文師が、“偽の写真”で信徒を欺いた?

韓国「中央日報」に掲載された写真をめぐって

反対牧師が、脱会説得に使用する資料の一つに、文師が朴正華氏を背負って海を渡っておられる場面と信じられていた写真があります。

朴氏は、文師が北朝鮮の興南監獄(徳里特別労務者収容所)で苦役されているとき、夢に現れた老人の導きもあって、文師を再臨主と信じ、弟子になった人です。

1950年10月14日、文師は国連軍による爆撃で解放され、平壌の弟子のもとを訪ねられます。そのころ、朴氏は足を骨折しており、平壌市内に避難命令が出されたとき、足手まといになるとして家族に置き去りにされていました。そんな朴氏を、文師は見捨てずに救い出されたのです。

1950年12月、文師は足の不自由な朴氏を自転車に乗せ、金元弼氏とともに釜山を目指して南下しました。その途中、龍媒島という島から仁川に直行する船が出ていることを知って、朴氏を背負って浅瀬になった海を渡られたのでした。

反対牧師が批判する写真は、もともと韓国の「中央日報」に連載された李承晩大統領夫人の回顧録に出ていたもので、その写真は朴氏を背負って海を渡られる文師を彷彿させるものでした(83年10月24日付「中央日報」)。

1984年5月9日、来日した朴正華氏は、東京の本部教会で「この写真は私と文先生です」と証言しました。その後、名古屋、宝塚、九州などを巡回し、同じように証言したのです。当事者の証言であったことから、当然、多くの人々は全く疑うことなく、それを「文師と朴氏の写真」として受け入れたのです。しかし、その後、写真は文師と朴氏でないことが判明しました。

写真が見つかり、朴氏が来日した1984年当時は、文師がアメリカの裁判でダンベリー収監が確定されるかどうかの時期であり、文興進様が昇華されてから数か月後でした。この写真の発見が、どれほど統一教会信者を慰め、励ましたことでしょうか。瞬く間に、その情報は統一教会全体に伝わったのです。

反対牧師は、監禁場所で、その写真を統一教会信者に見せながら、「これは文鮮明ではない。文は嘘をついている」と批判します。しかし、これは文師が嘘をついたのでも、統一教会がだまそうとしたのでもありません。写真の雰囲気があまりにも似ていたこと、および当事者の証言もあったため、そう信じられるようになったのです。

たとえ、この写真が文師と朴氏でなかったとしても、文師が足の不自由な朴氏を見捨てずに南下された事実が否定されるわけではありません。足を骨折していた朴氏が、南にたどり着いたのは事実です。

ところで、イエスの遺体を包んだとされるイタリアのトリノの聖骸布も、その真贋のほどが取りざたされ、ある人は「偽物だ」と批判します。しかし、万一、聖骸布が偽物であったとしても、それでイエスが十字架で亡くなった事実そのものが否定されるわけではないのです。写真の問題は、それと同じであると言えるでしょう。

「文鮮明を不信させよう!」と意気込む反対牧師の姿は、まさに2000年前のユダヤ教徒がクリスチャン迫害に取り組んだのと同じ姿勢であると言えます。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師が“学歴詐称”って本当?

「学歴詐称」批判の真相

反対牧師は、「文は学歴詐称をしている」と批判します。この〝学歴詐称〟の批判には大きく2つの流れがあります。

 

①批判その1︱︱森山諭牧師の批判の流れ

一つの流れは、森山牧師の批判で、早稲田大学……云々を論ずる以前に、文師の日本留学それ自体が怪しいというものです。

森山牧師著『原理福音統一協会のまちがい』(ニューライフ出版)には、次のように書かれています。

 

「統一協会の資料では、彼は1939(昭和14)年に、釜山から日本に渡り、早大で学んだことになっています。1945年、日本が敗戦。韓国が独立した年に帰国したと言いますが、その前の44年、彼を世話した下宿屋から、悲しい葬儀が出たと伝えます。それは、その下宿屋の美しい娘が大先生に恋していたが、ある時、大先生に扮した男がその美しい娘さんをだまして貞操を奪った。純情なこの美女が大先生に申しわけないとして自殺した。この悲しい事件を通して、大先生は、エバに対するへびの誘惑が、姦淫の罪だと知った(「播植十年—早稲田十年の歩み」62ページ)とします。『この生々しい事件が、彼をして日本への復讐心を抱かせた動機でしょう』、と統一協会を批判するジャーナリストが証言するから、『それはウソです』と語ったところ、『いや、その下宿屋のおばさんがG県に住んでおり、今も文氏から時々手紙や贈物があるので、〝さすが文さんだ〟と賞めているそうです』と言います。私は、『早大で学んでいたというその期間、京城商工実務学校にいるのだから、日本におれるはずがない』と断言しました。あとでそのジャーナリストから、『調べて見たら、やはりウソでした』と伝えてきましたが、この失恋自殺事件は、お涙頂戴のメロドラマにしても、お粗末すぎます」(10〜11ページ)

 

森山牧師は、統一教会の資料の中に、「1938年に日本に留学したとある」としていますが、例によって、この情報の出所を明確にしていません。

確かに森山牧師のいうように、かつて統一教会内では、非公式的に、1938年説、1939年説、1941年説の3種類の説が流布されていたようです。

しかし、森山牧師がこの批判書の改訂三版を出した1985年時点では、すでに統一教会の見解は1941年に統一されており、ジャーナリスト那須聖氏が統一教会について取材し、1984年に出版した『救世主現わる』(善本社)にも、1941年春とされています(37ページ)。

森山牧師は、そのことを十分に調べもしないまま、ただ文師が1941年3月に撮った京城商工高等学校の卒業写真があるという理由で、即、文師の日本留学自体が疑わしいと、勝手に決めつけているのです。

しかし、日本に留学した事実は、当時、文師に下宿を提供した三橋孝蔵夫妻が証言しておられます。三橋氏はその後、何度か文師と手紙のやりとりをしています。また、1997年5月29日には、文師の日本留学時代の写真が見つかっています(1997年7月号「ファミリー」93ページ)。

現在は、森山牧師の流れをくむ批判は、全く聞かれなくなっています。なお、森山牧師は、文師が「終戦の年」に帰国したとしていますが、この情報も間違っており、正しくは1943年10月です。

 

②批判その2︱︱茶本繁正氏の批判の流れ

もう一つの批判は、1977年8月10日出版の茶本繁正著『原理運動の研究』(晩聲社)に端を発する批判の流れで、それは、統一教会関連の出版物に書かれている内容の事実関係を調べようと、早稲田大学の学籍課で調べたが、早稲田大学には文師と思われる人物名が見当たらず、その裏付けを取れなかったというものです(63〜65ページ)。

山崎浩子さんが脱会説得を受けたとき、この茶本氏の流れの批判の影響を受けたようで、著書『愛が偽りに終る時』には次のように書かれています。

 

「文師の学歴だって、『早稲田大学理工学部電気工学科卒』となっていたり、『早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科卒(現在の早稲田大学理工学部)』となっていたり、( )内の注釈がとれていたりと、語られる年代、講師によって様々だ。( )内の注釈がとれたものが本当の学歴らしく、最近はそう言っているが、もちろん早稲田大学の理工学部とは何の関係もない。

別に私は、メシアは大学出じゃなくていいと思う。むしろ学歴なんか関係ないと思う。ただ、最初は大学出のような顔をして、卒業生名簿などを調べられ、ウソがつけなくなってくると、知らぬ間に経歴を変えていく。そのウソのつき方があまりにも滑稽でバカバカしかった。

メシアである文師の学歴は問わずとも、どんな経歴をたどってきたかは重要なことだ。メシアがどんな家に生まれ、どんな環境に育ち、どういう出会いがあってここに至るのかは『主の路程』として語り伝えられ、それだからこうなのだと結論づけられているのだから、それぐらい正確にしてほしいものだと思った。関係者の聞き間違いですまされるものではない。〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」(196〜197ページ)

 

確かに、山崎さんの言うように、主要な統一教会関連の出版物を読み比べてみると、そこに食い違いがあります。

例えば、1970年代前半に読まれていた野村健二著『血と汗と涙』には、「1939年19歳の折、もはや青年になられた文先生は、大学にはいるため、はじめて日本本土に渡られることになった。……日本本土に渡った文青年にとって、この1939年から1945年までの6年間は、イエス様から託された神の使命に向かって公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。……(文先生は)早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(17〜21ページ)とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には、「文先生は、日本の早稲田大学附属早稲田高等工学校電気科で勉強を続けました」(16ページ)とあり、さらに、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には、「東京の早稲田大学で電気工学を学びました」(136ページ)とあります。

