反対派に乗せられて書いた朴正華著『六マリアの悲劇』

統一教会に対する。“血分け”の中傷は、1950年代半ばから絶えず行われてきました。しかし実際は、卓明煥氏が告白したように、「明確な証拠は何もなかった」のです。おそらく、反対派の人々は、このような状況にしびれを切らしていたに違いありません。

統一教会を貶めるために、何としてもその証拠になるものを提示したいと切望していたところに、問題の書、朴正華氏の『六マリアの悲劇』(恆友出版)が登場してきたのです。

朴氏は、その後、心を入れ替えて、『六マリアの悲劇』で書いた文師のセックス・スキャンダルは、すべてでっち上げだったとして、新たに、真相告白の書『私は裏切り者』(世界日報社)を出版しました。

では、著者の朴氏が“でっち上げ”であることを自ら暴露した、この問題の書『六マリアの悲劇』は、どのようにして出版されることになったのでしょうか。その経緯について、朴氏は『私は裏切り者』の「けじめに」で、次のように述べています。かなりの長文ですが、重要ですので次に引用します。

「当時(1993年)、日本では、韓国で行われた三万双国際合同結婚式以来、統一教会に異常な関心が集まっていた。そこに、教会の草創期を先生とともに歩んだ男が、『真のサタンは文鮮明だ』と銘打って、ありもしない先生の『セックス・スキャンダル』をブチ上げたのだから、これは一大事件である。統一教会批判のネタ漁りに余念のない反教会ジャーナリストが、黙って指をくわえたまま放って置くはずがない。

たちまち私は、“統一教会バッシング”に便乗、相乗りした週刊誌やテレビーワイドショーの寵児となってもてはやされた。

なぜ、大恩ある先生をマスコミに売るような信義に悖ることをしたのか。

それは先生に対する憎しみ、抑えることの出来ない私憤のためである。私は『六マリアの悲劇』を、先生と差し違える覚悟で書いた。先生の宗教指導者としての生命を断ち、統一教会をつぶして俺も死ぬ、そんな破れかぶれな気持ちだった。だから、ありもしない『六マリア』までデッチあげたのである。

昔から宗教指導者を陥れるためには、セックス・スキャンダルほど効果的なものはない。聖なるものを泥まみれにして叩きつぶすには、その最も対極にあるセックス・スキャンダルほど有効な手段はない。そのことは誰もが知るところで、私もその卑劣な手段に手を染めた。

『生きるも死ぬも一緒』とまで誓った男と男の約束を、自ら裏切るほどの憎しみが生じたのは、なぜか。その赤裸々な告白が、この本の一つのテーマであるが、ここでかいつまんでお話しよう。

私は夢で、文先生が『再臨のメシア』だと教えられ、一緒に生活する中で、多くの奇跡を体験してきた。だから、先生が再臨のメシアであると確信できたのである。ところが、人間とはおかしなもので、いくら夢のお告げを聞いて体験しても、めまぐるしく移り変わる現実生活がだんだん自分中心になっていくと、それにつれ自分自身も見失っていく。そうなると、神の摂理のために公的に生きる先生まで、自分中心にしか見られなくなる。統一教会の教勢が発展していくにつれ、優秀な人材が教会に入ってくる。摂理を進めるために、先生がその人たちを活用する。

そういう時、私は何か自分が疎外されているのを感じ、愛の減少感にとらわれ、孤独の淵に落ち込む。そうなると、なかなか立ち直れない。真理を学ぶ気持ちもおきないし、祈る気持ちにもなれない。ただ、寂しさだけがひたひたと募ってくる。自分だけのことしか意識のいかない、そんな世界を乗り越えることは難しいことだ。

その時、自分の心に何かが囁きかけてくる。あなたは正しいんだ。あなたを認めない相手が悪いんだ。そんな相手は倒さなければならないーと。強烈な自己正当化と相手に対する批判と憎悪。

聖書には、イエス様を裏切る前のイスカリオテのユダに「サタンが入った」と書かれているが、そのような得体の知れない冷たい思いこそ、サタンの囁きかも知れない。これにとらわれると、だんだん居ても立ってもいられなくなる。

お前を裏切ったのは文先生の方だ。お前は先生にだまされている。先生は身内のものを身近におき、先生のために苦労しかものを無慈悲にも捨て去った。その証拠に、お前も追い払われたではないか。憎め!悔しがれ!復讐だ! 彼を倒すために何でもやれ…。

こんな時に限ってよくしたもので、日本の出版社から“おいしい”出版話が持ちかけられた。金に困っていた当時の私には、願ってもない話だった。『朴先生の本だったら二十万部は売れますよ』と。

〈定価1,500円の印税10%、一部につき150円で、二十万部だと3,000万円(韓国のウォンで約二億一千万ウォン)が手に入る計算になる〉と、ついその気になり、とんでもない本を出してしまった」(2~5ページ)

朴氏は、統一教会の草創期を歩んだ、数少ないメンバーの一人でした。しかも、興南の徳里特別労務者収容所で文師とめぐり会った、古参信者の一人でした。ところが、後から入教してきたメンバーが自分より優遇されて用いられていく姿を見て、寂しい思いにとらわれ、やがてその寂しさが憎しみへと変貌を遂げていったのだと言います。

その憎しみに取り憑かれてしまった朴氏は、まさに“魔がさした”かのように「とんでもない本」をでっち上げて出版しようと思ったのです。そのことを知った反対派の人々が放っておくはずがありません。願ってもない獲物が来たと言わんばかりに、朴氏に急接近し、うまい出版話を持ちかけていったのです。

このようにして、朴氏は統一教会反対派のジャーナリストやキリスト教関係者らから持ち上げられ、センセーショナルにマスコミでも取り上げられるようになりました。そして出版されたのが『六マリアの悲劇』だったのです。

しかし、朴氏はその後、『六マリアの悲劇』の内容は、「文師に対する個人的な恨みからでっち上げた作り話で、真相はこうである」として、約2年後の1995年11月1日、『私は裏切り者』(世界日報社)を出版したのです。そうなった経緯について、朴正華氏は次のように語っています。これも長文になりますが、次に引用しておきましょう。

「『六マリアの悲劇』を出版した後、私は本の販売キャンペーンのため日本全国の反統一教会グループの集会に顔を出し、本のPRをして歩いた。キャンぺーンの反応は悪くなかったので、私の期待は膨らんだ。しかし、意気込みに反して本はあまり売れなかった。

そんなある日、ソウルの安炳日氏から仁川の自宅に電話が入った。会いたいというので、気軽にOKをした。

仁川から電車でソウルに出て、待ち合わせたロッテホテルのコーヒーショップで彼と会った。

私は当然、彼が私の本の出版を非難してくると思っていた。そうしたら、その場ですぐ殴ってやろうと思った。そして、この本をさらに英訳して世界に公表しようと思っていた。たまたま、日本の反統一教会グループから、再び全国巡回講演の依頼を受けていた時でもあった。

