Q:病気の原因は、「本人や両親が罪を犯したからではなく、神のみわざが人にあらわれるため」(ヨハネ書9章1節~3節)であるから先祖の因縁は関係がない?

Q:病気の原因は、「本人や両親が罪を犯したからではなく、神のみわざが人にあらわれるため」(ヨハネ書9章1節~3節)であるから先祖の因縁は関係がない?

A:ここでイエス様が弟子たちに語ろうとされた真意は、“病気や一切の不幸が、先祖や本人の犯した罪と全く関係がない”といった思想を表明することではなく、弟子たちが“この人が盲人なのはだれのせいだろう”などと罪の責任の所在をあれこれ考えていた時に、大事なことはそういうことではない、我々、罪の血統の中に生まれた堕落人間は、この道端に座って物乞いをしている盲人と同じであって、みな等しくメシヤによる救いを必要としている哀れな存在なのだ、ということを示そうとされたということです。

『新聖書註解』ではこの部分を、「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の苦難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(新約1 487ページ)と述べることによって、イエス様がある特別な意図をもって語られたことを示しています。

事実、ヨハネによる福音書5章14節(足なえの癒しの場面)では、「この事件は9章3節と違っていて、彼の病気が罪の結果であったことを暗示する」(『カトリック新聖書註解』1319ページ)。

エレミヤ書31章30節の聖句に関しても、「ここで問題になっているのは、刑罰における共同責任論から個人責任論への変化ということにあるのではない」(『新聖書註解旧約4』190ページ)と解説されています。

罪の遺伝的性格は、十戒の「父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出20・5)の言葉にはっきりと表されています。

『聖句Q&A』

アダムとエバは、結婚していたから堕落ではなかった?

失楽園を性的に解釈したカトリック神学に対抗し、それを性的に解釈しようとしないプロテスタント神学があります。

創世記2章24節の「結婚賛歌」と、創世記3章の「失楽園」の関連性をめぐって、聖書の記述順序を、そのまま時間的経過と同一視したルターは、結婚賛歌に「妻」という言葉があることから、アダム・エバは堕落(失楽園)前にすでに性交していたとして、次のように解釈しました。

 

「原人アダムとイブ(エバ)とはその堕落の以前にすでに性の交わりを行っており、それは二人の貞節ときよき愛のしるしでもあった。彼らは裸であって、性に対しても自然な開放的な態度をとっていた」(岩村信二著『キリスト教の結婚観』日本基督教団出版局、122ページ)

 

反対牧師は、このルターの聖書解釈に基づいて、「妻」の言葉に注目させ、アダム・エバの堕落の原因は、統一教会がいうような「性的問題」ではなかったします。そして、ルターが、原罪を「自己中心」「高慢」と見て、心的解釈をした見解を利用しながら、統一原理の「堕落論」は間違いであると批判し、統一教会信者を脱会説得するのです。

しかし、ルターとは違って、聖書の記述順序をそのまま時系列とはとらえない解釈も存在しているのです。カトリック聖書(ウルガタ)を校訂した教父ヒエロニムスは、次のように述べます。

 

「アダムとエバに関しては、堕落以前の彼らは楽園で純潔であったと主張しなければならない。しかし、罪を犯し楽園を追放されてからはただちに結婚した。それから『それ故に人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、そして彼らは一つの体となる』の(創世記2章24)節がくる」(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』203ページ)

 

人間始祖アダムとエバの堕落を性的に解釈することは正しいというのです。

創世記2章2節で、神は天地創造を終えて休まれたと書かれているにもかかわらず、2章4節から、再び、違ったかたちの天地創造が記されています。ですから、ルターのように、聖書の記述順序をそのまま時間的経過と同一視するのは単純すぎて、問題があります。

いずれにせよ、カトリックとプロテスタントは、失楽園解釈をめぐって対立しています。統一原理は「堕落論」において、ルターのように「自己中心」の動機で、アウグスティヌスのように「性的形態」を通じて堕落したと見ており、その意味では、カトリック神学とプロテスタント神学を和合させる観点を持っていると言えます。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

 

キリスト教では「生命の木」を契約の印と教えているそうですが。

統一原理は、生命の木を「個性完成したアダム」と解釈しますが、反対牧師は、それをこじつけだと批判します。例えば、浅見定雄氏などは、統一教会の聖書解釈は支離滅裂であり、奇怪な教理であるとまで批判します(『「原理講論」の仮面を剥ぐ!』13〜15ページ)。

しかし、キリスト教では、伝統的に「生命の木=十字架=メシヤ」という解釈を綿々と語り伝えてきているのです。

1979年11月号『現代思想』(青土社)に収録されたテオドール・ライク著「原罪の起源」には、「古代キリスト教を通じて、十字架を生命の樹とする解釈は一般的である。それは旧約において十字架の象徴である……。アウグスティヌスはキリストを生命の樹の果実と見なし、オリゲネスは、生命の樹=十字架=キリストという等式を提出した」(142ページ)と論じています。

また、オスカー・クルマンもその著書『クリスマスの起源』(教文館)において、ピーター・ミルワード氏もその著書『旧約聖書の智慧』で、生命の木=十字架=キリストという解釈が伝統的にあったことを紹介しています。

統一原理は、メシヤを「個性完成したアダム」と解釈するので、生命の木=十字架=メシヤ=個性完成したアダム、という解釈も可能なのです。

(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?②

失楽園の物語に隠された意図とはなにか?

