Q:「統一原理」によれば、イエスの復活は霊的なものであったというわけですが、ルカによる福音書24章39節から43節の「わたしの手や足を見なさい。……霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」という言葉や、「イエスはそれを取ってみんなの前で(焼いた魚の一切れを)食べられた」という記事は、イエスの肉体復活を支持しているかのように思われますが、どのように考えたらよいでしょうか。
A:まず初めに、イエスの復活が霊的だったと思われるいくつかの根拠を挙げてみましょう。第一は、復活後のイエスの体は普通の肉体とは異なっていたという点です。“閉めきった部屋に、突然現れる”(ヨハネ20:19)、“道を歩いていた弟子への超自然的顕現”(ルカ24:15~31)等。
第二は、福音書よりも以前に書かれたパウロ書簡の中に、不思議にもイエスの肉体復活についてほとんど記されていないということです。その中でもコリント人への第一の手紙15章3節から8節が、復活に関する最古の伝承とされていますが、ここでパウロは、イエスが復活後、地上の人々に次々と現れた事実を述べています。初めはペテロに、次に十二弟子、500人の兄弟、ヤコブ、すべての使徒、そして最後にパウロにも現れたというものですが、この聖句に関しドイツの新約学者キュンメルは、次のように述べています。(要点のみ)
「パウロがここで、復活のイエスの目撃者を列挙する意図は、彼ら(弟子たち)と同じ復活のイエスと出会ったことを主張することによって、自分も使徒の資格があることを示そうとするところにある。ところでパウロのイエスとの出会いは、クリスチャン迫害のためダマスコヘ行く途上での、明らかな霊的出会いである(使9:1~9)。したがって、もし“パウロの出会い”と“弟子たちの出会い”が全く異なったものであったとしたならば、このパウロの主張に、異議を申し立てることのできた多くの人々が、まだ生きていたはずである」。
さらにキュンメルは、「今日、復活証人の目撃が“幻視”という学術用語で言い表されるのは、おそらく的確な仮説と思われる」(『新約聖書概論』日基、147ページ)と述べています。
さて問題の聖句ですが、ルカによる福音書24章40節の“手足を見せた”は、米国改訂標準訳や新改訳聖書では削除されており、一般に後世の加筆とされています。43節の“魚を食べた”も、ユノビオン(前で)アオトン(これを)エファゲン(イエスは食べた)は用語上、ルカの編集句とされているので、編集者(ルカ)の加筆と思われている部分です。36節から39節の“霊には肉や骨はないが″の部分は、他の福音書のイエスの海上歩行物語と全く同じ形式であり、ルカが海上歩行物語を採用しなかった代わりに、これを復活物語に組み込んだものと考えられている部分です。
一般的に、イエスの肉体を強調する聖句は、当時、“イエスは肉体をもってこられたはずはない”とする異端(仮現説)に対抗しようとして、その弁証の弾みから生じたものと考えられています。(『聖句Q&A』より)