『朴先生、お元気ですか』

にこにこして挨拶する彼に、私は『あーっ』とあいまいな返事をしながらコーヒーを飲み始めた。

私は、先生を裏切る行為に出た理由を、一つ一つ語った。

『棲鎮鉱山に追いやられ、何の援助もなかった』こと。

『教会に戻ろうとしたが、組織が出来上がっていて、もう自分の位置がなかった』こと。

『後から来た者に『はい、はい』と頭を下げることができない』ことなどである。

さらに『ダンベリーに七回も手紙を出しだのに返事がこない』こと。

『一和の金元弼社長に二十回も電話したが、返事もこない』ことも付け加えた。

自分の主張をまくしたてたあと、教会を出た後に反教会グループの者から聞いた悪口も、怒鳴るように大声を出して吠えた。

彼は、私の話をたっぷり二時間の間、黙って聞いてくれた。

それで、私の心はすっきりした。

安氏はそれから、問題の一つ一つについて丁寧に説明してくれた。

彼とは、金徳振氏の一件で一緒に仕事をしたことがある。心の中で、統一教会にもいい 人がいるんだな、とかつて抱いた思いがよみがえってきた。本の出版前に彼に会っていれ ば、こんな馬鹿なことはしなかったかも、という悔悟の気持ちがわいてきた。

その日はそれで別れ、その後彼と二、三回会って話をした。

彼は最後に会ったとき、日本の兄弟たちが先生の本で相当苦しめられている、とポツリ と言った。私は〈何言っているんだ。今まで俺を疎外したくせに。日本の兄弟が苦しむの は、先生に対する復讐なのだ。ざまあみろ〉という気持ちに戻った。

それから少し経ったある日、安氏から電話が入った。また会いたいという。

会ってみると、彼は真剣な表情でこう切り出してきた。

『朴先生と一緒に日本で本を出版した人たちが、政府のある高官と手を組んで、朴先生の本を韓国語に翻訳し二、三百万部を韓国中にばらまき、統一教会を壊滅状態に追い込む。

それをやめさせてやるから、二、三百億ウォンを自分たちに払えと脅迫してきた』

驚いた私は、彼の顔をじっと見つめていると、

『自分は、政府の関係者を通して、金大統領がそのようなことをするのかと尋ねたところ、そういうことはないと言われた。もし、それが本当なら恐喝で彼らを牢屋に入れる、と言われたそうだ』

私は、心臓が止まるほどの驚きを覚えた。

『朴先生は、その一味に加担しているのですか』

たしかに、私は、先生をやっつけようとしたが、それは私憤からである。それが、仲間に利用されて統一教会を恐喝し、金儲けの道具にされていることを知り、義憤と落胆が交錯した。だが、安氏は私を咎めなかった。彼は、逆に私をなぐさめてくれた。人間とはおかしなものだ。悪口を言われると、『何を!』と対決する力が出るが、過ちを怒らないでかえって慰められると、何か悪いことをしたような反省の気持ちにさせられる。

さらに、少し日が経って、安氏ともう一度会った。

 

『日本で反対派が、先生の本を利用して兄弟たちを苦しめている』

最初にそれを聞いた時は、〈ざまあみろ〉という気持ちだったが、それが金儲けのための道具に利用されていると聞いた後なので、私の心は複雑だった。ちょっと可哀想な気がして、良心の呵責を覚えた」(231~234ぺージ)

朴氏は、単なる“個人的恨み”を晴らそうとする動機から出版しようとしたのです。ところが、その本を、心ない一部の反対派の人たちに悪用され、しかも自分を出し抜いて、本人の知らない水面下で統一教会に脅迫まがいのことをしていることを知って興ざめしたというのが、朴氏が悔い改めた第一の理由だったのです。

おそらく、孤独な自分の味方と思っていた反対派からの「裏切り行為」に出会い、統一教会のときに感じた「愛の減少感」以上の疎外感や空虚感を感じたのでしょう。もちろん、そこに至るまでには、嘘をついてしまったことに対する良心の呵責から来る「後ろめたさ」と、安炳日氏の心温まる“心のケア”があったのは言うまでもありません。

そして、朴氏が悔い改めた2つ目の理由は、『私は裏切り者』の中に書いていることですが、安氏から紹介されて日本の世界日報社社長の石井光治氏と会い、統一運動の現状を聞かされ、さらにアメリカにまで渡って視察して回ることによって、かつて興南の収容所で文師から聞かされていたことが現実のものになっている姿をまざまざと見せつけられ、深く感動したことが挙げられます(『私は裏切り者』237~248ページ)。

そして、第3の理由として、拙著『統一教会の正統性』(広和)を読み、特にイエスの歩まれた生涯と文師の歩まれた半生が、あまりにもよく似ていることを知ったことが一因でもあったとのことです(『私は裏切り者』248~251ページ)。

このように、朴氏は悩んだり苦しんだり、また仲間から裏切られたりして心の傷を受け、安氏の“心のケア”を受けて、やっと立ち直ることができたのです。

それにもかかわらず、浅見定雄氏は、「(朴氏は)日本で本を出したりすれば大金が入ると思っていた期待が裏切られたため、再び統一教会へ寝返ったというだけの話」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』かもがわ出版、37ページ)と切り捨てています。あまりにも人の心を踏みにじる発言であるとしか言いようがありません。

朴正華奢『六マリアの悲劇』(恒友出版)は、反統一教会派の人々の甘い誘いに乗せられてしまった著者が、まるで“魔がさした”かのごとくに出版してしまったデッチ上げの書なのです。

ところが、日本で出版された『六マリアの悲劇』が、反対派の主導によって韓国語に翻訳される作業が行われ、1996年3月1日付けで『野録統一教會史』として韓国で出版されたのです。

この『野録統一教曾史』の出版は、朴正華氏の本意ではありません。悔い改めて統一教会に再び帰ってしまった朴氏に“秘密”にして、反対派が出版に漕ぎ着けてしまったものです。事実、この『野録統一教曾史』に掲載されている朴正華氏の「前書き」部分は、『六マリアの悲劇』の「あとがき」を一部削除し、それをそのまま転載し、著作日付も1993年10月の古いままになっています。著者の意向を完全に無視して出されたためです。

その事実を知った時点で、朴氏は「その出版は本人の許可なくして出したもので、違法に当たる」として法的訴えを起こしました。

しかし、満83歳という高齢であった朴氏は、係争中、志半ばにして、97年3月26日に亡くなりました。その2か月前の1月に、念願し続けてきた「祝福」を受けています(「ファミリー」1997年5月号、4ページ)。

ところが反対派は、それらの事の成り行きを知らない統一教会信者に対し、『私は裏切り者』が1995年11月1日に世界日報社から出された後で、1996年3月1日に、韓国語に翻訳された『野録統一教曾史』が出版されていることから、「この出版が新しい事実から見ても、『私は裏切り者』は統一教会が勝手にでっち上げて出版したものだ」と脱会説得をすることもありました。これなどは、反対派のあくどさを表すものです。