文師が入学されたのは、「早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科」というのが正しく、統一教会の月刊機関誌「ファミリー」では、次のように説明しています。

 

「文先生が……学ばれた期間は、1941年4月から1943年9月である。同校は夜間学校で、授業は午後6時から9時半まで行われた。授業の内容は、電気に関する専門的なものが多い。同校は1928年に創立され、1951年に閉校した。……文先生がおられたときの修学年限は3年間であったが、戦争のため6か月繰り上げ卒業となった」(1997年7月号「ファミリー」93ページ)

 

この食い違いの問題に対して、山崎浩子さんは「〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」と断定します。

しかし、果たして、統一教会関係者が意図的に〝嘘をつこう〟としていたのでしょうか、それとも、何か他の理由によるものなのでしょうか。それを見極めることは、とても重要なことです。

日本統一教会が創立されてから20年にも満たない1970代は、組織も十分に整備されていない頃であり、さまざまな伝承が語られ、情報が混乱することは十分あり得たことです。

特に、この文師の留学問題については、まず、文師が日本名を使っておられたこと、早稲田大学附属早稲田高等工学校が閉校されてから久しくなっていたことなどから、その事実関係を調べることが極めて困難だったと推察されます。事実、茶本繁正氏も調べきれなかったのです。

ですから、誰からか「早稲田大学附属……云々だった」と伝え聞いたとき、その裏付けが取れないなかで、〝附属〟という言葉の意味を十分理解できない人の場合、「どうやら早稲田大学の、何とか学部だったらしい」という情報に変貌してしまうことは十分あり得ました。そういう事情から、不幸にして起こった問題だったと言えるでしょう。

もし統一教会関係者に「嘘をつこう」という意図があったなら、むしろこのように情報が混乱すること自体、不自然なことと言えます。

事実、1979年6月25日発刊のF・ソンターク著『文鮮明と統一教会』(世界日報社)には、留学問題に関して「1938年、彼は電子工学を学ぶべく、日本に留学した」と118ページにあるにもかかわらず、その前のページに掲載された韓国の学生時代の写真説明文には、1941年2月27日撮影とあります。1941年2月、いまだ韓国で就学しておられた文師が、どうして1938年に日本へ留学しているのでしょうか?

ページを前後し、こういう初歩的ミスが起こってしまった背景には、本文を書いたソンターク氏は、文師が韓国の学校を卒業したのは18歳と推定し、「留学は1938年」と単純に思い込んでいた統一教会メンバーからその情報を入手して著述し、一方、前ページの写真の説明文は、著者とは違う別の人物が挿入したからだと思われます。

このような本が出回っていたこと自体、統一教会が嘘をつこうとしていたのではなく、当時、教会内で情報が混乱していたことを如実に物語っています。もしそれを「悪意」と言うなら、福音書に書かれたイエスの生涯の記述も、相互矛盾が数多くあることから、「イエスやクリスチャンは人をだまそうと経歴を偽っている」という批判も成り立つでしょう。

〈福音書の相互矛盾の問題については、拙著『「原理講論」に対する補足説明』(広和)の40〜69ページを参照〉

それにしても、このような記述の矛盾をあげつらうことで、さも文師や統一教会が意図的に「学歴詐称」をしていたと、山崎さんに信じ込ませることに成功した反対派の話術に〝狡猾さ〟を感じます。

なお、このような無益な混乱が起こらないためにも、『日本統一運動史』など、日本歴史編纂委員会による公式的な出版物を学ぶことをお勧めします。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師がイエスより啓示を受けた「イースター」は嘘?

文師は1935年4月17日、イエスから特別な啓示を受けられましたが、反対牧師は「それは嘘だ」と批判します。

 

①批判その1︱︱森山牧師の批判の流れ

この点について、森山牧師が『現代日本におけるキリスト教の異端』(以後、『……異端』という)の中で、それは「まっかな嘘だ」と批判しています。『……異端』には、次のように書かれています。

 

「ところで、文氏が、『わたしは16歳の年に宗教体験をして、真理の御霊を受けた』いう話はまっかな嘘です。彼は1920年陰暦1月6日、現在朝鮮民主主義人民共和国にある平安北道定州郡徳彦面に生まれ、本名は文龍明と言いました。昭和15年(1940)5月、文が京城商工実務学校の生徒として、先生や同級生と一緒に写した写真がありますが、彼はそのとき数え年21歳で、同校の電気科に学んでいました。

フェリス女子学院大学英文科主任の園部治夫氏が、その写真を私に示して、『この顔は今のとそっくりでしょう。彼はその当時日本名に改名して、江本竜明と名乗っていました。校長は熱心なクリスチャンの土井山洋先生(現在福岡市在住、九州電気学校校長代理)であり、私も土井先生に招かれて京城商工実務学校に勤めました。同校はミッション・スクールではなかったのですが、学校では盛んにキリスト教の集会を持っていました。文の担任教師は吉村晶先生です。しかし、文は当時まだクリスチャンになっておりませんから、『16歳で聖霊を受けた』というのは嘘です。さきごろ私が教え子たちに招かれてソウルに行ったさい、同窓生たちが、『文のやつ、大ホラ吹きになって学校の名折れだ。同窓会から除名せよ』と非難していました』」(112〜113ページ)

 

森山牧師は、園部氏個人の「文は当時まだクリスチャンになっていない」という証言をもとに、16歳のときの宗教体験はあり得なかったと断定しているのですが、それにしても、園部氏はどのようにして文師がクリスチャンでなかったことを知ったのでしょうか?

この批判は事実誤認に基づくものです。なぜなら、文師は京城商工実務学校に入学し、定州からソウルに移り住んだとき、平壌に本拠地を置く朝鮮イエス教会に所属する、ソウルの明水台教会に足しげく通っていたからです。そのころすでに文師が熱心に信仰している事実は、その教会の権徳八伝道師とともに聖書研究をしている写真、日曜学校の子供たちと礼拝堂前で撮った写真、京城商工実務学校を卒業するとき、明水台教会の卒業生と一緒に撮った写真などを見れば分かります(参考:武田吉郎著『聖地定州』光言社、158〜173ページ)。

 

②批判その2︱︱出版物相互間の食い違い

1980年代後半から、「啓示を受けたとされる日はイースターではない」とか、あるいは、「統一教会の出版物に記載された年月日が食い違っている」など、違ったかたちでの批判が始まりました。

反対牧師の説得で脱会した山浩浩子さんは、「その日はイースターではなかった」とショックを受け、文師を不信し、次のように述べています。

 

「文鮮明師は、1935年4月17日のイースターの時、イエスの霊が現れ、

『私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい』

と啓示を受けた——というふうに私たちは教えられてきた。

しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日が来て満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の4月17日は日曜日ではなかった。

反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年4月17日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、〝イースターの時〟という補足は削除されているようだ」(『愛が偽りに終わるとき』195〜196ページ)

 

確かに、山浩浩子さんが言うように、1935年4月17日は日曜日ではなく、受難週の水曜日に当たっています。(注、1935年のイースターは4月21日)しかし、その日が、現在のキリスト教で祝うイースターではないからといって、文師が嘘をついているということにはなりません。

1978年10月14日に韓国で出版された『統一教会史』(成和社)には、次のように記されています。

 

「先生が(数え年で)十六歳になられた年の復活節、(1935年)4月17日のことであった。この日が本当の復活節であるということも、このとき先生は初めてお分かりになった。それは霊的にイエス様に会われたなかで、初めてあかされたからである。今日、一般のキリスト教で守っている復活節(イースター)記念日は年ごとに異なっている。それはイエス様が亡くなられた日が分からず、復活日も調べようがなく、西暦325年、ニケア公会議において『春分後、初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう』と規定したためであった」

 

つまり、キリスト教自体、イースターがいつなのか分からず、明確でない時代がしばらくあって、AD325年の会議によって決めたのが、現在、キリスト教で祝われているイースターなのです。ゆえに、キリスト教で祝っているイースターは、正確なイエスの復活日かどうかハッキリしないのです。

