キリスト教では「生命の木」を契約の印と教えているそうですが。

統一原理は、生命の木を「個性完成したアダム」と解釈しますが、反対牧師は、それをこじつけだと批判します。例えば、浅見定雄氏などは、統一教会の聖書解釈は支離滅裂であり、奇怪な教理であるとまで批判します(『「原理講論」の仮面を剥ぐ!』13〜15ページ)。

しかし、キリスト教では、伝統的に「生命の木=十字架=メシヤ」という解釈を綿々と語り伝えてきているのです。

1979年11月号『現代思想』(青土社)に収録されたテオドール・ライク著「原罪の起源」には、「古代キリスト教を通じて、十字架を生命の樹とする解釈は一般的である。それは旧約において十字架の象徴である……。アウグスティヌスはキリストを生命の樹の果実と見なし、オリゲネスは、生命の樹=十字架=キリストという等式を提出した」(142ページ)と論じています。

また、オスカー・クルマンもその著書『クリスマスの起源』(教文館)において、ピーター・ミルワード氏もその著書『旧約聖書の智慧』で、生命の木=十字架=キリストという解釈が伝統的にあったことを紹介しています。

統一原理は、メシヤを「個性完成したアダム」と解釈するので、生命の木=十字架=メシヤ=個性完成したアダム、という解釈も可能なのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)