出版事情をひた隠しにする、このような手法は、反対派全体に見受けられる傾向です。例えば、1997年8月20日付で出版された浅見定雄監修『統一協会ボディコントロールの恐怖』(かもがわ出版)でも、こういった出版事情のあることを無視し、さも『六マリアの悲劇』には真実が書がれているかのような思わせぶりで、文師に対するゆがんだ情報を流し続けているのです。

その浅見定雄氏は、『六マリアの悲劇』について、「この本の最大の意義は、著者の朴正華氏が統一協会の創立以前から文鮮明の片腕だった人であり、文鮮明の『血分け』(『復帰』という)の乱行の生き証人であるという点にある。著者は自分自身も文鮮明の指示で血分けを実行させられたと告白している。この本で明らかになったことはたくさんある……」(『統一協会ボディコントロールの恐怖』14ページ)として、書いた当の本人がすでに取り下げているにもかかわらず、真相が明らかにされた後も、なお、その著者の意向を完全に無視して著述し続けているのです。これが反対派のやり方なのです。まさに「嘘も百回言えば真実になる」を地で行っているのです。

文師や統一教会は長い間、何の証拠もないのに、キリスト教関係者や反対派グループから、淫行の教祖、血分け教と言われ続けてきました。それは、初代キリスト教会時代においても同様でした。極めて古い初期の頃からユダヤ教側が「イエスはローマ兵士パ

ンテラと母マリアとが“姦淫の罪”を犯して生まれたいかがわしい人物である」と噂し始

め、その噂はなかなか止まず、何とオリゲネスがAD248年頃に書いたとされる『ケル

ソス駁論』においてさえ、まだ弁明し続けなければならなかったほどです。

キリスト教会も、近親相姦をしているとか、いかがわしい儀式をしているとか、長い間、

噂された歴史的事実がありましたが、それと同じ状況を統一教会に対する“血分け”の中

傷に感じます。

嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(下)

平成10年(1998年)4月15日 中和新聞  
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(下)

『原理講論』のモーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する記述は、しばしば統一教会に反対する人たちによって意図的に曲解され、統一教会を攻撃するために使われる部分です。先回は、「統一原理の教えの中心は怨讐(おんしゅう)を愛して、サタンを自然屈伏し、神様の世界を復帰することである」という観点から述べましたが、今回は具体的にヤコブとモーセの路程をたどりながら、背後に隠された神様の摂理に迫ります。

一. 「万物復帰」とモーセ路程(エジプト人から財産を取ったこと)について

『原理講論』に「モーセはまた、エジプトから多くの財物を取って出発したのであるが、これも、将来にあるはずのイエスの万物復帰を、前もって表示されたのであった」(366㌻)とあります。
思想的に偏向した弁護士らにより指導され、当法人を訴えた裁判の原告の主張は、この部分を根拠にして、統一教会が万物復帰の教義の実践として、サタン世界から財物を奪ってくる霊感商法を行っているというのです。
ここでいう万物復帰とは、『原理講論』のアダム家庭の「万物を復帰する」(297㌻)ことと同義であり、その詳しい意義については既に陳述書35~39㌻に説明しました。
人間始祖が堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ書一七章9節)立場にまで落ちたので、人間が自分より価値ある万物を供えて、神の子として本来の人間としての価値を取り戻していくことが「万物を復帰する」ことの意義です。出エジプトの際に、イスラエル民族のもとに多くの万物が集まったことは、人間がその本来の価値を復帰することによって自然に万物が主管されてくることを象徴しています。
「真の愛をもっている夫婦が愛し合って生きる家庭には美しい花が咲くし、美しい鳥と美しい動物が近づき、共に住みたいという本性の動きがあるのです。そのような家庭の人には、自然に万物が懐かしく思ってついてくるので、その人には豊かな生活をするなといっても、豊かな生活ができるのです」(40日研修教材シリーズ『神を中心とする生活』185㌻)という文鮮明先生の説教のように、本来の神との関係を復帰した人間は、万物に対する主管性を復帰すること(万物の復帰)ができるというのです.
したがって本来の「万物の復帰」は、努力と精誠を尽くす結果として集まるのであって、無理やり奪い取るものでは決してありません。当時のイスラエルのような方法は前述したように、あくまでも旧約段階における時代的摂理であり、本来の方法ではありません。モーセ路程は、人間が本来の位置と価値を取り戻せば、万物が自然に集まってくるということのあくまでも象徴的表現なのです。
事実、実体摂理を歩まれたイエス路程においては、そのような略奪的方法で万物が集まったのでは決してなく、イエスの教えに感動した人々が、自ら喜んで万物を携えてきた(使徒行伝四章三二~三五節)のです。すなわち「各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自らの心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリント人への第二の手紙九章7節)と聖書にあるごとくです。
モーセ路程で行われた内容は、あくまでもイエスの路程の表示であり、イエスの実体路程がそのまま完全に現れているのではありません。『原理講論』でいう「表示」という言葉はそのような、いわば象徴的であることを意味しているのです。

二.モーセの殺人とヤコブの知恵について

『原理講論』に、「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである。モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人はだれでも悪だと言うであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった」(541㌻)とあります。
統一教会に反対する人たちは、このようなみ言葉を根拠にして、統一教会が常識や良心に反する違法行為を正当化して、そのような教義に基づいて違法な霊感商法を行っていると主張しています。
同じような例としてヤコブの知恵があります。ヤコブが兄エサウをだまして長子権を奪ったことを例として、統一教会が嘘をついて、だまして、詐欺的な方法で、伝道したり経済活動をしているとして、その根拠は、このような教義に基づいていると主張しています。
まず、モーセが行った殺人の問題について、以下のように反論します。
モーセ路程では、聖番に書いてあるとおり、奴隷であるイスラエルの同胞たちを虐待し、迫害してくるエジプト人を、結果的にはモーセが殺すことによって摂理がなされました。『原理講論』は、この同胞愛に燃えたモーセを見て、そのときイスラエル民族が彼を中心に一つになるかならないかということが重大な問題であったと述べています(357㌻)。
けれども、これはあくまでもモーセ路程という形象型の摂理であって、将来来られるイエスを中心に人類が一つにならなけれぱならないということを表示している象徴的表現です。つまりこのことは、やがてイエスが来られたときに、敵を憎み、迫害する者を殺すのではなくて、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五章44節)というイエスの教えを中心にして、信徒たちが一つになるという形で実現したのです。
ですから、モーセ路程における殺人とは、どこまでも旧約時代において現れた摂理であって、イエス時代の実体路程を完全に表しているものではありません。
そして、現代の摂理とは、イエスの時代と同様に、実体路程を歩む摂理であるために、どこまでも「怨讐を愛する」ということによってなされるのです。
以上のことから、「原理講論」の内容は、モーセの殺人を教理として正当化しているというのではなく、聖書に現れている内容を宗教的見地に立って解説を加えているにすぎないのであり、ましてや教理でこれを奨励しているがごとき彼らの主張は言語道断です。
結果的に、イスラエル民族が奴隷の身分でそのままエジプトにいるよりも、モーセを中心に出エジプトしてカナンの地へと帰ったことが、メシヤ(イエス)を迎えるという神の摂理に対してよりプラスとなったという観点から見て、相対的に善だと評価できるという、歴史に対する解釈がここでは(『原理講論』541㌻)述べられているのです。
以上のことから、『原理講論』のある一部分の表現だけをあげつらって判断するなら、物事を正しく理解することはできません。『原理講論』の全体の論旨を酌み取って判断すべきなのです。

