文師が、“偽の写真”で信徒を欺いた?

韓国「中央日報」に掲載された写真をめぐって

反対牧師が、脱会説得に使用する資料の一つに、文師が朴正華氏を背負って海を渡っておられる場面と信じられていた写真があります。

朴氏は、文師が北朝鮮の興南監獄(徳里特別労務者収容所)で苦役されているとき、夢に現れた老人の導きもあって、文師を再臨主と信じ、弟子になった人です。

1950年10月14日、文師は国連軍による爆撃で解放され、平壌の弟子のもとを訪ねられます。そのころ、朴氏は足を骨折しており、平壌市内に避難命令が出されたとき、足手まといになるとして家族に置き去りにされていました。そんな朴氏を、文師は見捨てずに救い出されたのです。

1950年12月、文師は足の不自由な朴氏を自転車に乗せ、金元弼氏とともに釜山を目指して南下しました。その途中、龍媒島という島から仁川に直行する船が出ていることを知って、朴氏を背負って浅瀬になった海を渡られたのでした。

反対牧師が批判する写真は、もともと韓国の「中央日報」に連載された李承晩大統領夫人の回顧録に出ていたもので、その写真は朴氏を背負って海を渡られる文師を彷彿させるものでした(83年10月24日付「中央日報」)。

1984年5月9日、来日した朴正華氏は、東京の本部教会で「この写真は私と文先生です」と証言しました。その後、名古屋、宝塚、九州などを巡回し、同じように証言したのです。当事者の証言であったことから、当然、多くの人々は全く疑うことなく、それを「文師と朴氏の写真」として受け入れたのです。しかし、その後、写真は文師と朴氏でないことが判明しました。

写真が見つかり、朴氏が来日した1984年当時は、文師がアメリカの裁判でダンベリー収監が確定されるかどうかの時期であり、文興進様が昇華されてから数か月後でした。この写真の発見が、どれほど統一教会信者を慰め、励ましたことでしょうか。瞬く間に、その情報は統一教会全体に伝わったのです。

反対牧師は、監禁場所で、その写真を統一教会信者に見せながら、「これは文鮮明ではない。文は嘘をついている」と批判します。しかし、これは文師が嘘をついたのでも、統一教会がだまそうとしたのでもありません。写真の雰囲気があまりにも似ていたこと、および当事者の証言もあったため、そう信じられるようになったのです。

たとえ、この写真が文師と朴氏でなかったとしても、文師が足の不自由な朴氏を見捨てずに南下された事実が否定されるわけではありません。足を骨折していた朴氏が、南にたどり着いたのは事実です。

ところで、イエスの遺体を包んだとされるイタリアのトリノの聖骸布も、その真贋のほどが取りざたされ、ある人は「偽物だ」と批判します。しかし、万一、聖骸布が偽物であったとしても、それでイエスが十字架で亡くなった事実そのものが否定されるわけではないのです。写真の問題は、それと同じであると言えるでしょう。

「文鮮明を不信させよう!」と意気込む反対牧師の姿は、まさに2000年前のユダヤ教徒がクリスチャン迫害に取り組んだのと同じ姿勢であると言えます。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師が“学歴詐称”って本当?

「学歴詐称」批判の真相

反対牧師は、「文は学歴詐称をしている」と批判します。この〝学歴詐称〟の批判には大きく2つの流れがあります。

 

①批判その1︱︱森山諭牧師の批判の流れ

一つの流れは、森山牧師の批判で、早稲田大学……云々を論ずる以前に、文師の日本留学それ自体が怪しいというものです。

森山牧師著『原理福音統一協会のまちがい』(ニューライフ出版)には、次のように書かれています。

 