文師はイエスから「4月17日が本当のイースターである」と知らされたのです。その内容が日本に正確に伝わらなかったために「イースター問題」となったのです。

いろいろな統一教会関係の出版物を調べてみると、反対派がその矛盾をあげつらって指摘しているとおり、出版物相互間に大小さまざまな食い違いがありました。

例えば、1978年に発行された統一教会紹介パンフレット「明日をひらく」には、「1936年4月17日16歳の復活祭の朝にイエス様が現れ」とあり、1988年発行の統一運動紹介パンフレット「世界平和への新しいビジョン」には「1936年のイースターの朝」とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には「1935年4月17日、イースターの朝、文先生は、重要な啓示を受けました」(14ページ)、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には「1936年4月17日日曜日、復活祭(イースター)の日に……」(136ページ)となっています。

どうして、こういう食い違いが生じたのでしょうか? それは、啓示に関する情報が日本に伝わる際、断片的に伝えられたり、あるいは勘違いして受け取ったり、さらには、韓国と日本の風習の違いの問題も、そこに絡んでいたのです。

例えば、「文師が16歳のとき啓示を受けられた」と伝え聞いた人が、韓国社会では、通常〝数え〟で年齢を数えていることに無知であった場合、単純に生年の1920年に16を足して「1936年」としてしまったり、あるいは「文師が啓示を受けた4月17日こそ、本当のイースターだった」という内容が微妙に変化して、「文師は4月17日のイースターに、啓示を受けた」と伝聞されてしまったり、という具合にです。そして十分に確認しないまま、そこに「日曜日」という補足まで入れてしまったのです。

このようにして、情報に食い違いが生じてしまったのでした。その情報の食い違いを反対派があげつらい、監禁現場での脱会説得の材料の一つに利用(悪用?)するようになったのが、「イースター問題」の真相なのです。

初代教会時代においても、福音書をはじめ新約諸文書間に矛盾があり(注:新約聖書の4つの福音書間にも矛盾がある)、それをユダヤ教側が「キリスト教諸文書は自己矛盾している」と批判しましたが、反対牧師の行為は、それと同じなのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

教会内で言われる「先祖の功労」って何?

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-ご質問 –

よく教会内で「先祖の功労」と言われます。

私もその事を疑うわけではないのですが、原理的に言うと、これはアベルの心情の基台の上にノアが召命された、またノアの尽くした心情の基台の上にアブラハムが召命されたという内容と同義と理解してよろしいのでしょうか?

 

【回答1】

質問者の捉え方は間違っていないと思いますが、教会内で言う「先祖の功労」を

最も端的に表現している原理講論の箇所は以下のとおりです。

 

『原理講論』の第6章「予定論」、第3節「人間に対する予定」

 

つぎに、神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるもの

であるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの摂理の目的は、

堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、

その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定さ

れているのである(ペテロ・三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、

神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つ

から始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべて

このようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中

心人物を予定して召命されるのである。

それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきで

あろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければなら

ない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同

じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに

必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であって

も、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後

天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場

所に適合する個体を先に選ばれるのである。

 

 

【回答2】

「先祖の功労」という概念と、「心情の基台」という概念は、深く関連性をもっ

た概念ではありますが、全く〝同義〟であるというわけではありません。(先祖

の〝善行〟が、後世において〝恵沢〟として現れるという意味においては、深く

関連しています。)

 

「先祖の功労」という場合には、〝血統的〟なつながり(つまり、先祖と子孫の

関係)を前提とする意味合いを強くもっています。ところが、アベルとノアは直

接的な血統のつながりがありません。ノアは、セツの子孫であって、アベルの子

孫ではなく、血のつながりが直接的にはないからです。

 

アベル、ノア、アブラハムは、摂理的な中心人物であり、その時代の人々(人類)

を代表する人物です。したがって、摂理的中心人物である彼らは、全体を代表す

る立場にいるため、彼らの勝利は全体の勝利であり、彼らの失敗は全体の失敗を

意味するということになります。(例えば、アブラハムの象徴献祭の失敗は、イ

スラエル民族400年のエジプト苦役につながります。)

 

したがって、その時代、その時代における摂理的中心人物による「心情の基台」

とは、後世において、より全体の人々に対する〝時代的恵沢〟として現れてくる

ようになります。これは、あえて言えば、類的な〝先祖の功労〟と表現すること

ができるかもしれません。

 

『原理講論』の復活論に、「使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身

の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠を尽くし

たので、それだけ堕落人間が、神と心情的な因縁を結ぶことができる基盤を広め

てきたのである。したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前

の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢を

もっと受けるようになるのである」(216ページ)とあるのが、まさにそれです。

 

この場合の「預言者や義人」とは、直接的な先祖・子孫の関係ではないかもしれ

ません。しかし、その「預言者や義人」が積んだ心情の基台は、次の時代に生き

る人々へと残されるというのです。

 

つまり、精誠を尽くすその人が、摂理的にみて、どのレベルに立って〝善行〟を

積んでいるのかが問われてきます。個人レベルなら、それは後孫に対して、個人

レベルでの恩寵がいきますし、家庭レベルでの〝功労〟を積めば、家庭レベルの

恩寵があるということです。

当然、民族を代表するレベルの人物、国家を代表するレベルの人物ならば、民族

レベル、国家レベルでの恩寵があるということになります。

 

アベルやノアの「心情の基台」という場合には、神様を中心とした摂理の中で、

神様から召命を受けた人物が、全体を代表し、どこまで精誠を尽くしたのかによっ

て、全体が恵沢を受けるという、より公的な意味合いが強く含まれてくると見て

もいいでしょう。(それは、民族、国家、世界レベルでの〝先祖の功労〟という

ことになります。)

 

それに対し、「先祖の功労」という場合は、先祖が、他の家庭や地域社会の人々

に対し、より善良に生き、より犠牲となって尽くして生きた場合、その直接的な

子孫(血のつながりのある者)が、恵沢を受けるということになります。

『原理講論』の予定論に、「召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべ

きであろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければ

ならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない」

(246ページ)とありますが、ここでいう「先祖の功績」というのが、まさに

「先祖の功労」ということに他なりません。(『原理講論』には、この「善なる

功績」という言葉が何度か出てきます。)

 

「選民の一人として生まれる」というのは、より全体の〝類的〟な立場のことを

言っており、そこには、クリスチャンたちが摂理的中心人物として築き上げてき

た「心情の基台」というものが含まれています。そして、次の条件として述べら

れている「善なる功績」というのが、直接的な血統のつながりという側面のこと

を言っています。

 

ちなみに、出エジプト記20章5節に、「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

わたし(神)を愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至る

であろう」と記されていますが、この十戒の言葉などは、俗に言う「先祖の功労」

あるいは「先祖の因縁」を言い表したものであると言えるでしょう。

 

ところで、キリスト教においては「先祖の功労」「先祖の因縁」という考え方を

極度に嫌い、完全否定するクリスチャンが多くいます。しかしながら、その反面、

それを力説しているクリスチャンもいます。その代表的なものを次に紹介してお

きます。

沢村五郎著『基督教案内』(クリスチャン文書伝道団)には、次のようにありま

す。この書籍は、伝道などでよく用いられました。

 

「アメリカにマックス・ジュークという酒飲みの道楽者がいました。彼は自分に

似たような道楽女を妻にめとり、子が生れ孫ができて、八代余りも続いた後、そ

の血を受けた者、二千七十七人について調べて見たところ、三百十人はこじき、

百三十人は前科者、七人は殺人犯、六十人はどろぼうの常習犯、三百人は若死に、

四百人は白痴または不具者、四百四十人は梅毒患者、三百十人は行き倒れ、五十

人は不義の夫婦で残った二十人は正業に従事しているが、そのうち十人は入獄中

覚えた職業によって生活をしており、この一族のためニューヨーク州が使った費

用が二百五十万ドル以上であったとのこと、これによっても一人の人の罪がどれ

だけ多くの人に災いを及ばすものであるかがわかりましょう」(36ページ)

 

また、山室軍平著『平民の福音』にも同様の内容が、次のように記されています。

 