次に、ヤコブがエサウをだました問題について、以下のように反論します。
ヤコブが歩んだ路程においては、結果的にヤコブがエサウをだますという形によって長子権(家督相続権)を奪ってしまいました。しかし、これはあくまでもヤコブ路程という象徴型(蘇生型)として現れてきたものでああて、将来来られるイエスが、真の愛の主管による「自然屈服」を通してカイン圏から長子権を復帰することを表示している象徴的表現なのです。
同時にヤコブが知恵を使ってエサウをだましたことが、やがてエサウの恨みを買い、ヤコブが相続するはずであったカナンの地から追放され、21年のハラン苦役路程の原因となったのです。だから本来ヤコブは「自然屈服」の道を歩んで、だますことなくエサウから自然に長子権をもらえる道があったと考えられます。
神の摂理を進めるにおいて、「自然屈服」(心から喜んで一つとなること)が大原則であり、それはだますことや、殺すことなどによりなされるのではありません。最終的な「自然屈服」という結論から見れば、一時的にはだまして成功したかに見えるヤコブは、そのことによってかえって恨みを買い、その恨みを解かねばならないという、もっと困難な課題を抱えたということです。
ヤコブやモーセの時代は神の復帰摂理は、象徴型(蘇生型)、形象型(調整型)の摂理であるので、本来の神の摂理のあるべき姿を完全に現してはいません。だから、それらの路程で殺人やだますことが行われたとしても、それが実体型(完成型)の蕩減復帰の摂理の時代である現代の摂理において行われるべきであるというようなことではありません(注)。むしろ本来は実体型の蕩減復帰においては「自然屈服」があるべき姿であることを思うと、そのようなだましたり殺したりすることはあってはならないことなのです。

以上のような一見矛盾する主張は、神の摂理やみこころがいずこにあるかを知らなければ、到底理解することができない内容です。したがって統一教会に反対する人たちは、統一教会に対する不当な請求を正当化するために、『原理講論』の一部を歪曲(わいきょく)し、勝手に解釈したことに基づいているのです。
(注)象徴型、形象型、実体型の歴史発展については、『原理講論』283㌻以下を参照。

嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(上)

平成10年(1998年)4月1日 中和新聞 
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(上)
今回は、『原理講論』の中で、モーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する部分を取り上げてみます。この部分はよく統一教会に反対する人たちや誤解する人により、意図的に曲解されて統一教会を攻撃するために使われる部分です。神のみこころについて語ったものを、反社会的、違法な内容を教えるものだと解釈するその人たちの意図や誤解を正していかなくてはなりません。

 宗教の経典の多くは矛盾内包

教会に反対する人たちが、ヤコブやモーセ路程の『原理講論』の解説を引用して、あたかもそれらが統一原理の教えであり、統一教会が殺人や略奪行為、またはヤコブの嘘などを正当化しているがごとく主張し、統一教会が反社会的行為を教理上において奨励していると主張していますが、それはまさに自分たちの不当な訴えを正当化するために、意図的に曲解した解釈にほかなりません。
それらの人たちは、宗教書における言語にはさまざまな問題があることを全く無視しています。そもそも宗教における経典(教祖の言葉を含む)や教理霄には。一見矛盾すると思われる表現が数多く見いだされます。そのためにそれらの表現を調和させ、その表現上の矛盾を解消するために何らかの解釈施す必要性が生じてくるのです。
例えば、キリスト教の経典である聖書においても、イエス・キリストは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書五章9節)と教えていますが、一方では為を教理上において奨励し「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っている・:そうではない。むしろ分裂である」(ルカによる福解音書十二章51節)などと、全く矛盾すると思われることを述べています。
また、「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ぱれるであろう」(マタイによる福音書五章18~19節)と語る一方、自らは「安息日の主である」(同一二章8笳)と称して安息日の戒律を破ったり、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」(ルカー六章9節)などと教えたりしているのです。

また後にも述べますが.マタイー五章4節では「父と母とを雅又」という神の戒めを奨励しながらも、ルカー四章26節では「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ.わたしの弟子になることはできない」などと、あたかも父母を捨てることを奨励するかのごとく語っているのです。
以上の様に、経典や教理解説書の中には一見矛盾すると思われる表現が少なからず見受けられるので、その見かけ上の矛盾を解消するために「神学(言語の解釈)」がどうしても必要となってきたのです。その結果、キリスト教では厖大(ぼうだい)な神学書や注解書が生れたのでした。
このように宗教的言語にさまざまな学問的釈義問題があるにもかかわらず、反対する人たちはそのようとな諸事情を無視し、宗教法人世界棊腎教統一神霖塰=(以下当法人という)の発行している出版物の言語を、当法人にその正確な概念規定や意義を確認することもなく、自分かってな意図的解釈を施し、当法人を誹謗(ひぼう)中傷しようと画策しているとしか思えません。

神は人間の成長と進歩に即して摂理

それではそれらの人たちが問題にしているヤコブとモーセ路程に関して、以下に反論します。
神の救いの摂理の本質は「サタンを自然屈伏」してなされるもので、決して強制や何らかの策略またはごまかしによってなされるものではありません。「サタンを自然屈服」するとは、中心人物の愛と真理と精誠によって、霊界のサタンとそれに相対する地上の人たちが心から感動して、敵対していたものが神の愛により一つとなり、神を中心とした人間世界が取り戻されていくことにほかなりません。メシヤとはまさにそのような神を中心とした人間関係を取り戻すために、来られる方なのです。
したがって、そのような「サタンが自然屈伏する」過程、すなわちサタンやサタンの側に立つ人たちが自然に本心で納得して心から屈伏する過程で、殺人やだまし、あるいは脅迫といった強制的、暴力的手段が取られることは、決して摂理の本来的形ではありません。しかし神の救いの摂理は、人類の歴史的心霊と知能の成長と進歩に即して行われるものであり、そのような段階的摂理を『原理講論』は、「サタンを屈服してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった」(342㌻)と記しています。
したがってあくまでも、ヤコブ路程は象徴型(蘇生型)、モーセ路程は形象型(長生型)摂理なのであり、イエス路程に至って初めて実体型(完成型)として展開されたというのです。したがってヤコブやモーセが歩んだ路程とは、どこまでも象徴的・形象的な表示であって、本来あるべき神の実体的な摂理をそのまま表しているわけでは決してありません。
ノア家庭における摂理においても、統一教会に反対する人々は、『原理講論』の。「裸を恥じることは罪であった」との教説(311㌻)を盾にとって、「統一教会は裸になることを奨励している」などといった的はずれな批判をしているわけですが、これに閧しても『原理講論』は、「裸を恥ずかしがることがだれにとっても罪になるのであろうか。そうではない。……アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである」(312㌻)と、はっきりと時代的限定的摂理であったことを明記しています。
このような旧約聖書の記述に関する歴史的段階的解釈は、決して統一教会だけに限ったことではありません。キリスト教においても同様な見解が見られます。『聖書事典』(日本基督教団出版局)31-32㌻には、次のように述べられています。
「……イスラエル民族を通してなされた神の啓示が、今日から見て多くの欠陥をもっていることは否定することができない。その表現において原始的・神話的であるものが少なくない。神の属性、神の意志行動の表現がすべて人間的であるばかりでなく、神に対する人間の態度もあたかも人間の主君や裁判官や父母に対するようにあらわされている。
けれども旧約聖書をすこし注意して読む人は、神の啓示がイスラエル民族の歴史の進展、その文化の発達に伴って展開され、次第に高く深くなっていったことを認めざるを得ないであろう。すなわちイスラエル民族の初期の遊牧時代から、カナン移住後の農耕時代を経、更に王朝時代からアッシリヤ、バビロニヤとの国際関係を経て王国の滅亡、人民の追放捕囚と、移り変わったイスラエル民族の歴史は、その間に起った幾多の預言者により、また先進諸国民との接触交渉によってイスラエル人民の知識思想が次第に発達進歩し、これと同時に彼らの道徳も宗教もともに進歩発達したことを示しているのであって、我々はここに神の啓示の進展を認めざるを得ないのである。
もちろん、これは神の知識思想が進歩発達したことを意味するものではなく、神が選民イスラエルの知的・宗教的発展に伴ってその啓示を展開されたことを意味するのである。われわれが旧約聖書を年代順に注意して読むならば、その思想にも、道徳にも、信仰にも、低きより高きに、物質的より精神的に、肉体的より霊的に進歩発展していった跡を認めることができるであろう。けれどもなお、旧約だけの範囲では神の啓示も、結局、人間の人格、惷、道徳の不完全によって制限されざるを得なかった」