「統一協会の資料では、彼は1939(昭和14)年に、釜山から日本に渡り、早大で学んだことになっています。1945年、日本が敗戦。韓国が独立した年に帰国したと言いますが、その前の44年、彼を世話した下宿屋から、悲しい葬儀が出たと伝えます。それは、その下宿屋の美しい娘が大先生に恋していたが、ある時、大先生に扮した男がその美しい娘さんをだまして貞操を奪った。純情なこの美女が大先生に申しわけないとして自殺した。この悲しい事件を通して、大先生は、エバに対するへびの誘惑が、姦淫の罪だと知った(「播植十年—早稲田十年の歩み」62ページ)とします。『この生々しい事件が、彼をして日本への復讐心を抱かせた動機でしょう』、と統一協会を批判するジャーナリストが証言するから、『それはウソです』と語ったところ、『いや、その下宿屋のおばさんがG県に住んでおり、今も文氏から時々手紙や贈物があるので、〝さすが文さんだ〟と賞めているそうです』と言います。私は、『早大で学んでいたというその期間、京城商工実務学校にいるのだから、日本におれるはずがない』と断言しました。あとでそのジャーナリストから、『調べて見たら、やはりウソでした』と伝えてきましたが、この失恋自殺事件は、お涙頂戴のメロドラマにしても、お粗末すぎます」(10〜11ページ)

 

森山牧師は、統一教会の資料の中に、「1938年に日本に留学したとある」としていますが、例によって、この情報の出所を明確にしていません。

確かに森山牧師のいうように、かつて統一教会内では、非公式的に、1938年説、1939年説、1941年説の3種類の説が流布されていたようです。

しかし、森山牧師がこの批判書の改訂三版を出した1985年時点では、すでに統一教会の見解は1941年に統一されており、ジャーナリスト那須聖氏が統一教会について取材し、1984年に出版した『救世主現わる』(善本社)にも、1941年春とされています(37ページ)。

森山牧師は、そのことを十分に調べもしないまま、ただ文師が1941年3月に撮った京城商工高等学校の卒業写真があるという理由で、即、文師の日本留学自体が疑わしいと、勝手に決めつけているのです。

しかし、日本に留学した事実は、当時、文師に下宿を提供した三橋孝蔵夫妻が証言しておられます。三橋氏はその後、何度か文師と手紙のやりとりをしています。また、1997年5月29日には、文師の日本留学時代の写真が見つかっています(1997年7月号「ファミリー」93ページ)。

現在は、森山牧師の流れをくむ批判は、全く聞かれなくなっています。なお、森山牧師は、文師が「終戦の年」に帰国したとしていますが、この情報も間違っており、正しくは1943年10月です。

 

②批判その2︱︱茶本繁正氏の批判の流れ

もう一つの批判は、1977年8月10日出版の茶本繁正著『原理運動の研究』(晩聲社)に端を発する批判の流れで、それは、統一教会関連の出版物に書かれている内容の事実関係を調べようと、早稲田大学の学籍課で調べたが、早稲田大学には文師と思われる人物名が見当たらず、その裏付けを取れなかったというものです(63〜65ページ)。

山崎浩子さんが脱会説得を受けたとき、この茶本氏の流れの批判の影響を受けたようで、著書『愛が偽りに終る時』には次のように書かれています。

 

「文師の学歴だって、『早稲田大学理工学部電気工学科卒』となっていたり、『早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科卒(現在の早稲田大学理工学部)』となっていたり、( )内の注釈がとれていたりと、語られる年代、講師によって様々だ。( )内の注釈がとれたものが本当の学歴らしく、最近はそう言っているが、もちろん早稲田大学の理工学部とは何の関係もない。

別に私は、メシアは大学出じゃなくていいと思う。むしろ学歴なんか関係ないと思う。ただ、最初は大学出のような顔をして、卒業生名簿などを調べられ、ウソがつけなくなってくると、知らぬ間に経歴を変えていく。そのウソのつき方があまりにも滑稽でバカバカしかった。

メシアである文師の学歴は問わずとも、どんな経歴をたどってきたかは重要なことだ。メシアがどんな家に生まれ、どんな環境に育ち、どういう出会いがあってここに至るのかは『主の路程』として語り伝えられ、それだからこうなのだと結論づけられているのだから、それぐらい正確にしてほしいものだと思った。関係者の聞き間違いですまされるものではない。〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」(196〜197ページ)

 

確かに、山崎さんの言うように、主要な統一教会関連の出版物を読み比べてみると、そこに食い違いがあります。

例えば、1970年代前半に読まれていた野村健二著『血と汗と涙』には、「1939年19歳の折、もはや青年になられた文先生は、大学にはいるため、はじめて日本本土に渡られることになった。……日本本土に渡った文青年にとって、この1939年から1945年までの6年間は、イエス様から託された神の使命に向かって公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。……(文先生は)早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(17〜21ページ)とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には、「文先生は、日本の早稲田大学附属早稲田高等工学校電気科で勉強を続けました」(16ページ)とあり、さらに、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には、「東京の早稲田大学で電気工学を学びました」(136ページ)とあります。

