反対牧師諸君へ- 統一神学博士からの手紙

クリスチャン・フィッシュ
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救い主)の頭文字を並べたもの

統一教会信者に対する拉致監禁・強制改宗に携わっている牧師たちは、統一教会の信仰が「異端」であるということをその活動の動機としています。とりわけ「福音派」と呼ばれる、聖書を文字どおりに解釈する教派の牧師たちは、統一教会がキリスト教を名乗りながらも聖書をでたらめに解釈して人々を惑わすので、その信者に「正しいキリスト教」を教えてあげることが救いであると信じて疑いません。

そのため、彼らは監禁の現場で自らが寄って立つ福音派の神学に基づいて統一教会の教えである「統一原理」を批判し、信者の信仰を破壊しようと試みます。神学に対する専門的な知識を持たない一般の信者たちは、こうした牧師たちによる統一原理批判に対して答えられないばかりか、外部との接触を完全に遮断され、長期監禁・説得をうけるという異常な環境下のもので、彼らの教えこそ「正しいキリスト教」であり、統一原理はでたらめであると思い込まされて信仰を失ってしまう場合が少なくありません。

しかし、キリスト教神学に対する広範な知識があれば、こうした批判が的外れなものであったり、非常に偏った立場からの批判であることが分かり、逆に福音派の神学との比較を通して統一原理の神学としての真価が再認識されるのです。

このたび、キリスト教神学を専門的に学ばれ、米国ニューヨーク州にある統一神学大学院で神学を講じている神明忠昭博士が、主に福音派の反対牧師による統一教会批判の代表的な12項目に対して答えながら、福音派の神学の限界と統一原理の価値を明らかにする論文を特別に寄稿してくださいました。

この論文を通して、反対牧師の説得によって統一教会を去った兄弟姉妹の皆さま、監禁から生還したものの統一原理に対する疑問を抱いている信者の皆さま、そうした信者たちを信仰指導する牧会者の皆さま、そして広く一般の皆さまに、統一原理のもつ神学的な価値を再認識していただければ幸いです。

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目次


神明忠昭プロフィール

1944年福島県生まれ。1971年東京大学工学部原子力工学科卒業。73年統一教会宣教師として渡米。77年アメリカ統一神学校卒業。84年ドゥルー大学 (Drew University) 大学院卒業でキリスト教神学博士号 (Ph.D.) 取得。その後、統一神学校神学教授職を経て、94年から2000年まで当校の総長として奉職。2000年以降、世界平和超宗教超国家連合 (IIFWP) および天宙平和連合 (UPF) 国際本部主任研究員。アメリカ宗教学会 (AAR) 会員。北米カール・バルト学会 (Karl Barth Society of North America) 会員。専門分野は教父神学、カトリック神学、現代プロテスタント神学、および組織神学。特に、アウグスティヌス神学とホワイトヘッド哲学に造詣が深い。著書『統一主義における探究』等、多数。学術論文出版多数。66年9月統一教会入教。777双祝福家庭。

統一原理における聖書観 【重要】

原理講論
原理講論

統一原理における聖書観

1980年代後半頃、日本イエス・キリスト教団・荻窪栄光教会で、統一教会信者の脱会説得を行っていた人物の一人が宮村峻(後藤裁判における被告の一人)です。

宮村は、監禁中の統一教会信者に対して様々な教理批判、活動批判等をしました。その彼が、決め言葉として用いていたのが

「原理は聖書に基づいているんだろ、だけど、原理は聖書とは違う、だったら原理はでたらめじゃないか!」

というフレーズでした。

宮村の脱会説得を受けた青年たちの多くが、

「宮村さんのこの言葉によって自分は最終的に原理が間違いだと結論づけた」

と述懐しました。その一方で、「頭では原理がでたらめだと分かっている。だけど、心は原理が真理だと思っているので苦しくてしょうがない。誰かこの矛盾を解いて欲しい」と訴えていた元信者も複数いました。

既成キリスト教会の「福音派」では、聖書を文字通り解釈しようとする立場をとる牧師が多くおり、その教義は、「三位一体」(神、イエス、聖霊の三者が同一の人格であるという教え)、イエスの「処女降誕」、イエスの再臨は雲に乗ってくる等、キリスト教と縁のない一般人にとって、にわかには合理性を感じ得ない面があります。

しかし、聖書の文言解釈による教義だけを見ればそれなりの一貫性もあり、文言にどれだけ忠実かという基準で見れば、統一原理よりも既成キリスト教の方が優れているかのように見える面もあります。そこで、脱会説得の専門家らは、必ずと言っていいほど、聖書の文言に照らし、いかに統一原理がでたらめかという点を、脱会説得の批判の中心に据えています。

では、統一原理は、聖書に基づいている教えなのでしょうか?