 統一教会の教えの中心は「愛と許し」

ヘンリー・シーセンの『組織神学』190㌻にも、今日の倫理道徳観念から見て理解できない旧約聖書の記述問題に対して、「……キリスト教以前の時代には、絶対的でなく相対的な意味で正当と認められたこともいくつかある」とか「みなごろしの戦争は、腐った手足を切断することによって、後世のへブル民族を救おうとされる、慈悲深い神の外科手術にすぎなかった」(同191㌻)などと述べています。
このように旧約摂理はあくまでも、その時代のみに許された時代的摂理であって、今日も同様にすべき普遍的倫理道徳基準を述べているのではありません。自然屈服の本質とはあくまでも愛することです。したがって実体的摂理を歩まれたイエス様は、敵を暴力的に打ち負かすのではなく、逆に「汝の敵をも愛せよ」と教えられたのです。
同様に文鮮明先生の教えも、「怨讐(おんしゅう)を愛せよ」という思想に満ちあふれており、その教説中に、殺人や略奪、だましなどを自然屈伏の方法として推奨する表現はありません。文先生はその説教の中で「天国に入ろうとするならば、怨讐を愛さなければなりません」「神様が怨讐を打ち殺すのではなく、怨讐を愛したという条件……を立てねばなりません」(1986年2月22日、韓国ソウルでの説教)と語られており、最終的にいかなる敵をも愛し許すことが、復帰摂理の本質であることを強調されています。
このように統一教会は、文先生の教えに藁つき、その信者に対して.神様の頽う愛と人格をもつ者となり、怨讐ともいうべき人々に対しても無条件の許しと愛と精誡を尽くし、それらの人々が、自然に背後にいる神様を信じ、神様の愛を受け入れるようになり、最終的に敵対するすべてのものが和解し、一つとなっていくことができる「自然屈伏」の道を教えているのです。      (「下」に続く)

 

韓国における〝反″統一教会の第一人者による謝罪文

 統一教会に対する謝罪文   -卓 明煥-

 本人は多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会に対し、出版物(統一教、その実相)、スライド(これが統一教だ)、講演会、記者会見等を通して、統一教会が、非倫理的集団、政治集団、新型共産主義、邪教集団であると批判してきました。

 しかし、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、最近、名誉棄損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたのを契機として、新しい角度から、広範囲な資料を収集、総合検討した結果、本人が統一教会に対し批判した内容中、事実でない部分があることを確認、次のように訂正釈明します。

 1、非倫理的な集団問題

 本人は、統一教会の創始者、文鮮明氏が一九五五年七月四日社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的、淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日宣告公判において無罪で釈放されたのを知るようになりました。

 これ以外、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します。

2、政治集団問題

本人は、この間、統一教会を政治集団と規定、批判してきたが、これは事実ではないことが明らかにされたので、ここに訂正します。

 3、新型共産主義の問題

 本人は統一教会を、新型共産主義集団であると批判してきたが、これは事実でなかったので、ここに釈明します。

 以上、三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した資料に、多くの間違いがあり、本人が統一教会を否定的に批判することによって、統一教会に被害を与えてきたことに対して、深甚なる謝罪の意を表し、今後は再びこのようなことをしないことを確約いたします。

 ※この謝罪文は一九七九年九月十日付

朝鮮日報と韓国日報、

九月十一日付、ソウル新聞二只郷新聞、東亜日報、新亜日報に載せられている。

-以下、謝罪文についての報道紹介-

統一教会に謝罪する

『週刊宗教』一九七九年九月二十日付

 新興宗教問題研究所の所長卓明煥氏が、彼の今までの統一教会に対する批判内容が、事実と違うことを確認し、「このような誤りを犯したことに対して、統一教会側に謝罪する」と発表した。

 十日、十一日、国内七大日刊紙に発表した謝罪文を通して、卓明煥氏は、「多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会を『非倫理的集団』『新型共産主義』『政治集団』『邪教集団』であると批判したけれども、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、名誉棄損等、犯罪行為で拘束起訴されたことを契機として、新しい角度から広範囲な資料を収集、検討した結果、本人の批判内容中、事実ではない部分があったことを確認し、訂正、釈明する」と語った。

 卓明煥氏は、自分の批判内容中、間違った部分を具体的に言及し、・非倫理的な集団、・政治集団、・新型共産主義の邪教集団うんぬんの批判が、根本的に誤りであったことを是認した。

 特に卓氏は、彼が批判した統一教会の非倫理的集団うんぬんに対して、「本人は統一教会の創始者文鮮明氏が、一九五五年七月四日、社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日、宣告公判において無罪で釈放されたことを知るようになり、それ以外に、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します」と明らかにした。

 卓明煥氏はまた、「以上三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した間違った資料により、本人が統一教会を否定的に批判することによって統一教会に被害を与えたことに対して、謝罪の意を表して、再びこのようなことをしないことを確約します」と明らかにした。