文師が入学されたのは、「早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科」というのが正しく、統一教会の月刊機関誌「ファミリー」では、次のように説明しています。

 

「文先生が……学ばれた期間は、1941年4月から1943年9月である。同校は夜間学校で、授業は午後6時から9時半まで行われた。授業の内容は、電気に関する専門的なものが多い。同校は1928年に創立され、1951年に閉校した。……文先生がおられたときの修学年限は3年間であったが、戦争のため6か月繰り上げ卒業となった」(1997年7月号「ファミリー」93ページ)

 

この食い違いの問題に対して、山崎浩子さんは「〝誰か〟がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない」と断定します。

しかし、果たして、統一教会関係者が意図的に〝嘘をつこう〟としていたのでしょうか、それとも、何か他の理由によるものなのでしょうか。それを見極めることは、とても重要なことです。

日本統一教会が創立されてから20年にも満たない1970代は、組織も十分に整備されていない頃であり、さまざまな伝承が語られ、情報が混乱することは十分あり得たことです。

特に、この文師の留学問題については、まず、文師が日本名を使っておられたこと、早稲田大学附属早稲田高等工学校が閉校されてから久しくなっていたことなどから、その事実関係を調べることが極めて困難だったと推察されます。事実、茶本繁正氏も調べきれなかったのです。

ですから、誰からか「早稲田大学附属……云々だった」と伝え聞いたとき、その裏付けが取れないなかで、〝附属〟という言葉の意味を十分理解できない人の場合、「どうやら早稲田大学の、何とか学部だったらしい」という情報に変貌してしまうことは十分あり得ました。そういう事情から、不幸にして起こった問題だったと言えるでしょう。

もし統一教会関係者に「嘘をつこう」という意図があったなら、むしろこのように情報が混乱すること自体、不自然なことと言えます。

事実、1979年6月25日発刊のF・ソンターク著『文鮮明と統一教会』(世界日報社)には、留学問題に関して「1938年、彼は電子工学を学ぶべく、日本に留学した」と118ページにあるにもかかわらず、その前のページに掲載された韓国の学生時代の写真説明文には、1941年2月27日撮影とあります。1941年2月、いまだ韓国で就学しておられた文師が、どうして1938年に日本へ留学しているのでしょうか?

ページを前後し、こういう初歩的ミスが起こってしまった背景には、本文を書いたソンターク氏は、文師が韓国の学校を卒業したのは18歳と推定し、「留学は1938年」と単純に思い込んでいた統一教会メンバーからその情報を入手して著述し、一方、前ページの写真の説明文は、著者とは違う別の人物が挿入したからだと思われます。

このような本が出回っていたこと自体、統一教会が嘘をつこうとしていたのではなく、当時、教会内で情報が混乱していたことを如実に物語っています。もしそれを「悪意」と言うなら、福音書に書かれたイエスの生涯の記述も、相互矛盾が数多くあることから、「イエスやクリスチャンは人をだまそうと経歴を偽っている」という批判も成り立つでしょう。

〈福音書の相互矛盾の問題については、拙著『「原理講論」に対する補足説明』(広和)の40〜69ページを参照〉

それにしても、このような記述の矛盾をあげつらうことで、さも文師や統一教会が意図的に「学歴詐称」をしていたと、山崎さんに信じ込ませることに成功した反対派の話術に〝狡猾さ〟を感じます。

なお、このような無益な混乱が起こらないためにも、『日本統一運動史』など、日本歴史編纂委員会による公式的な出版物を学ぶことをお勧めします。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

文師がイエスより啓示を受けた「イースター」は嘘?