「今から百七、八十年ばかり前、ドイツにアダ・ヨークという婦人が生まれたが、

この婦人は年長ずるに及んで大変な大酒家となり、路頭にまようほどにおちぶれ

て、六十幾歳かで死んだ。しかるに後日、その国の大学教授ベルマンという人が、

思う仔細あってこのアダ・ヨーク女の子孫の成り行きを取調べ、真に驚くべき罪

とがの繁殖力の実例を見いだした。すなわち、この婦人の血筋を引いた男女の数

は、すぐる百数十年間に合わせて八百三十四人あり、取調べの届いた七百九人だ

けについて見ても、その中私生児の数が百九人、こじきになった者が百四十二人、

養育院の世話になった者が六十四人、醜業婦となった者が百八十一人、犯罪人の

数が七十六人、しかもその内の七人は殺人罪を犯した者であり、最近七十五年間、

養育院、刑務所等にて、この一族のために費やした金額は、実に二百五十万円余

りであった、ただひとりの罪とががその後世子孫をわづらわすことも、ここに至っ

てはなはだしいではないか」(35ページ)

 

また、それとは反対に、アメリカの第一次大覚醒運動の立て役者の一人、ジョナ

サン・エドワーズ(1703~1758、牧師、伝道者、神学者)の子孫について、優れ

た人物が多く排出されたとして、次のように述べ、賛美しています。

 

「ジョナサン・エドワーズの子孫1394人の足跡を追跡調査したところ、多くの優

れた人物を輩出されており、大いに社会貢献している。

大学総長が13人。大学教授が65人。アメリカ合衆国上院議員が3人。裁判官が30

人。弁護士が100人。医師が60人。兵士と海軍士官が15人。伝道者と宣教師が100

人。作家が60人。公務員が80人」

 

このように、俗に言われる「先祖の功労」「先祖の因縁」のようなことを強調し

て述べているクリスチャンもいることはいます。

「霊人体の繁殖」と「霊人体の成長」はどのように違うのでしょうか?

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「霊人体の繁殖」と「霊人体の成長」はどのように違うのでしょうか?

 

-回答-

ご連絡ありがとうございます。

さて、「『霊人体の繁殖』と『霊人体の成長』はどのように違うのでしょうか?」とのご質問についてですが、以下、ご説明いたします。

 

まず、「霊人体の成長」についてですが、これは肉身が成長し、幼年期、少年期、青年期を経ながら、やがて成人していくのと同様、霊人体も成長して、やがて完成していくことを意味しています。

 

肉身の成長とは、外的な肉体が、幼年期、少年期、青年期と大きくなっていくことですが、それに対し、霊人体の成長は、『原理講論』に次のように説明されています。

 

「霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という」(87ページ)

 

肉身の成長は、身長の伸び具合で計測したり、体重の増加具合などで量ることができますが、霊人体の場合には、「愛の体恤」の度合いに応じてなされる、人格完成の度合いによります。

成長途上にある長成期の霊人体を「生命体」といい、完成期にある霊人体を「生霊体」というとありますが、その違いを『原理講論』は次のように説明しています。

 

 「イエスは……復活後、霊界においても、弟子たちと異なるところのない霊人体としておられるのである。ただ、弟子たちは生命体級の霊人で、受けた光を反射するだけの存在であるのに比べて、イエスは、生霊体級の霊人として、燦爛たる光を発する発光体であるという点が違う」(259ページ)

 

ちなみに蘇生期の霊人体を、『原理講論』は次のように述べています。

 

「では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた(新約時代の)楽園から見れば、旧約時代の聖徒たちがとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである」(154ページ)

 

以上のように、霊人体の成長は、光輝いている美しい姿なのか、それとも闇のように、暗く醜い姿なのかで、その成長の度合いを知ることができるということです。すなわち、その光りかたが、その霊人体の成長のバロメーターになると言えます。

次に、「霊人体の繁殖」についてです。『原理講論』には、次のように記されています。

 

「また、霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる」(88ページ)

 

すなわち、ここでいう「霊人体の繁殖」とは、個性真理体としての人間の数(人数)がふえていくことを言います。霊人体は、肉身生活を土台としてのみ、成長し完成するため、その繁殖(数の増加)も、肉身を土台として、子女が生み殖えることによって、霊人体の数も増加していくという意味です。

そのことについて、文先生は次のように、み言を語っておられます。

 

 「女性には1カ月に1度ずつ生理がありますね。誰のためですか。子孫がどれほど貴いかを知らなければなりません。(神様が)アダムとエバを造られた目的は、天国の民を生産することです。霊界では生産ということがありません。

 神様は縦的な愛の主人であられるので、縦的なことにおいて軸が一つしかありません。一点しかないのです。一点では生産できないので、横的な面積が必要なのです。それで、人間と一つとなり、天国の民をたくさん繁殖し、移譲するというのが神様の創造目的です」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」94ページ)

 

上記、ご参考になれば幸いです。

 

嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(下)

平成10年(1998年)4月15日 中和新聞  
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(下)

『原理講論』のモーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する記述は、しばしば統一教会に反対する人たちによって意図的に曲解され、統一教会を攻撃するために使われる部分です。先回は、「統一原理の教えの中心は怨讐(おんしゅう)を愛して、サタンを自然屈伏し、神様の世界を復帰することである」という観点から述べましたが、今回は具体的にヤコブとモーセの路程をたどりながら、背後に隠された神様の摂理に迫ります。

一. 「万物復帰」とモーセ路程(エジプト人から財産を取ったこと)について

『原理講論』に「モーセはまた、エジプトから多くの財物を取って出発したのであるが、これも、将来にあるはずのイエスの万物復帰を、前もって表示されたのであった」(366㌻)とあります。
思想的に偏向した弁護士らにより指導され、当法人を訴えた裁判の原告の主張は、この部分を根拠にして、統一教会が万物復帰の教義の実践として、サタン世界から財物を奪ってくる霊感商法を行っているというのです。
ここでいう万物復帰とは、『原理講論』のアダム家庭の「万物を復帰する」(297㌻)ことと同義であり、その詳しい意義については既に陳述書35~39㌻に説明しました。
人間始祖が堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ書一七章9節)立場にまで落ちたので、人間が自分より価値ある万物を供えて、神の子として本来の人間としての価値を取り戻していくことが「万物を復帰する」ことの意義です。出エジプトの際に、イスラエル民族のもとに多くの万物が集まったことは、人間がその本来の価値を復帰することによって自然に万物が主管されてくることを象徴しています。
「真の愛をもっている夫婦が愛し合って生きる家庭には美しい花が咲くし、美しい鳥と美しい動物が近づき、共に住みたいという本性の動きがあるのです。そのような家庭の人には、自然に万物が懐かしく思ってついてくるので、その人には豊かな生活をするなといっても、豊かな生活ができるのです」(40日研修教材シリーズ『神を中心とする生活』185㌻)という文鮮明先生の説教のように、本来の神との関係を復帰した人間は、万物に対する主管性を復帰すること(万物の復帰)ができるというのです.
したがって本来の「万物の復帰」は、努力と精誠を尽くす結果として集まるのであって、無理やり奪い取るものでは決してありません。当時のイスラエルのような方法は前述したように、あくまでも旧約段階における時代的摂理であり、本来の方法ではありません。モーセ路程は、人間が本来の位置と価値を取り戻せば、万物が自然に集まってくるということのあくまでも象徴的表現なのです。
事実、実体摂理を歩まれたイエス路程においては、そのような略奪的方法で万物が集まったのでは決してなく、イエスの教えに感動した人々が、自ら喜んで万物を携えてきた(使徒行伝四章三二~三五節)のです。すなわち「各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自らの心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリント人への第二の手紙九章7節)と聖書にあるごとくです。
モーセ路程で行われた内容は、あくまでもイエスの路程の表示であり、イエスの実体路程がそのまま完全に現れているのではありません。『原理講論』でいう「表示」という言葉はそのような、いわば象徴的であることを意味しているのです。

