスコミでも取り上げられるようになりました。そして出版されたのが『六マリアの悲劇』だったのです。

しかし、朴氏はその後、『六マリアの悲劇』の内容は、「文師に対する個人的な恨みからでっち上げた作り話で、真相はこうである」として、約2年後の1995年11月1日、『私は裏切り者』(世界日報社)を出版したのです。そうなった経緯について、朴正華氏は次のように語っています。これも長文になりますが、次に引用しておきましょう。

「『六マリアの悲劇』を出版した後、私は本の販売キャンペーンのため日本全国の反統一教会グループの集会に顔を出し、本のPRをして歩いた。キャンぺーンの反応は悪くなかったので、私の期待は膨らんだ。しかし、意気込みに反して本はあまり売れなかった。

そんなある日、ソウルの安炳日氏から仁川の自宅に電話が入った。会いたいというので、気軽にOKをした。

仁川から電車でソウルに出て、待ち合わせたロッテホテルのコーヒーショップで彼と会った。

私は当然、彼が私の本の出版を非難してくると思っていた。そうしたら、その場ですぐ殴ってやろうと思った。そして、この本をさらに英訳して世界に公表しようと思っていた。たまたま、日本の反統一教会グループから、再び全国巡回講演の依頼を受けていた時でもあった。

『朴先生、お元気ですか』

にこにこして挨拶する彼に、私は『あーっ』とあいまいな返事をしながらコーヒーを飲み始めた。

私は、先生を裏切る行為に出た理由を、一つ一つ語った。

『棲鎮鉱山に追いやられ、何の援助もなかった』こと。

『教会に戻ろうとしたが、組織が出来上がっていて、もう自分の位置がなかった』こと。

『後から来た者に『はい、はい』と頭を下げることができない』ことなどである。

さらに『ダンベリーに七回も手紙を出しだのに返事がこない』こと。

『一和の金元弼社長に二十回も電話したが、返事もこない』ことも付け加えた。

自分の主張をまくしたてたあと、教会を出た後に反教会グループの者から聞いた悪口も、怒鳴るように大声を出して吠えた。

彼は、私の話をたっぷり二時間の間、黙って聞いてくれた。

それで、私の心はすっきりした。

安氏はそれから、問題の一つ一つについて丁寧に説明してくれた。

彼とは、金徳振氏の一件で一緒に仕事をしたことがある。心の中で、統一教会にもいい 人がいるんだな、とかつて抱いた思いがよみがえってきた。本の出版前に彼に会っていれ ば、こんな馬鹿なことはしなかったかも、という悔悟の気持ちがわいてきた。

その日はそれで別れ、その後彼と二、三回会って話をした。

彼は最後に会ったとき、日本の兄弟たちが先生の本で相当苦しめられている、とポツリ と言った。私は〈何言っているんだ。今まで俺を疎外したくせに。日本の兄弟が苦しむの は、先生に対する復讐なのだ。ざまあみろ〉という気持ちに戻った。

それから少し経ったある日、安氏から電話が入った。また会いたいという。

会ってみると、彼は真剣な表情でこう切り出してきた。

『朴先生と一緒に日本で本を出版した人たちが、政府のある高官と手を組んで、朴先生の本を韓国語に翻訳し二、三百万部を韓国中にばらまき、統一教会を壊滅状態に追い込む。

それをやめさせてやるから、二、三百億ウォンを自分たちに払えと脅迫してきた』

驚いた私は、彼の顔をじっと見つめていると、

『自分は、政府の関係者を通して、金大統領がそのようなことをするのかと尋ねたところ、そういうことはないと言われた。もし、それが本当なら恐喝で彼らを牢屋に入れる、と言われたそうだ』

私は、心臓が止まるほどの驚きを覚えた。

『朴先生は、その一味に加担しているのですか』

たしかに、私は、先生をやっつけようとしたが、それは私憤からである。それが、仲間に利用されて統一教会を恐喝し、金儲けの道具にされていることを知り、義憤と落胆が交錯した。だが、安氏は私を咎めなかった。彼は、逆に私をなぐさめてくれた。人間とはおかしなものだ。悪口を言われると、『何を!』と対決する力が出るが、過ちを怒らないでかえって慰められると、何か悪いことをしたような反省の気持ちにさせられる。

さらに、少し日が経って、安氏ともう一度会った。

 

『日本で反対派が、先生の本を利用して兄弟たちを苦しめている』

最初にそれを聞いた時は、〈ざまあみろ〉という気持ちだったが、それが金儲けのための道具に利用されていると聞いた後なので、私の心は複雑だった。ちょっと可哀想な気がして、良心の呵責を覚えた」(231~234ぺージ)

朴氏は、単なる“個人的恨み”を晴らそうとする動機から出版しようとしたのです。ところが、その本を、心ない一部の反対派の人たちに悪用され、しかも自分を出し抜いて、本人の知らない水面下で統一教会に脅迫まがいのことをしていることを知って興ざめしたというのが、朴氏が悔い改めた第一の理由だったのです。