 経緯

 統一教会はこの間、あらゆる批判勢力に対して、一貫して沈黙する政策をとってきた。その代わり、統一教会に対する「淫乱集団≒政治集団」「邪教集団」「異端」「新型共産主義」などとの批判には、学界と宗教界教役者を対象として、統一原理公聴会を開き、教団認識を新しくしたり、国際的な勝共運動と夏期と冬期を利用した大々的な伝道活動で応戦してきた。しかし、度を越した批判に対して「統一教会側か沈黙で一貫するのは、その事実を是認するものではないか」という外部の誤解を買うことになったり、また教会内でも前線牧会者たちが、伝道に甚大な支障をきたしているので、一日も早く汚名をすすがなければならないという要求が、嵐のごとく起こり、ある対策を講じなければならないと、重大決断を下すようになったという。

 このような状況において卓明煥氏は、最近『統一教、その実相』という本を発刊した。本の内容は相変わらず統一教会に対する事実歪曲、針小棒大等で、誤りが多く、教会全体はもちろん、現存する統一教会関係人の名誉を毀損していて、統一教会側は次第に白黒(善悪)をつけるつもりで、反証に必要な資料を収集、これに立脚して名誉毀損で提訴する方針を固めるや、卓氏が謝罪文を出すことになったというのである。

 卓明煥氏はその間、統一教会に関して出版物、スライド、講演会、記者会見等、機会あるごとに辛辣に批判してきた。しかし、彼は十余年間新興宗教を研究して、それなりにこの道の権威者として認定を受ける立場に立ち、宗教研究が単なる風土にだけ迎合する偏向的なことと、歪曲された先入観や逆技能面を取り扱うことが全部ではないという学者的良心に促され心的変化をもたらしたようだ。それで従来の研究姿勢を是正しようとしたところ彼に資料を提供してくれた人たちの拘束を契機として全面再検討した結果、今まで自分の統一教会に対する研究発表が間違っていたことを発見するようになったものと、解釈できる。

破廉恥な卓明炊氏

『週刊宗教』一九八〇年一月十六日付

 国際宗教問題研究所の卓明煥所長が、その間新興宗教問題研究所という看板をもって、既成教会と新興宗教を二重に欺瞞し、いろいろの手法で破廉恥な行為を業としてきた行跡が暴かれ、教界を驚かしている。

 このような事実は、卓氏が七九年九月、統一教会に『謝罪文』を発表して以来、最近再び謝罪文発表以前と同じ内容の誹謗行脚を開始することによって、統一教会側から、その間隠しておいた謝罪文発表前後の事情を明白にされることによって、暴かれた。

 統一教会の一関係者朴吉年氏によれば、最近卓氏が『統一教会の実像と虚像』という本の発刊と雑誌投稿、集会講演で一方的な誹謗を業としていることに対して「その間卓氏の過ちを悔い改めて善くなることだけを待っていたが、少しの反省もなく教界を愚弄する処事を継続していて、これ以上韓国教界が彼の二律背反的行為に眩惑されることを防ぐために、やむを得ず全貌を明白にするほかない」とその経緯を語った。

 彼によれば、去る七六年三月ごろ、急に卓氏から電話で会おうと提議したのち△この間統一教会に対して故意に非難謀略をし、済まない。これからは中傷謀略、人身攻撃はしない。そして、新興宗教より既成宗教に問題がもっと多い。△これから先、既成教会の復興会、修道院、神学校等を本格的に批判しなければならないが、その場合、既成教会で問題が生じるようなので、統一教会で生計を保障してくれと要請してきたというもの。

 そこで統一教会側では△統一教会の健全な批判は歓迎する。批判を受けてこそ成長するものではないか。

 △既成教会に対する批判も建設的で、肯定的な批判にとどまれ。また生計費を保障することはできない。貴下の新興宗教問題研究所を、国際宗教問題研究所に変えて、韓国教界全体の発展とキリスト教の連合に寄与することのできる学問的研究をするならば、研究費は支援する用意があると答え、統一教会のこの条件を卓氏が受け入れ、七六年七月二十三日午後四時、ソウル西部駅の裹、中林洞所在、国一飯店で、卓氏と彼と一緒に仕事をするK某氏、統一教会側二名が同席する場で、卓氏の要求どおり月三十万ウォンずつの一年分研究費三〇〇万ウォンを支給したということである。

 しかし、卓氏は統一教会に対して悪意的非難を継続するだけでなく、看板も変えないで批判冊子をつくる等、数多い欺瞞行為を継続したので、七九年九月統一教会側から最後の対策として、卓氏の言行と冊子を集め、詐欺および名誉毀損で告訴する方針を固めるや、この事実を知った卓氏が△告訴はいつでもすることができるではないか、贖罪する意味で謝罪文を出す。△謝罪文を出したあとでも、私の態度が変わらなかったら、いつ告訴してくれても受けるつもりだといいながら、自筆で覚書と謝罪文を書いて統一教会側に渡したというのである。

 ところで、当時卓氏は国内各新聞紙面を通じて、謝罪文に、「多年の間、統一教会を批判してきた内容が事実と違い、本人の批判で統一教会に被害を与えたことに対して、深甚な謝意を表し、今後、再びこういうことがないことを確約する」と明白にした。

 卓氏は、この謝罪文でまた、謝罪文発表の動機を「本人に統一教会の資料を提供してきた人たちが、名誉毀損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたことを契機として、広範囲な資料を再び入手、総合分析した結果、本人の批判に間違った部分を発見するようになった」と語った。

 自筆で謝罪文を書いた卓氏は、その後「強制されて本人の意志に反して書いた」と主張し、それに対して統一教会側は「平素遺言状を携帯し、京郷(首都と地方)各地を回りながら、命を賭けて統一教会批判運動をするという彼が、強制されて謝罪文を書いたと弁明することは自家撞着」であると主張している。

「『原理講論』は盗作」批判に対する徹底反論

原理講論
原理講論

教理剽窃是非に対する釈明
-剽窃うんぬん、とんでもない話-
柳 光烈

剽窃の意味
国語辞典によれば剽窃(ひょうせつ)とは、「詩や文を作るのに他人の作品の一部をひそかに取って書くこと」と定義されている。剽窃とは明らかに芸術作品の創作と発表の過程で多く問題にされることである。

分かりやすい言葉でいえば、剽窃とは「文章泥棒」である。健全な常識は剽窃を「真理泥棒」とは考えない。したがって今、統一教会の原理に関して、剽窃のいかんを解明しようとすることは、根本的には時間の浪費で、無意味なことだといえる。なぜなら、教理は真理の範疇に属するものだからである。真理はある発明家の特許品でもなく、ある詩人や作家の作品でもなく、ただひとえに人類共有の道理なのである。

世間で、同じだったり似ているものがあった時に、どちらかが剽窃だから剽窃した方は撤回せよ、といつも言っていたら、人々は、発展や生産的なことをおいても、年中けんかに明け暮れるようになるだろう。

イタリアの気候と韓国の気候が剽窃問題で争い、AとBの血液型が同じだからといって、どちらかがどちらかを真似たんだろうとけんかし、この団体とあの団体が、どんな剽窃の経路を通して「愛国」をその団体の目的に打ち立てるようになったのかを明らかにしなければならないだろう。