文師は1935年4月17日、イエスから特別な啓示を受けられましたが、反対牧師は「それは嘘だ」と批判します。

 

①批判その1︱︱森山牧師の批判の流れ

この点について、森山牧師が『現代日本におけるキリスト教の異端』(以後、『……異端』という)の中で、それは「まっかな嘘だ」と批判しています。『……異端』には、次のように書かれています。

 

「ところで、文氏が、『わたしは16歳の年に宗教体験をして、真理の御霊を受けた』いう話はまっかな嘘です。彼は1920年陰暦1月6日、現在朝鮮民主主義人民共和国にある平安北道定州郡徳彦面に生まれ、本名は文龍明と言いました。昭和15年(1940)5月、文が京城商工実務学校の生徒として、先生や同級生と一緒に写した写真がありますが、彼はそのとき数え年21歳で、同校の電気科に学んでいました。

フェリス女子学院大学英文科主任の園部治夫氏が、その写真を私に示して、『この顔は今のとそっくりでしょう。彼はその当時日本名に改名して、江本竜明と名乗っていました。校長は熱心なクリスチャンの土井山洋先生(現在福岡市在住、九州電気学校校長代理)であり、私も土井先生に招かれて京城商工実務学校に勤めました。同校はミッション・スクールではなかったのですが、学校では盛んにキリスト教の集会を持っていました。文の担任教師は吉村晶先生です。しかし、文は当時まだクリスチャンになっておりませんから、『16歳で聖霊を受けた』というのは嘘です。さきごろ私が教え子たちに招かれてソウルに行ったさい、同窓生たちが、『文のやつ、大ホラ吹きになって学校の名折れだ。同窓会から除名せよ』と非難していました』」(112〜113ページ)

 

森山牧師は、園部氏個人の「文は当時まだクリスチャンになっていない」という証言をもとに、16歳のときの宗教体験はあり得なかったと断定しているのですが、それにしても、園部氏はどのようにして文師がクリスチャンでなかったことを知ったのでしょうか?

この批判は事実誤認に基づくものです。なぜなら、文師は京城商工実務学校に入学し、定州からソウルに移り住んだとき、平壌に本拠地を置く朝鮮イエス教会に所属する、ソウルの明水台教会に足しげく通っていたからです。そのころすでに文師が熱心に信仰している事実は、その教会の権徳八伝道師とともに聖書研究をしている写真、日曜学校の子供たちと礼拝堂前で撮った写真、京城商工実務学校を卒業するとき、明水台教会の卒業生と一緒に撮った写真などを見れば分かります(参考:武田吉郎著『聖地定州』光言社、158〜173ページ)。

 

②批判その2︱︱出版物相互間の食い違い

1980年代後半から、「啓示を受けたとされる日はイースターではない」とか、あるいは、「統一教会の出版物に記載された年月日が食い違っている」など、違ったかたちでの批判が始まりました。

反対牧師の説得で脱会した山浩浩子さんは、「その日はイースターではなかった」とショックを受け、文師を不信し、次のように述べています。

 

「文鮮明師は、1935年4月17日のイースターの時、イエスの霊が現れ、

『私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい』

と啓示を受けた——というふうに私たちは教えられてきた。

しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日が来て満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の4月17日は日曜日ではなかった。

反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年4月17日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、〝イースターの時〟という補足は削除されているようだ」(『愛が偽りに終わるとき』195〜196ページ)

 

確かに、山浩浩子さんが言うように、1935年4月17日は日曜日ではなく、受難週の水曜日に当たっています。(注、1935年のイースターは4月21日)しかし、その日が、現在のキリスト教で祝うイースターではないからといって、文師が嘘をついているということにはなりません。

1978年10月14日に韓国で出版された『統一教会史』(成和社)には、次のように記されています。

 

「先生が(数え年で)十六歳になられた年の復活節、(1935年)4月17日のことであった。この日が本当の復活節であるということも、このとき先生は初めてお分かりになった。それは霊的にイエス様に会われたなかで、初めてあかされたからである。今日、一般のキリスト教で守っている復活節(イースター)記念日は年ごとに異なっている。それはイエス様が亡くなられた日が分からず、復活日も調べようがなく、西暦325年、ニケア公会議において『春分後、初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう』と規定したためであった」

 

つまり、キリスト教自体、イースターがいつなのか分からず、明確でない時代がしばらくあって、AD325年の会議によって決めたのが、現在、キリスト教で祝われているイースターなのです。ゆえに、キリスト教で祝っているイースターは、正確なイエスの復活日かどうかハッキリしないのです。