おそらく、孤独な自分の味方と思っていた反対派からの「裏切り行為」に出会い、統一教会のときに感じた「愛の減少感」以上の疎外感や空虚感を感じたのでしょう。もちろん、そこに至るまでには、嘘をついてしまったことに対する良心の呵責から来る「後ろめたさ」と、安炳日氏の心温まる“心のケア”があったのは言うまでもありません。

そして、朴氏が悔い改めた2つ目の理由は、『私は裏切り者』の中に書いていることですが、安氏から紹介されて日本の世界日報社社長の石井光治氏と会い、統一運動の現状を聞かされ、さらにアメリカにまで渡って視察して回ることによって、かつて興南の収容所で文師から聞かされていたことが現実のものになっている姿をまざまざと見せつけられ、深く感動したことが挙げられます(『私は裏切り者』237~248ページ)。

そして、第3の理由として、拙著『統一教会の正統性』(広和)を読み、特にイエスの歩まれた生涯と文師の歩まれた半生が、あまりにもよく似ていることを知ったことが一因でもあったとのことです(『私は裏切り者』248~251ページ)。

このように、朴氏は悩んだり苦しんだり、また仲間から裏切られたりして心の傷を受け、安氏の“心のケア”を受けて、やっと立ち直ることができたのです。

それにもかかわらず、浅見定雄氏は、「(朴氏は)日本で本を出したりすれば大金が入ると思っていた期待が裏切られたため、再び統一教会へ寝返ったというだけの話」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』かもがわ出版、37ページ)と切り捨てています。あまりにも人の心を踏みにじる発言であるとしか言いようがありません。

朴正華奢『六マリアの悲劇』(恒友出版)は、反統一教会派の人々の甘い誘いに乗せられてしまった著者が、まるで“魔がさした”かのごとくに出版してしまったデッチ上げの書なのです。

ところが、日本で出版された『六マリアの悲劇』が、反対派の主導によって韓国語に翻訳される作業が行われ、1996年3月1日付けで『野録統一教會史』として韓国で出版されたのです。

この『野録統一教曾史』の出版は、朴正華氏の本意ではありません。悔い改めて統一教会に再び帰ってしまった朴氏に“秘密”にして、反対派が出版に漕ぎ着けてしまったものです。事実、この『野録統一教曾史』に掲載されている朴正華氏の「前書き」部分は、『六マリアの悲劇』の「あとがき」を一部削除し、それをそのまま転載し、著作日付も1993年10月の古いままになっています。著者の意向を完全に無視して出されたためです。

その事実を知った時点で、朴氏は「その出版は本人の許可なくして出したもので、違法に当たる」として法的訴えを起こしました。

しかし、満83歳という高齢であった朴氏は、係争中、志半ばにして、97年3月26日に亡くなりました。その2か月前の1月に、念願し続けてきた「祝福」を受けています(「ファミリー」1997年5月号、4ページ)。

ところが反対派は、それらの事の成り行きを知らない統一教会信者に対し、『私は裏切り者』が1995年11月1日に世界日報社から出された後で、1996年3月1日に、韓国語に翻訳された『野録統一教曾史』が出版されていることから、「この出版が新しい事実から見ても、『私は裏切り者』は統一教会が勝手にでっち上げて出版したものだ」と脱会説得をすることもありました。これなどは、反対派のあくどさを表すものです。

出版事情をひた隠しにする、このような手法は、反対派全体に見受けられる傾向です。例えば、1997年8月20日付で出版された浅見定雄監修『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)でも、こういった出版事情のあることを無視し、さも『六マリアの悲劇』には真実が書がれているかのような思わせぶりで、文師に対するゆがんだ情報を流し続けているのです。

その浅見定雄氏は、『六マリアの悲劇』について、「この本の最大の意義は、著者の朴正華氏が統一協会の創立以前から文鮮明の片腕だった人であり、文鮮明の『血分け』(『復帰』という)の乱行の生き証人であるという点にある。著者は自分自身も文鮮明の指示で血分けを実行させられたと告白している。この本で明らかになったことはたくさんある……」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』14ページ)として、書いた当の本人がすでに取り下げているにもかかわらず、真相が明らかにされた後も、なお、その著者の意向を完全に無視して著述し続けているのです。これが反対派のやり方なのです。まさに「嘘も百回言えば真実になる」を地で行っているのです。

文師や統一教会は長い間、何の証拠もないのに、キリスト教関係者や反対派グループから、淫行の教祖、血分け教と言われ続けてきました。それは、初代キリスト教会時代においても同様でした。極めて古い初期の頃からユダヤ教側が「イエスはローマ兵士パ

ンテラと母マリアとが“姦淫の罪”を犯して生まれたいかがわしい人物である」と噂し始

め、その噂はなかなか止まず、何とオリゲネスがAD248年頃に書いたとされる『ケル

ソス駁論』においてさえ、まだ弁明し続けなければならなかったほどです。

キリスト教会も、近親相姦をしているとか、いかがわしい儀式をしているとか、長い間、

噂された歴史的事実がありましたが、それと同じ状況を統一教会に対する“血分け”の中

傷に感じます。