そしてすべての宗教団体が、その教理の共通点がなくなるまで、戦闘をし続けなければならないだろう。カトリックはプロテスタントに、「どうして人の聖書を盗用するのか」と「聖書禁止仮処分申請」を提起し、また既成キリスト教会は統一教会に「なぜ他人の神様を父と信じ、他人のイエスを救世主と信じるのか」と、剽窃騒ぎを起こさなければならない。

しかし神は、いくつかの教派の人たちだけの神、つまりそういう局限性を帯びた神ではない時に、むしろ初めて真の神になるのであり、「キリスト教徒だけのイエス」の意味を越えて、世界万民のイエスである時に、その時初めてイエスは、真のメシヤの位置に立つようになるのである。

何か言ったからといって、それが全部言葉になるのでなく、必要な言葉を必要な時に語る時にその言葉が価値をもつようになる。こう言ったからといって、統一教会がある特定教団の教理を借りて使ったり是認したり、正当化しようとしているのでは、決してない。

剽窃問題の発端
今まで統一教会に関して、教理剽窃が正式に問題化したことはない。それは根本的に問題になる性質のものではなかったからである。ところが去る(注:1975年)5月19日、ソウルセムアン教会で「統一教批判講演会」というのがあり、その演説者の一人である朴英官氏が〈歴史的批判〉と称して語った言葉の中で、統一教会の文鮮明先生が金百文先生のイスラエル修道院から教理を剽窃した、と公表したのである。あるいはこれが今、教理剽窃問題という、なくもがなの説明をしなければならなくなった、そのきっかけであったのかもしれない。

朴氏の公表した剽窃問題とその真相
まず、朴氏の語った内容を正確に紹介してから、項を別にして解答を提示しようかとも思ったが、便宜上適当に区切って問題点と真相の説明をし、それぞれに処理した。

朴氏は「『原理講論』は『基督教根本原理』の剽窃である」と宣言した。氏はまるで自分が宗教裁判官であるかのような態度をとったが、たとえ骨の髄まで見透かされる神様であっても、教理剽窃うんぬんといった式の判決などは下されないだろう。朴氏はまた次のように語った。

「基督教根本原理から剽窃したのです。それは年代的に、構造面から、核心思想から見てそうなのです。今から20年前に、金百文が京畿道・・・・・・にイスラエル修道院を立て、そこで3年、3年、3年と9年間キリスト教の根本原理を教えた時に、二人の人が熱心にそこで学びました。一人が統一教会の文鮮明で、もう一人が朴泰善です」――まるで自分の目で見てきたように言い放った。

ところが、20年前(注:1955年に該当)という言葉自体が当たっていない。それはまあ、子供っぽい当てずっぽうだったのだろうと、了解することにしよう。朴氏の言葉は事実、ほとんどが間違っている。

先生は解放(終戦)の年(注:1945年)の秋から翌年の春まで、そのころはまだ修道院は発足前であったが、金百文先生の集会運動の草創期に、朴氏が指摘した京畿道のとある田舎のイスラエル修道院ではなく、上道洞(ソウル)礼拝所(正式名称ではない)で約六ヵ月の間補助引導師をされ、やがてそこを出られたことはある。しかしその田舎にあるイスラエル修道院で……二人が熱心にそこに出向いて学んだというのは、全く根拠のないことで、それこそ誰のどんな小説を剽窃して話をつくり上げたのか、理解に苦しむ。

朴氏は、「一人が統一教会の文鮮明だ」と言うけれども、文先生は朴氏が語るそんな主人公としての一人ではなかったし、さらに朴氏が、「もう一人が朴泰善だ」と言うが、あるいは朴長老本人は肯定するかもしれないけれど、私たちの知るところでは、彼はその時そこに一緒にいた事実は全くなく、そればかりか、文先生と朴長老とはいまだかつて一面識もない間柄である。そうした二人を金氏の二大弟子でもあったかのように、わざと粉飾して言ってもかまわない、そんな特権が朴氏にあるのだろうか。

また朴氏は両方が出した本の出版年代を挙げて、次のように言った。

「基督教根本原理は、1958年3月2日出版、原理講論は1966年で、年代的に見ても原理講論があとだ」。

上記の言葉自体は間違いではない。ただもっと適切に言うべきことを、わざと省いたまま、自分に都合のいいように語ったところに問題があるのであって、この内容は真実ではない。

朴氏は、もう少し学者らしく、またもう少し正確な批判をするためには、次のように論証すべきであった。

「統一教会の原理解説が発行される三年前に、耶蘇教イスラエル修道院(金百文)から『聖神神学』という本が出された。その本の目次を見ると、第1課-聖子経路(ヨハネ1章、第2課-重生論(ヨハネ3章)、第3課-聖神神学(ヨハネ3章)、第4課-救援論(ヨハネ3章)、第5課-礼拝学(ヨハネ4章)、第6課-聖体論(ヨハネ6章)、第7課-キリスト観(ヨハネ7~14章)、第8課-信仰結果論(目的論的結果原則、ヨハネ15章)、第9課-創造前世界(ヨハネ17章)となっている。それから3年後、1957年(檀紀4290年)8月15日に統一教会から発刊された『原理解説』の目次は、前編、第1章-創造原理、第2章-メシヤ降臨とその再臨の目的、第3章-人類歴史の終末論、第4章-復活論、第5章-堕落論、第6章-復帰摂理から見た予定論、第7章-エリヤとして再臨した洗礼ヨハネとイエスの再臨、第8章-キリスト論、後編-四位基台復帰を中心とした人類歴史の蕩減復帰路程、第1章-復帰基台摂理時代、第2章-復帰摂理時代、第3章-復帰摂理延長時代、第4章-復帰摂理完成時代である。二つを対比すると両者の間には、類似の痕跡は何もない。

前者が目次の表示を学校の教科書の方式をとって〈第○課〉としているのに対し、後者は一般著書の様式に従って〈第○章〉と表示している。そして双方の目次には同じ単語が一つもないだけでなく、構造面でも大きく異なっていることはたやすく分かる。

前者はヨハネの神学を分析、検討、整理し、再構成した各論を列挙したところに特徴があるが、後者は神学上、いや信仰上基本となるいくつかの主項目を前編に収録したあと、後編で神の復帰摂理歴史の展開の実際相を綿密に説明、描写した。

そして前者の神学の目次には、「聖子経路」「重生論」「聖神神学」「救援論」「礼拝学」「聖体論」「信仰結果論」「創造前世界」といったようなものがあるのに比べ、後者の原理解説には、前者のものとは非常に異なる「創造原理」「メシヤの降臨とその再臨の目的」「人類歴史の終末論」「復活論」「堕落論」「予定論」「洗礼ヨハネとイエスの再臨」などがあるほか、約半分の量を後編の復帰摂理歴史が占めている。

このように両者間の各主題でさえ95パーセント以上が相違し、ただ一つ、前者が「キリスト観」を、そして後者が「キリスト論」を書いているだけだ。

キリスト教神学の各分野を総合的に論述した著書であれば、どんな正統的な基督教神学者の著書であっても、『聖神神学』や『原理解説』と照合してみれば、相似点は多々あっても、この二書の間の差異よりももっと大きな差異を発見することは、できないだろう。まず構造面からしてそうである。