二.モーセの殺人とヤコブの知恵について

『原理講論』に、「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである。モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人はだれでも悪だと言うであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった」(541㌻)とあります。
統一教会に反対する人たちは、このようなみ言葉を根拠にして、統一教会が常識や良心に反する違法行為を正当化して、そのような教義に基づいて違法な霊感商法を行っていると主張しています。
同じような例としてヤコブの知恵があります。ヤコブが兄エサウをだまして長子権を奪ったことを例として、統一教会が嘘をついて、だまして、詐欺的な方法で、伝道したり経済活動をしているとして、その根拠は、このような教義に基づいていると主張しています。
まず、モーセが行った殺人の問題について、以下のように反論します。
モーセ路程では、聖番に書いてあるとおり、奴隷であるイスラエルの同胞たちを虐待し、迫害してくるエジプト人を、結果的にはモーセが殺すことによって摂理がなされました。『原理講論』は、この同胞愛に燃えたモーセを見て、そのときイスラエル民族が彼を中心に一つになるかならないかということが重大な問題であったと述べています(357㌻)。
けれども、これはあくまでもモーセ路程という形象型の摂理であって、将来来られるイエスを中心に人類が一つにならなけれぱならないということを表示している象徴的表現です。つまりこのことは、やがてイエスが来られたときに、敵を憎み、迫害する者を殺すのではなくて、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五章44節)というイエスの教えを中心にして、信徒たちが一つになるという形で実現したのです。
ですから、モーセ路程における殺人とは、どこまでも旧約時代において現れた摂理であって、イエス時代の実体路程を完全に表しているものではありません。
そして、現代の摂理とは、イエスの時代と同様に、実体路程を歩む摂理であるために、どこまでも「怨讐を愛する」ということによってなされるのです。
以上のことから、「原理講論」の内容は、モーセの殺人を教理として正当化しているというのではなく、聖書に現れている内容を宗教的見地に立って解説を加えているにすぎないのであり、ましてや教理でこれを奨励しているがごとき彼らの主張は言語道断です。
結果的に、イスラエル民族が奴隷の身分でそのままエジプトにいるよりも、モーセを中心に出エジプトしてカナンの地へと帰ったことが、メシヤ(イエス)を迎えるという神の摂理に対してよりプラスとなったという観点から見て、相対的に善だと評価できるという、歴史に対する解釈がここでは(『原理講論』541㌻)述べられているのです。
以上のことから、『原理講論』のある一部分の表現だけをあげつらって判断するなら、物事を正しく理解することはできません。『原理講論』の全体の論旨を酌み取って判断すべきなのです。

次に、ヤコブがエサウをだました問題について、以下のように反論します。
ヤコブが歩んだ路程においては、結果的にヤコブがエサウをだますという形によって長子権(家督相続権)を奪ってしまいました。しかし、これはあくまでもヤコブ路程という象徴型(蘇生型)として現れてきたものでああて、将来来られるイエスが、真の愛の主管による「自然屈服」を通してカイン圏から長子権を復帰することを表示している象徴的表現なのです。
同時にヤコブが知恵を使ってエサウをだましたことが、やがてエサウの恨みを買い、ヤコブが相続するはずであったカナンの地から追放され、21年のハラン苦役路程の原因となったのです。だから本来ヤコブは「自然屈服」の道を歩んで、だますことなくエサウから自然に長子権をもらえる道があったと考えられます。
神の摂理を進めるにおいて、「自然屈服」(心から喜んで一つとなること)が大原則であり、それはだますことや、殺すことなどによりなされるのではありません。最終的な「自然屈服」という結論から見れば、一時的にはだまして成功したかに見えるヤコブは、そのことによってかえって恨みを買い、その恨みを解かねばならないという、もっと困難な課題を抱えたということです。
ヤコブやモーセの時代は神の復帰摂理は、象徴型(蘇生型)、形象型(調整型)の摂理であるので、本来の神の摂理のあるべき姿を完全に現してはいません。だから、それらの路程で殺人やだますことが行われたとしても、それが実体型(完成型)の蕩減復帰の摂理の時代である現代の摂理において行われるべきであるというようなことではありません(注)。むしろ本来は実体型の蕩減復帰においては「自然屈服」があるべき姿であることを思うと、そのようなだましたり殺したりすることはあってはならないことなのです。

以上のような一見矛盾する主張は、神の摂理やみこころがいずこにあるかを知らなければ、到底理解することができない内容です。したがって統一教会に反対する人たちは、統一教会に対する不当な請求を正当化するために、『原理講論』の一部を歪曲(わいきょく)し、勝手に解釈したことに基づいているのです。
(注)象徴型、形象型、実体型の歴史発展については、『原理講論』283㌻以下を参照。

嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(上)

平成10年(1998年)4月1日 中和新聞 
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(上)
今回は、『原理講論』の中で、モーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する部分を取り上げてみます。この部分はよく統一教会に反対する人たちや誤解する人により、意図的に曲解されて統一教会を攻撃するために使われる部分です。神のみこころについて語ったものを、反社会的、違法な内容を教えるものだと解釈するその人たちの意図や誤解を正していかなくてはなりません。

 宗教の経典の多くは矛盾内包

教会に反対する人たちが、ヤコブやモーセ路程の『原理講論』の解説を引用して、あたかもそれらが統一原理の教えであり、統一教会が殺人や略奪行為、またはヤコブの嘘などを正当化しているがごとく主張し、統一教会が反社会的行為を教理上において奨励していると主張していますが、それはまさに自分たちの不当な訴えを正当化するために、意図的に曲解した解釈にほかなりません。
それらの人たちは、宗教書における言語にはさまざまな問題があることを全く無視しています。そもそも宗教における経典(教祖の言葉を含む)や教理霄には。一見矛盾すると思われる表現が数多く見いだされます。そのためにそれらの表現を調和させ、その表現上の矛盾を解消するために何らかの解釈施す必要性が生じてくるのです。
例えば、キリスト教の経典である聖書においても、イエス・キリストは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書五章9節)と教えていますが、一方では為を教理上において奨励し「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っている・:そうではない。むしろ分裂である」(ルカによる福解音書十二章51節)などと、全く矛盾すると思われることを述べています。
また、「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ぱれるであろう」(マタイによる福音書五章18~19節)と語る一方、自らは「安息日の主である」(同一二章8笳)と称して安息日の戒律を破ったり、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」(ルカー六章9節)などと教えたりしているのです。

また後にも述べますが.マタイー五章4節では「父と母とを雅又」という神の戒めを奨励しながらも、ルカー四章26節では「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ.わたしの弟子になることはできない」などと、あたかも父母を捨てることを奨励するかのごとく語っているのです。
以上の様に、経典や教理解説書の中には一見矛盾すると思われる表現が少なからず見受けられるので、その見かけ上の矛盾を解消するために「神学(言語の解釈)」がどうしても必要となってきたのです。その結果、キリスト教では厖大(ぼうだい)な神学書や注解書が生れたのでした。
このように宗教的言語にさまざまな学問的釈義問題があるにもかかわらず、反対する人たちはそのようとな諸事情を無視し、宗教法人世界棊腎教統一神霖塰=(以下当法人という)の発行している出版物の言語を、当法人にその正確な概念規定や意義を確認することもなく、自分かってな意図的解釈を施し、当法人を誹謗(ひぼう)中傷しようと画策しているとしか思えません。