文師はイエスから「4月17日が本当のイースターである」と知らされたのです。その内容が日本に正確に伝わらなかったために「イースター問題」となったのです。

いろいろな統一教会関係の出版物を調べてみると、反対派がその矛盾をあげつらって指摘しているとおり、出版物相互間に大小さまざまな食い違いがありました。

例えば、1978年に発行された統一教会紹介パンフレット「明日をひらく」には、「1936年4月17日16歳の復活祭の朝にイエス様が現れ」とあり、1988年発行の統一運動紹介パンフレット「世界平和への新しいビジョン」には「1936年のイースターの朝」とあり、1988年11月21日発行の『先駆者の道』(光言社)には「1935年4月17日、イースターの朝、文先生は、重要な啓示を受けました」(14ページ)、1989年6月4日発行の『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)には「1936年4月17日日曜日、復活祭(イースター)の日に……」(136ページ)となっています。

どうして、こういう食い違いが生じたのでしょうか? それは、啓示に関する情報が日本に伝わる際、断片的に伝えられたり、あるいは勘違いして受け取ったり、さらには、韓国と日本の風習の違いの問題も、そこに絡んでいたのです。

例えば、「文師が16歳のとき啓示を受けられた」と伝え聞いた人が、韓国社会では、通常〝数え〟で年齢を数えていることに無知であった場合、単純に生年の1920年に16を足して「1936年」としてしまったり、あるいは「文師が啓示を受けた4月17日こそ、本当のイースターだった」という内容が微妙に変化して、「文師は4月17日のイースターに、啓示を受けた」と伝聞されてしまったり、という具合にです。そして十分に確認しないまま、そこに「日曜日」という補足まで入れてしまったのです。

このようにして、情報に食い違いが生じてしまったのでした。その情報の食い違いを反対派があげつらい、監禁現場での脱会説得の材料の一つに利用(悪用?)するようになったのが、「イースター問題」の真相なのです。

初代教会時代においても、福音書をはじめ新約諸文書間に矛盾があり(注:新約聖書の4つの福音書間にも矛盾がある)、それをユダヤ教側が「キリスト教諸文書は自己矛盾している」と批判しましたが、反対牧師の行為は、それと同じなのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』の盗作?

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?

原理講論
原理講論

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作であると中傷する反対牧師もいます。
この中傷は、1975年5月19日、ソウル・セムアン教会で行われた「統一教批判講演会」で、朴英官氏が「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作。それは年代的、構造面、核心思想から見てそうだ」と語ったのが発端です。これは朴英官氏のデマです。

反対牧師は、『原理講論』と『基督教根本原理』の目次を示し、似ていると批判します。しかし、『基督教根本原理』より前に『原理解説』が出ている事実を見落としています。統一教会出版物と、金百文氏の出版物は、下表の年次で出ています【下表を参照】。

金氏が盗作したと言うなら、まだ話の筋は通りますが、「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作」は事実無根です。なお、この盗作の中傷に対し、『受難の現場』(光言社)の319〜325ページに柳光烈氏の反論が掲載されています。

『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?
(太田朝久『踏みにじられた信教の自由』より)

『受難の現場: 統一教会受難とその真相』 柳光烈先生による「教理剽窃是非に対する釈明」

イエス・処女降誕否定の根拠は?

処女降臨 マリア イエスs:「統一教会はイエスの処女降誕を否定しているが、イザヤ書7章14節にははっきりと『見よ、おとめ(a virgin)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』と預言されている」という意見がありますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、三位一体やイエスの肉体復活と並び、保守的なクリスチャンにとってはイエス・キリストの神性(無原罪)を裏付けるものとして絶対に譲れない中心的教理の一つではありますが、今日この“処女降誕説”に疑問をはさむ神学者は決して少なくありません。その問題となっている点をいくつか挙げてみましょう。

一つは処女降誕の根拠となるイザヤ書7章14節は確かに七十人訳(ギリシャ語)では“処女”(a virgin)となっていますが、ヘブル原典では単に、“おとめ”(a young girl)となっており、必ずしも処女を意味しないということ。この点については日本基督教団の『旧約聖書略解』は、「イエスの奇跡的誕生との関連において、マタイ福音書の著者がイザヤ書7:14を奇跡的に解釈するのは当然であるが、イザヤ自身はこの聖句にそのような意味をもたしていないことは、これがスリヤ・エフライム戦争においてアハズ王に語られた神の言葉であることからも理解しうる。「おとめ」と訳されているヘブル語は「結婚適齢の若い女」をさし、処女であっても、既婚の女であってもよい」(667ページ)と述べています。ハルナックもその著『History of Dogma』の中で「処女降誕の観念は旧約聖書の誤訳による」と説明しています。