監禁現場では脱会説得の専門家らは、かつて統一教会が対外的に発表した信仰告白に、「統一教会は新・旧約聖書を永遠の教典とする」といった文言があることに基づいて、「原理は聖書に基づいているんだろ?」と迫ってきます。また、『原理講論』の中にも、統一原理の教えを論証する過程で、聖書の文言を引用して説明している箇所が多々あります。

そこで、監禁中という特殊な霊的雰囲気もあって、ともすれば「原理は聖書に基づいている」という錯覚に陥りがちです。そして、一旦この錯覚に陥った元信者等は、『原理講論』を何度読んでも、この錯覚から抜け出すことができなくなってしまうのです。もしこのような状況に処したときは、是非、文先生の次のみ言を思い起こして頂きたいと思います。

「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです」(1990年1月13日、参照:『踏みにじられた信教の自由』286頁)

「我々は真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります」(『希望の到来』171頁)

そして、統一原理と聖書との関係については、実は『原理講論』「総序」において、すでにその核心部分が明記されているのです。すなわち、総序には次のように記されています。

「この最終的な真理は、いかなる教典や文献による創造的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも編み出されるものでもない」(37頁終わりから2行目以降)

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「この真理は神の啓示をもって、我々の前に現れなければならない」(38頁1行~2行)

「先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのでさる」(38頁7行~9行)

すなわち、文先生は、聖書の文言を元にして統一原理を構築されたわけではなく、むしろ、神の啓示である聖書には、まだ真理が十分には書かれていないという前提のもと、霊界や地上界を行き来し、神と霊交する中で真理を解明されていかれたのです。

したがって、『原理講論』に含まれる聖書解釈は、文先生が解明された真理に照らした場合、聖書の文言の背後にある神様が真に伝えたかった内容を説いたものということができます。

例えば、『原理講論』には、聖書の創世記3章に出てくるエデンの園にいた蛇は天使長ルーシェルのことだと記しています。聖書の文言を重視する立場からは、この蛇とは文字通り蛇を意味することになるでしょう。しかし、文先生は、霊界・地上界を行き来し、人類堕落の原因を解明し、最後は神様や聖賢達と直談判する中で、遂に神様からも真理であるとの承認を得たわけです。

そうした過程を経た上で、聖書にある「蛇」とは、実際には天使長ルーシェルのことを意味している、との真理に立脚した聖書解釈を示されたわけです。つまり、原理は聖書に基づいているのではなく、逆に文先生が勝ち得た真理に基づいて、聖書には十分に書かれていない真の事実関係を解き明かしたのが統一原理における聖書解釈だということができます。

なお、このような解釈に対しては、「聖書を改竄するもの」との批判が反対派からなされています。しかし、文師ないし関係機関が、聖書を改竄して出版したことは一度もありません。むしろ、聖書の文言には手を加えず、その背後にある真理を解き明かしているのが統一原理における聖書解釈です。

また、反対派の話を聞いて、「原理はでたらめだ」との錯覚に陥った元信者の中には、「自分は本当のキリスト教の教えが全く分かっていなかった。だから原理を真理と信じたんだ」と悔いて、既成キリスト教会の神学校で勉強を始める者もいます。

しかし、この考え方は、かつて多くのクリスチャンたちが既成キリスト教会の教義に限界を感じ、統一教会に来たことを説明できません。つまり、実際には、既成キリスト教会の教義には限界があり、洗礼を受けたキリスト教徒であっても内外の様々な矛盾を解決できないために、この限界に気づいた若者たちが再臨主の説いた統一原理に出会って感動し、信者となっていったわけです。
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韓国でも梨花女子大学事件では、複数の教授や助教授をはじめ、多くのクリスチャン達が統一教会の信徒となったわけですし、日本でも、古参の信者の中には熱心なクリスチャンだった人たちが大勢います。そしてこうした信徒等は、すでに既成キリスト教会の限界を十分に認識した上で統一教会に来ているので、既成キリスト教会の教えをいくら説かれても、信仰を失うということはありません。

ところが、既成キリスト教会を通過せずに統一教会に出会った信徒たちは、反対牧師が聖書の文言解釈をもとに説く、従来の既成キリスト教会の教えを真理だと錯覚し、その門下に下るわけですから、大変な回り道をさせられていることになるわけです。

この後の解説では、聖書の個々の文言を巡っての統一原理と既成キリスト教会の解釈の違いに関して解説がなされていきますが、統一原理における聖書観を見失うと、「木を見て森を見ない」結果となってしまいますので、常に、本則に立ち返って個々の問題を研究して頂ければと思います。

近藤論文

自然を観察すれば神様が分かるって本当?①

地球 虫眼鏡 観察s浅見定雄氏の批判

『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。

批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。

かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。

ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)

CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える

統一教会の教義 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

原理講論 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

Amazon.co.jp: 原理講論―重要度三色分け: 世界基督教統一神霊協会: 本

ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)