神は人間の成長と進歩に即して摂理

それではそれらの人たちが問題にしているヤコブとモーセ路程に関して、以下に反論します。
神の救いの摂理の本質は「サタンを自然屈伏」してなされるもので、決して強制や何らかの策略またはごまかしによってなされるものではありません。「サタンを自然屈服」するとは、中心人物の愛と真理と精誠によって、霊界のサタンとそれに相対する地上の人たちが心から感動して、敵対していたものが神の愛により一つとなり、神を中心とした人間世界が取り戻されていくことにほかなりません。メシヤとはまさにそのような神を中心とした人間関係を取り戻すために、来られる方なのです。
したがって、そのような「サタンが自然屈伏する」過程、すなわちサタンやサタンの側に立つ人たちが自然に本心で納得して心から屈伏する過程で、殺人やだまし、あるいは脅迫といった強制的、暴力的手段が取られることは、決して摂理の本来的形ではありません。しかし神の救いの摂理は、人類の歴史的心霊と知能の成長と進歩に即して行われるものであり、そのような段階的摂理を『原理講論』は、「サタンを屈服してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった」(342㌻)と記しています。
したがってあくまでも、ヤコブ路程は象徴型(蘇生型)、モーセ路程は形象型(長生型)摂理なのであり、イエス路程に至って初めて実体型(完成型)として展開されたというのです。したがってヤコブやモーセが歩んだ路程とは、どこまでも象徴的・形象的な表示であって、本来あるべき神の実体的な摂理をそのまま表しているわけでは決してありません。
ノア家庭における摂理においても、統一教会に反対する人々は、『原理講論』の。「裸を恥じることは罪であった」との教説(311㌻)を盾にとって、「統一教会は裸になることを奨励している」などといった的はずれな批判をしているわけですが、これに閧しても『原理講論』は、「裸を恥ずかしがることがだれにとっても罪になるのであろうか。そうではない。……アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである」(312㌻)と、はっきりと時代的限定的摂理であったことを明記しています。
このような旧約聖書の記述に関する歴史的段階的解釈は、決して統一教会だけに限ったことではありません。キリスト教においても同様な見解が見られます。『聖書事典』(日本基督教団出版局)31-32㌻には、次のように述べられています。
「……イスラエル民族を通してなされた神の啓示が、今日から見て多くの欠陥をもっていることは否定することができない。その表現において原始的・神話的であるものが少なくない。神の属性、神の意志行動の表現がすべて人間的であるばかりでなく、神に対する人間の態度もあたかも人間の主君や裁判官や父母に対するようにあらわされている。
けれども旧約聖書をすこし注意して読む人は、神の啓示がイスラエル民族の歴史の進展、その文化の発達に伴って展開され、次第に高く深くなっていったことを認めざるを得ないであろう。すなわちイスラエル民族の初期の遊牧時代から、カナン移住後の農耕時代を経、更に王朝時代からアッシリヤ、バビロニヤとの国際関係を経て王国の滅亡、人民の追放捕囚と、移り変わったイスラエル民族の歴史は、その間に起った幾多の預言者により、また先進諸国民との接触交渉によってイスラエル人民の知識思想が次第に発達進歩し、これと同時に彼らの道徳も宗教もともに進歩発達したことを示しているのであって、我々はここに神の啓示の進展を認めざるを得ないのである。
もちろん、これは神の知識思想が進歩発達したことを意味するものではなく、神が選民イスラエルの知的・宗教的発展に伴ってその啓示を展開されたことを意味するのである。われわれが旧約聖書を年代順に注意して読むならば、その思想にも、道徳にも、信仰にも、低きより高きに、物質的より精神的に、肉体的より霊的に進歩発展していった跡を認めることができるであろう。けれどもなお、旧約だけの範囲では神の啓示も、結局、人間の人格、惷、道徳の不完全によって制限されざるを得なかった」

 統一教会の教えの中心は「愛と許し」

ヘンリー・シーセンの『組織神学』190㌻にも、今日の倫理道徳観念から見て理解できない旧約聖書の記述問題に対して、「……キリスト教以前の時代には、絶対的でなく相対的な意味で正当と認められたこともいくつかある」とか「みなごろしの戦争は、腐った手足を切断することによって、後世のへブル民族を救おうとされる、慈悲深い神の外科手術にすぎなかった」(同191㌻)などと述べています。
このように旧約摂理はあくまでも、その時代のみに許された時代的摂理であって、今日も同様にすべき普遍的倫理道徳基準を述べているのではありません。自然屈服の本質とはあくまでも愛することです。したがって実体的摂理を歩まれたイエス様は、敵を暴力的に打ち負かすのではなく、逆に「汝の敵をも愛せよ」と教えられたのです。
同様に文鮮明先生の教えも、「怨讐(おんしゅう)を愛せよ」という思想に満ちあふれており、その教説中に、殺人や略奪、だましなどを自然屈伏の方法として推奨する表現はありません。文先生はその説教の中で「天国に入ろうとするならば、怨讐を愛さなければなりません」「神様が怨讐を打ち殺すのではなく、怨讐を愛したという条件……を立てねばなりません」(1986年2月22日、韓国ソウルでの説教)と語られており、最終的にいかなる敵をも愛し許すことが、復帰摂理の本質であることを強調されています。
このように統一教会は、文先生の教えに藁つき、その信者に対して.神様の頽う愛と人格をもつ者となり、怨讐ともいうべき人々に対しても無条件の許しと愛と精誡を尽くし、それらの人々が、自然に背後にいる神様を信じ、神様の愛を受け入れるようになり、最終的に敵対するすべてのものが和解し、一つとなっていくことができる「自然屈伏」の道を教えているのです。      (「下」に続く)

 

韓国における〝反″統一教会の第一人者による謝罪文

 統一教会に対する謝罪文   -卓 明煥-

 本人は多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会に対し、出版物(統一教、その実相)、スライド(これが統一教だ)、講演会、記者会見等を通して、統一教会が、非倫理的集団、政治集団、新型共産主義、邪教集団であると批判してきました。

 しかし、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、最近、名誉棄損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたのを契機として、新しい角度から、広範囲な資料を収集、総合検討した結果、本人が統一教会に対し批判した内容中、事実でない部分があることを確認、次のように訂正釈明します。

 1、非倫理的な集団問題

 本人は、統一教会の創始者、文鮮明氏が一九五五年七月四日社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的、淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日宣告公判において無罪で釈放されたのを知るようになりました。

 これ以外、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します。

2、政治集団問題

本人は、この間、統一教会を政治集団と規定、批判してきたが、これは事実ではないことが明らかにされたので、ここに訂正します。

 3、新型共産主義の問題

 本人は統一教会を、新型共産主義集団であると批判してきたが、これは事実でなかったので、ここに釈明します。

 以上、三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した資料に、多くの間違いがあり、本人が統一教会を否定的に批判することによって、統一教会に被害を与えてきたことに対して、深甚なる謝罪の意を表し、今後は再びこのようなことをしないことを確約いたします。

 ※この謝罪文は一九七九年九月十日付

朝鮮日報と韓国日報、

九月十一日付、ソウル新聞二只郷新聞、東亜日報、新亜日報に載せられている。

-以下、謝罪文についての報道紹介-

統一教会に謝罪する

『週刊宗教』一九七九年九月二十日付

 新興宗教問題研究所の所長卓明煥氏が、彼の今までの統一教会に対する批判内容が、事実と違うことを確認し、「このような誤りを犯したことに対して、統一教会側に謝罪する」と発表した。

 十日、十一日、国内七大日刊紙に発表した謝罪文を通して、卓明煥氏は、「多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会を『非倫理的集団』『新型共産主義』『政治集団』『邪教集団』であると批判したけれども、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、名誉棄損等、犯罪行為で拘束起訴されたことを契機として、新しい角度から広範囲な資料を収集、検討した結果、本人の批判内容中、事実ではない部分があったことを確認し、訂正、釈明する」と語った。

 卓明煥氏は、自分の批判内容中、間違った部分を具体的に言及し、・非倫理的な集団、・政治集団、・新型共産主義の邪教集団うんぬんの批判が、根本的に誤りであったことを是認した。

 特に卓氏は、彼が批判した統一教会の非倫理的集団うんぬんに対して、「本人は統一教会の創始者文鮮明氏が、一九五五年七月四日、社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日、宣告公判において無罪で釈放されたことを知るようになり、それ以外に、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します」と明らかにした。

 卓明煥氏はまた、「以上三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した間違った資料により、本人が統一教会を否定的に批判することによって統一教会に被害を与えたことに対して、謝罪の意を表して、再びこのようなことをしないことを確約します」と明らかにした。

 経緯

 統一教会はこの間、あらゆる批判勢力に対して、一貫して沈黙する政策をとってきた。その代わり、統一教会に対する「淫乱集団≒政治集団」「邪教集団」「異端」「新型共産主義」などとの批判には、学界と宗教界教役者を対象として、統一原理公聴会を開き、教団認識を新しくしたり、国際的な勝共運動と夏期と冬期を利用した大々的な伝道活動で応戦してきた。しかし、度を越した批判に対して「統一教会側か沈黙で一貫するのは、その事実を是認するものではないか」という外部の誤解を買うことになったり、また教会内でも前線牧会者たちが、伝道に甚大な支障をきたしているので、一日も早く汚名をすすがなければならないという要求が、嵐のごとく起こり、ある対策を講じなければならないと、重大決断を下すようになったという。

 このような状況において卓明煥氏は、最近『統一教、その実相』という本を発刊した。本の内容は相変わらず統一教会に対する事実歪曲、針小棒大等で、誤りが多く、教会全体はもちろん、現存する統一教会関係人の名誉を毀損していて、統一教会側は次第に白黒(善悪)をつけるつもりで、反証に必要な資料を収集、これに立脚して名誉毀損で提訴する方針を固めるや、卓氏が謝罪文を出すことになったというのである。