三年前に出た『聖神神学』と、あとに出た『原理解説』の内容を調べてみると、『聖神神学』の中にも少ながらず「原理」という単語が目につくのが特色ある点といえるだけである。そのほかには、原理解説の方で聖神神学を参考にしたといえるような痕跡は何もない。

文鮮明先生か記した『原理原本』と先生の話された内容を総合的に整理して、劉孝元協会長(当時)が原稿を書き、これに柳光烈文化部長(当時)が文章の修正を加え、そしてまた文鮮明先生の監修を経て刊行したのが『原理解説』であるし、その上、この本の製作過程において、『聖神神学』という本が出ているという事実すら、知ることができなかったのが本当のところである。

朴氏の主張どおり教理剽窃の意図があったとすれば、まずこの最初の著書からそれが始まっていなければならないはずである。二つの本の出版年代の差異が三年であるということは、後の者は十分に前の者を写したり、適当に変えてしまうことができるからである。

一方朴氏は、1966年に出た『原理講論』は1958年の『基督教根本原理』よりも遅いと指摘し、そして構造面でも、また核心にある思想も、互いに同じであると主張している。

しかしたとえ同じ点があろうと、金百文先生の方も文鮮明先生の方も誤ったことはないのであり、ただ、偶然か、そうでなければ、霊通した根源が一つの神なので、ある程度同じでありながら、また二人がいろいろな面で互いに異なっているように、それなりの差が二つの本の間にもあるのかもしれない。

正に年代順にいうならば、かえって朴氏の主張とは正反対の結論が出るが、すでに1954年に出た聖神神学の序文(啓)に本章と共に未来に伝えるキリスト教三大原理書という予言があったので、基督教根本原理(1958年刊)が統一教会の原理解説(1957年刊)を剽窃していたとは、少しも考えない。しかし、表れた事実と経緯だけは、明らかにし少数の誤者の認識を正しめたい。

①上述したように、1954年3月2日に出た金百文先生の『聖神神学』と、1957年8月15日に出た統一教会の『原理解説』は、必要があれば十分に前者を模写する時間上の隔たりがあったのだが、両者は少しも似たところがない。朴氏の主張を裏づけるだけの剽窃行為をしなければならなかったとすれば、この段階しか機会がなかったにもかかわらず、統一教会側では、何年か前に『聖神神学』という本が出ていることも知らないまま、ただ自分たちの講義をし、自身の原稿をのみ執筆してきて、1957年に自体の必要性によって、『原理解説』を発刊したのである。

②『原理解説』が出てから半年足らず(1958年3月2日)で金百文先生の『基督教根本原理』が出たのだが、これが構造面から一見すると、統一教会の『原理解説』と非常に似通っていた。つまり、編、章、節というふうに体系的に論理を展開するばかりでなく、構成も第1編-創造原理、第2編-堕落原理、第3編-復帰原理と大別して、朴氏のような人物がこれを詳細に前後をわきまえてよく見たら、金百文先生が統一教会の原理を剽窃したのだ、という結論を出すのにあつらえ向きになっている。しかし筆者の見るところでは、この両者の間には、少なくとも意識的、故意的な剽窃関係はなかったと断言したい。金百文先生の『基督教根本原理』が、わずか半年の間に統一教会の原理解説の模写作業をしてしまうのは、とうてい不可能である。それは菊判(注:縦218mm×横152mm:A5判よりやや大きい)850ページ近い膨大な本であり、また前に述べたとおり、1954年度の『聖神神学』が出る時から計画されていた本であるからである。

ただ目次の編成や論理展開の構成が、統一教会の『原理解説』のそれと近似しているが、『原理解説』とは全く関係なく、6.25事変(韓国動乱)直後に出した最初の本(聖神神学)に比べて時間的余裕があったので、実務者によっていくらでも、学術書に使う一般様式を導入したり、また日進月歩の洗練を期すことができたからである。

③また朴氏は、いい加減にも、1966年5月1日に出た『原理講論』を持ち出して、1958年に出た『基督教根本原理』よりも年代的にあとであると、何か大きな発見でもあるかのように声を大にしているが、そんな言い方をすれば1958年に出た『基督教根本原理』は、1957年に出た統一教会の『原理解説』よりあとだ、ということもできるのだが、そんなにわとりか玉子かというような論難までしなくても、これに対する反証の資料はいくらでもある。朴氏には申し訳ないことだが、統一教会の『原理講論』は、統一教会から最初に出た本でもないし、一番新しい本でもない。『基督教根本原理』に先立って出た『原理解説』の改訂版で、再版と変わるところのない本であることを、今、遅ればせながらでも認識し、その見解を正さなければならないだろう。

人のことを言おうとするなら、もっと注意深く調べてみる手間くらいは惜しまないでもらいたい。

また朴氏自身が『原理講論』以前に『原理解説』がすでに出ていたことを知っている以上、二つの本を対照して互いにどんな差異があるかくらいは調べておいたら、こんな無謀な失敗はしないで済んだはずである。

結 論
結論はこうである。朴氏のやり方のように、双方の教理書を取り上げて年代順に考えたり、またその表れた結果をもって見るならば、あたかも金百文先生の『基督教根本原理』が統一教会の『原理解説』を模倣したかのような印象が濃いけれども、その著作経緯をよく見ると、そんなことは全くあり得ず、それはそれなりの完全に独自的な教理書であることは疑い得ない。また『原理解説』もやはり、著作経緯から見て根源的に独自的なものであって、朴氏のいう剽窃うんぬんなどは、とんでもない話である。

文先生はたった半年とはいえ金先生と共にいたのだから、いくらかでも金先生の教理を聞いたのではないかと、あくまでも主張するなら、話はこの問題からそれていかざるを得ない。

文鮮明先生は、まだ修道院が出来もしないころ、ある礼拝所の、それも解放直後の混沌としていた時期に、補助引導師として半年間を過ごしながら、自由に往来する金先生と時たま接触されたが、そのまま北韓に行って教会を設立し、その後約3年間も厳しい監獄生活を送られた。

6.25以後、すぐに南下して避難の苦役を経たのちに、先生なりの福音伝播活動をして教理を広めたのであるが、そうした経緯を経ながらも、あのように世界の耳目を集めるほど、古い教理をよくよく考え、整理する能力をもっているのだから、その先生が、自らは何もせずに、人の教理を盗むような人柄であるはずがない。

文鮮明先生か他人の教理を剽窃した人物になるようにあくまで結論を導こうとすれば、朴氏は、文先生と他の全世界の神学者、牧師たちも共に、伝統的なキリスト教の教理を99くらい剽窃してから、別の特殊な人の教理も一つくらい剽窃したと計算しなければ、つじつまが合わなくなるだろう。百歩譲って、ある先輩、先生から文や真理を学んで自分のものにしたことが、すべて剽窃行為になると、規定するほかないとしての話である。

その代わり、その時には全世界の学者たちは一人残らず、剽窃行為者として自認しなければならないだろう。(『受難の現場: 統一教会受難とその真相』p.319~325)