第二はこの聖句は、直接にはイエスの誕生を指していないという点です。この点についてさらに『旧約聖書略解』(前掲書)は「……それで、この預言の『おとめ』とは誰のことであろうか。……アハズ王に『しるし』となるのであるから、王の知っている若い女のことでなければならない。王の后か、預言者の妻かであろう。ヘブル語では、『彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』となっているが、七十人訳以外の有力なギリシャ語訳旧約聖書は『あなた(アハズ王)は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』と訳している。ゆえにこの『おとめ』は王の后となる女であると解釈する註解者もいる……当時流布していた救世主の誕生の待望との関係から、メシヤをさしているのだとする見解(は)妥当ではない」(667ページ)と述べています。すなわち、この預言はイザヤの時代に関するものであるというのです。

新改訳のイザヤ書7章14節の注にも「イザヤ時代に生まれて来る男の子のことが念頭におかれている」と書かれています。

第三は処女懐胎の物語は福音書のマタイとルカの初めの章だけで扱われており、マルコ、ヨハネ、パウロなどはこれに言及していない点。これは必須の重要教理でないことを示しているともいえます。

第四は処女懐胎がメシヤの「無原罪誕生」の根拠とされているが、それは古代世界においては、子供をつくるのは男性のみであり、女性はただ子供を宿すにすぎないと信じられていたからで、今日の科学は、両親が共に子供の肉体および精神の構造を決定することを証明している。したがってイエスから父親を取り除いても、イエスを原罪のない存在とすることにはならない。
以上の点を挙げることができます。(広義昭『聖句Q&A』より)

聖霊は女性神?

HOLYSPIRIT_16:「『統一原理』では、聖霊を女性神としているが、ヨハネによる福音書14章16節などに出てくる“助け主”と訳されている言葉は、ギリシャ語で“ホ・パラクレイトス”という。『ホ』という男性単数主格を表す冠詞で明らかなように、聖霊は男性格である。したがって、聖霊が女性だというのは聖書的見解ではない」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、聖霊なる存在が聖書においては、“主の霊”とか“神の霊”とか“み霊”などといろいろなかたちで呼ばれ、その働きも実に多様に表現されており、それが『原理講論』の重生論における聖霊とは必ずしも同じものを意味していないため、説明に若干の困難を要します。

結論から言って聖書全体における聖霊とは、広義の意味においては、人類の救済と新生のために個人と歴史に働く一切の神の霊的活動を意味します。その意味では、質問の指摘のように聖霊は必ずしも母性的働きのみに限定することはできないことを「統一原理」は認めます。

しかし、聖霊を女性格と見ることは決して不当なことではなく、初期のクリスチャンたちの多くが、聖霊を女性的存在として見ていた証拠がいくつも残っています。

そもそも、霊を意味するヘブライ語は“ルーアッハー”(ruach)という女性名詞が使われています。〈新約聖書によく見られる“プニューマ”(pneuma)というギリシヤ語は中性名詞となっています〉。さらに旧約聖書において、神の知恵(hokmah――ヘブル語原典では女性名詞)は女性の霊として描かれています(箴8、9)。その他、聖霊の働きは慰労と感動を与え人間の心をイエスに導く(コリントⅠ12:3)といった女性的働きを有していることが明らかです。

使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエスが「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
また、初期のシリア、もしくはエジプトのクリスチャンたちの産物である『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文が載っています。『マニの福音書』(The Gospel of Mani)には、父なる神の権能と母の祝福、および、子の善を讃える三位一体論の頌栄が見いだされますが、恐らくこれはマニ教徒たちが、その当時のあるクリスチャンの団体から学んだものであろうと考えられています。(統一神学より)このようにイエスの復活以後における聖霊の働き(狭義の聖霊)を女性神ととらえることは、決して非聖書的結論ではないといえましょう。(『聖句Q&A』より)