 卓明煥氏はその間、統一教会に関して出版物、スライド、講演会、記者会見等、機会あるごとに辛辣に批判してきた。しかし、彼は十余年間新興宗教を研究して、それなりにこの道の権威者として認定を受ける立場に立ち、宗教研究が単なる風土にだけ迎合する偏向的なことと、歪曲された先入観や逆技能面を取り扱うことが全部ではないという学者的良心に促され心的変化をもたらしたようだ。それで従来の研究姿勢を是正しようとしたところ彼に資料を提供してくれた人たちの拘束を契機として全面再検討した結果、今まで自分の統一教会に対する研究発表が間違っていたことを発見するようになったものと、解釈できる。

破廉恥な卓明炊氏

『週刊宗教』一九八〇年一月十六日付

 国際宗教問題研究所の卓明煥所長が、その間新興宗教問題研究所という看板をもって、既成教会と新興宗教を二重に欺瞞し、いろいろの手法で破廉恥な行為を業としてきた行跡が暴かれ、教界を驚かしている。

 このような事実は、卓氏が七九年九月、統一教会に『謝罪文』を発表して以来、最近再び謝罪文発表以前と同じ内容の誹謗行脚を開始することによって、統一教会側から、その間隠しておいた謝罪文発表前後の事情を明白にされることによって、暴かれた。

 統一教会の一関係者朴吉年氏によれば、最近卓氏が『統一教会の実像と虚像』という本の発刊と雑誌投稿、集会講演で一方的な誹謗を業としていることに対して「その間卓氏の過ちを悔い改めて善くなることだけを待っていたが、少しの反省もなく教界を愚弄する処事を継続していて、これ以上韓国教界が彼の二律背反的行為に眩惑されることを防ぐために、やむを得ず全貌を明白にするほかない」とその経緯を語った。

 彼によれば、去る七六年三月ごろ、急に卓氏から電話で会おうと提議したのち△この間統一教会に対して故意に非難謀略をし、済まない。これからは中傷謀略、人身攻撃はしない。そして、新興宗教より既成宗教に問題がもっと多い。△これから先、既成教会の復興会、修道院、神学校等を本格的に批判しなければならないが、その場合、既成教会で問題が生じるようなので、統一教会で生計を保障してくれと要請してきたというもの。

 そこで統一教会側では△統一教会の健全な批判は歓迎する。批判を受けてこそ成長するものではないか。

 △既成教会に対する批判も建設的で、肯定的な批判にとどまれ。また生計費を保障することはできない。貴下の新興宗教問題研究所を、国際宗教問題研究所に変えて、韓国教界全体の発展とキリスト教の連合に寄与することのできる学問的研究をするならば、研究費は支援する用意があると答え、統一教会のこの条件を卓氏が受け入れ、七六年七月二十三日午後四時、ソウル西部駅の裹、中林洞所在、国一飯店で、卓氏と彼と一緒に仕事をするK某氏、統一教会側二名が同席する場で、卓氏の要求どおり月三十万ウォンずつの一年分研究費三〇〇万ウォンを支給したということである。

 しかし、卓氏は統一教会に対して悪意的非難を継続するだけでなく、看板も変えないで批判冊子をつくる等、数多い欺瞞行為を継続したので、七九年九月統一教会側から最後の対策として、卓氏の言行と冊子を集め、詐欺および名誉毀損で告訴する方針を固めるや、この事実を知った卓氏が△告訴はいつでもすることができるではないか、贖罪する意味で謝罪文を出す。△謝罪文を出したあとでも、私の態度が変わらなかったら、いつ告訴してくれても受けるつもりだといいながら、自筆で覚書と謝罪文を書いて統一教会側に渡したというのである。

 ところで、当時卓氏は国内各新聞紙面を通じて、謝罪文に、「多年の間、統一教会を批判してきた内容が事実と違い、本人の批判で統一教会に被害を与えたことに対して、深甚な謝意を表し、今後、再びこういうことがないことを確約する」と明白にした。

 卓氏は、この謝罪文でまた、謝罪文発表の動機を「本人に統一教会の資料を提供してきた人たちが、名誉毀損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたことを契機として、広範囲な資料を再び入手、総合分析した結果、本人の批判に間違った部分を発見するようになった」と語った。

 自筆で謝罪文を書いた卓氏は、その後「強制されて本人の意志に反して書いた」と主張し、それに対して統一教会側は「平素遺言状を携帯し、京郷(首都と地方)各地を回りながら、命を賭けて統一教会批判運動をするという彼が、強制されて謝罪文を書いたと弁明することは自家撞着」であると主張している。

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?②

失楽園の物語に隠された意図とはなにか?

創世記の第3章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語は、キリスト教における「原罪」の教義の基礎となっている。この物語の意味する内容については古来よりさまざまな解釈がなされてきたが、それを解く重要な手がかりとして、この物語の「著者の意図」を探るという方法がある。「聖書の著者って、神様じゃないの?」という敬虔な方もおられるだろう。もちろんそれも一つの見方だが、ここではより現実的・歴史的観点からこの物語の意味を探ってみようと思う。

これは聖書批評学という学問がとる手法で、聖書の各部分を書いた著者の年代、背景、思想的傾向、想定されていた読者、語ろうとしたメッセージの内容、などを研究するものだ。聖書を歴史的背景に照らして読む利点とは何だろうか?聖書は比喩や象徴に満ちている。そして一つひとつのシンボルが意味する内容は文化圏ごとに異なっている。たとえば日本では「湯水のごとく使う」と言えば、どこにでもたくさんある物のようにムダ遣いすることを意味するが、砂漠で生活する人々にこの言葉を直訳したら、全く正反対の意味にとらえるはずだ。したがって、我々とは時代も文化背景も違う著者が書いた文献を読むときには、とんでもない間違った解釈をする危険があることが分かる。逆に著者の生きていた時代的・文化的背景を知っていれば、一見何を言っているのか分からない記述も、その意味するところが分かろうというものだ。

旧約聖書の批評学によれば、創世記が含まれている「モーセ五書」は、J・E・P・Dという4つの資料を編纂して作られたというのが定説になっていて、創世記の第3章はこの中で最も古い時代の「J資料」(紀元前850年頃)に属するものだと言われている。この「J資料」というのは、神様を「ヤハウェ(Jahweh)」と呼んでいることから、その頭文字をとって「J資料」と名付けられたものだ。もちろんその著者の正確な名前は分かっていない。そこでヤハウェを崇拝していた人物ということで、一般的に「ヤハウィスト」と呼ばれている。

さて、最近の聖書批評学が明らかにした内容によれば、創世記第3章の著者「ヤハウィスト」の記述は、彼が生きていた当時の近隣諸国の神話のモチーフに満ちているという。したがって著者はこれら近隣諸国の神話をよく知っており、当然彼が語りかけていた同時代・同文化圏の人々も、それらのモチーフが何を意味するか知っていたことになる。したがってこれらの神話的モチーフの意味を解読することを通して、創世記第3章の物語が「彼らにとって」何を意味したのかが推察できるというわけだ。

創世記の記述によれば、アダムとエバは「蛇」に誘惑されて「善悪を知る木」の実をとって食べて罪を犯し、その途端に裸が恥ずかしくなって、いちじくの葉を腰に巻いて下部を隠したとされている。その当時、中東全域において「蛇」は性的快楽、健康、知恵、肥沃等の神として崇拝されていた。これはアシュラと呼ばれる繁殖の女神をあがめる「多産崇拝」で、このカナンの土着信仰は歴史的にイスラエル民族を唯一神ヤハウェに対する信仰から逸脱させようとする誘惑であり続けた。多産崇拝の大母神としてのアシュラの役割は、「すべて生きた者の母」と呼ばれた創世記のエバの記述と酷似している。エバの名前はヘブル語では「ハゥワー」であり、アラム語の「蛇(ヒゥャッ)」と同根である。

農耕民族に広く分布していたこの多産崇拝においては、人間、穀物、牛などの豊饒は、男性神と女性神の性的結合によってもたらされると考えられていた。そしてその神々の性的結合を象徴する「宗教的儀式としての性交」が、神殿娼婦と男性崇拝者との間で行われ、それによって地上に豊饒の祝福がもたらされると信じられていた。アシュラ崇拝にはしばしば「アシュラ」と呼ばれた木の柱が用いられ、性の儀式はしばしば木の下や木製のアシュラ像の横で行われた。したがってこの多産崇拝の情景は、創世記第3章の記述に非常によく似ているのである。創世記3章の情景の中には、多産崇拝の「神々の結婚」の儀式を構成する要素がすべて含まれている。蛇の「あなたは神のようになる」という言葉は、まさに性的恍惚を通して神と人とが交じり合い、地上に豊饒、癒し、不死をもたらすという、多産崇拝の主張を物語っている。

このように創世記第3章をそれが書かれた当時の歴史的状況に照らして読めば、それがカナンの多産崇拝に対する反論または警告として書かれたことが分かる。カナンの宗教において蛇は癒しと不死を象徴する生き物であり、神格化されていた。しかし創世記の著者は、蛇を狡猾なものとして描くと同時に、単なる動物にすぎないものとして描いている。これには蛇に神秘的な力があると信じていたカナンの多産崇拝の神話が、まやかしにすぎないものであるという意図が込められているのである。

創世記第3章の物語の解釈は、エバが食べたという「善悪を知る木」の木の「知る」という言葉が何を意味していたかが、解釈のポイントになる。ヘブル語において「知る」という動詞(原語の発音は「ヤダ」)は非常に広い意味を持っていたが、しばしば男性が女性と性関係を持つという意味で用いられた。しかし創世記の記述は性行為そのものを禁じているのではない。むしろ結婚は神の祝福であった。したがって物語は婚姻関係以外での性関係を断罪しているのである。カナンの多産崇拝は、祭の時に夫や妻以外の男女と性関係を結ぶことにより、長寿、多産、神との交流を約束する宗教であり、その宗教的シンボルには「蛇」と「木」が含まれていので、創世記の著者は明らかに神殿娼婦による性の儀式を伴うカナンの多産崇拝に対する反論、あるいは警告を意図してこの物語を書いたのだということが分かるのである。

さらに、「いちじくの葉」は性的な宗教の乱交と関連したものであった。そしてアダムとエバは堕落した後に、裸を恥ずかしく思って下部を覆った。また罪に対する罰は、妊娠と出産の苦痛に関連している。したがって聖書の記事は、多産崇拝が約束した祝福が安っぽい詐欺的誘惑であり、その結果は祝福とは逆の「呪い」であるというメッセージを語っていることが分かる。多産崇拝における神殿娼婦との性の儀式の結果もたらされるのは、豊穣、子孫の繁栄、永遠の命ではなく、逆に不作、産みの苦しみ、そして死であり、ヤハウェの真の祝福である「命の木」への道は閉ざされてしまう、というのが著者の言いたいことである。

創世記3章の著者は、カナンの多産崇拝の性の儀式が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるという主張を物語の中に込めている。これがその時代における失楽園の物語の意味であった。しかしこの物語は今日の我々に対しても普遍的なメッセージを語りかける。なぜなら今日ほど「性の偶像化」がなされている時代はないからだ。今日の我々の文化は性を礼賛し、あたかもエデンの園の蛇のごとく「取って食べなさい」と人々を誘惑している。しかしその結果もたらされているものは、人々の精神的退廃と家庭の崩壊である。

統一原理は、不倫なる性愛が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるととらえている点において、創世記第3章の著者と完全に一致している。そしてちょうど木によって象徴されたアシュラが全ての存在の母なる神として崇められていたように、統一原理においても「善悪を知る木」は全人類の母となるべき「エバ」を象徴するものであったと解釈されている。そして木の実はエバの貞操を意味し、それを「取って食べる」という行為は、まさしく性関係を意味していると捉えられているのである。そして堕落によって閉ざされてしまった「命の木」とは、本来アダムが罪を犯さなければ至るはずであった完成の理想であった。このように見ると、はるか古代に生きたヤハウィストと統一原理は、時代や文化圏の違いを越えて、神が人類に対して語りたい普遍的なメッセージを受けとめているということが分かる。

そして統一原理はその物語の背後に、人類始祖の堕落に関するさらに詳細な秘密まで読みとっている。まず創世記に登場する蛇は、単なる動物ではなくて堕落してサタンとなった「天使」を象徴するものであると解釈されている。その蛇がエバを誘惑して善悪の実を食べさせたということは、本来アダムとエバの養育係として二人の成長を手助けするために創造された「ルーシェル」と呼ばれる天使が、まだ幼かったエバを誘惑して霊的な性関係を結んでしまったことを意味しているのである。そしてエバがその木の実をアダムにも食べさせたということは、彼女がアダムを誘惑し、彼までも罪の中に巻き込んでしまったことを意味するのである。

すなわちヤハウィストが書いた物語の持つ意味は、聖書批評学的に見れば当時の文化的状況を背景として理解されるのであるが、その物語の中には彼自身も意識しない内に、人類歴史の最初に犯された不倫の罪に関する秘密が隠されていた、と統一原理は見るのである。ヤハウィストは当時の社会的問題について真剣に悩み、その解決を求めていたので、神はそれをモチーフとして人類の罪の根源に関する秘密を啓示したのである。そして統一原理の堕落論は、今日我々の社会が抱える同じ問題の解決の為に与えられた、「神の啓示」なのである。(魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』より)

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?①

浅見定雄氏の批判

『講論』は人間始祖の堕落の問題をすべて「セックス」と関係づけている(浅見定雄『統一協会=原理運動――その見極め方と対策――』148ページ)。

 

批判に対する回答

『講論』は、人間始祖の堕落を単なる「セックス」と関連づけているのではなく、そこで真に主張されている内容は、人間始祖による“愛の秩序の破壊”と言うことなのである。楽園(神の国)は、神を中心とした愛の秩序の下に築かれなければならなかった。この愛の秩序の破壊が楽園喪失の真意だったのである。ところでこの愛の秩序は性的な次元で最もシビアに表れる。人間始祖の堕落も、性的な次元において決定的な出来事として生起したのである。

人間始祖の堕落の背後に性的な問題が潜んでいるという考えは、これまでにも見られた。例えば『カトリック聖書新注解書』は、神話的表現の背後に堕落の性的要素が語られているとして次のように述べている。少し長くなるが参考のため以下に紹介しておきたい。

「聖書の作者によって表明されている人祖の罪は、異教徒の神話となんらかの関連があると考えられる。作者は、これらの神話を良く知っていたに違いない。彼は、自分と同時代に生きているだけでなく、同じ文化的背景を持つ男女のために書いたのである。その読者たちは著者と同程度の教養を持っていなかったと考えられる。著者は、物語を記述するに当って、故意にあるいは無意識のうちに(ただし意識的であった可能性が大きい)、読者が知っている近隣諸国の神話や伝説を利用せざるを得なかった、という事実を否定することはできない。すぐれた語り手として、著者は同時代の人々に、すべての人が持っている罪への傾きを説明するために、誘惑と堕落をすぐれた方法で描写したと思われる。これが、コペンスなどによって推唱されている罪の〈性的〉解釈の基礎である。

蛇は、パレスチナにおけるカナン人の宗教において、セム族の諸宗教におけると同様に、性の象徴であった。蛇は、カナン人によって、神バアルおよび女神アシェラ(共に多産の神)と関連づけられていた。この関連づけから、イスラエル人聴衆にとって、蛇が悪魔的儀式への誘惑の象徴であったことが容易に理解できる。カナンにおけるイスラエルの歴史を通じて、バアル崇拝はイスラエルの民にとって非常に魅惑的であった。この民の傾きに対して、律法と預言者は絶え間なく非難を続けたが、警告が聞き入れられない場合が多かった。〈善悪の知識〉は道徳全般に関するものであったが、性的知識に関連づけて使われている(申1:39、サムエル下19:35)。〈禁断の実〉を食べることは、女神アシェラの礼拝の際に行われた〈ぶどう菓子〉を食べる(ホセア3:1)のと同様に性に関連したことを思い起こさせたのであろう。最後に、男女は罪を犯した直後に、性に気づいた。そして、女への罰は性の次元で宣告される。確かに、聖書作者は、性そのものが悪であるとか、あるいは神が男女に求めた理想的状態においては性交がなかったとか言おうとしているのではない。それとは反対に、すでに見たように(創2:24)、作者は一夫一妻の結婚が神によって定められた制度であることを教えている。むしろ、作者は、カナンの影響によってイスラエル人に伝染する危険のある性に関する悪弊、例えば、多産の神への祈願、または本来の目的に反する性の体験などを暗示しているのであろう」(エンデルレ書店205ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)