創世記の第3章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語は、キリスト教における「原罪」の教義の基礎となっている。この物語の意味する内容については古来よりさまざまな解釈がなされてきたが、それを解く重要な手がかりとして、この物語の「著者の意図」を探るという方法がある。「聖書の著者って、神様じゃないの?」という敬虔な方もおられるだろう。もちろんそれも一つの見方だが、ここではより現実的・歴史的観点からこの物語の意味を探ってみようと思う。

これは聖書批評学という学問がとる手法で、聖書の各部分を書いた著者の年代、背景、思想的傾向、想定されていた読者、語ろうとしたメッセージの内容、などを研究するものだ。聖書を歴史的背景に照らして読む利点とは何だろうか?聖書は比喩や象徴に満ちている。そして一つひとつのシンボルが意味する内容は文化圏ごとに異なっている。たとえば日本では「湯水のごとく使う」と言えば、どこにでもたくさんある物のようにムダ遣いすることを意味するが、砂漠で生活する人々にこの言葉を直訳したら、全く正反対の意味にとらえるはずだ。したがって、我々とは時代も文化背景も違う著者が書いた文献を読むときには、とんでもない間違った解釈をする危険があることが分かる。逆に著者の生きていた時代的・文化的背景を知っていれば、一見何を言っているのか分からない記述も、その意味するところが分かろうというものだ。

旧約聖書の批評学によれば、創世記が含まれている「モーセ五書」は、J・E・P・Dという4つの資料を編纂して作られたというのが定説になっていて、創世記の第3章はこの中で最も古い時代の「J資料」(紀元前850年頃)に属するものだと言われている。この「J資料」というのは、神様を「ヤハウェ(Jahweh)」と呼んでいることから、その頭文字をとって「J資料」と名付けられたものだ。もちろんその著者の正確な名前は分かっていない。そこでヤハウェを崇拝していた人物ということで、一般的に「ヤハウィスト」と呼ばれている。

さて、最近の聖書批評学が明らかにした内容によれば、創世記第3章の著者「ヤハウィスト」の記述は、彼が生きていた当時の近隣諸国の神話のモチーフに満ちているという。したがって著者はこれら近隣諸国の神話をよく知っており、当然彼が語りかけていた同時代・同文化圏の人々も、それらのモチーフが何を意味するか知っていたことになる。したがってこれらの神話的モチーフの意味を解読することを通して、創世記第3章の物語が「彼らにとって」何を意味したのかが推察できるというわけだ。

創世記の記述によれば、アダムとエバは「蛇」に誘惑されて「善悪を知る木」の実をとって食べて罪を犯し、その途端に裸が恥ずかしくなって、いちじくの葉を腰に巻いて下部を隠したとされている。その当時、中東全域において「蛇」は性的快楽、健康、知恵、肥沃等の神として崇拝されていた。これはアシュラと呼ばれる繁殖の女神をあがめる「多産崇拝」で、このカナンの土着信仰は歴史的にイスラエル民族を唯一神ヤハウェに対する信仰から逸脱させようとする誘惑であり続けた。多産崇拝の大母神としてのアシュラの役割は、「すべて生きた者の母」と呼ばれた創世記のエバの記述と酷似している。エバの名前はヘブル語では「ハゥワー」であり、アラム語の「蛇(ヒゥャッ)」と同根である。

農耕民族に広く分布していたこの多産崇拝においては、人間、穀物、牛などの豊饒は、男性神と女性神の性的結合によってもたらされると考えられていた。そしてその神々の性的結合を象徴する「宗教的儀式としての性交」が、神殿娼婦と男性崇拝者との間で行われ、それによって地上に豊饒の祝福がもたらされると信じられていた。アシュラ崇拝にはしばしば「アシュラ」と呼ばれた木の柱が用いられ、性の儀式はしばしば木の下や木製のアシュラ像の横で行われた。したがってこの多産崇拝の情景は、創世記第3章の記述に非常によく似ているのである。創世記3章の情景の中には、多産崇拝の「神々の結婚」の儀式を構成する要素がすべて含まれている。蛇の「あなたは神のようになる」という言葉は、まさに性的恍惚を通して神と人とが交じり合い、地上に豊饒、癒し、不死をもたらすという、多産崇拝の主張を物語っている。

このように創世記第3章をそれが書かれた当時の歴史的状況に照らして読めば、それがカナンの多産崇拝に対する反論または警告として書かれたことが分かる。カナンの宗教において蛇は癒しと不死を象徴する生き物であり、神格化されていた。しかし創世記の著者は、蛇を狡猾なものとして描くと同時に、単なる動物にすぎないものとして描いている。これには蛇に神秘的な力があると信じていたカナンの多産崇拝の神話が、まやかしにすぎないものであるという意図が込められているのである。

創世記第3章の物語の解釈は、エバが食べたという「善悪を知る木」の木の「知る」という言葉が何を意味していたかが、解釈のポイントになる。ヘブル語において「知る」という動詞(原語の発音は「ヤダ」)は非常に広い意味を持っていたが、しばしば男性が女性と性関係を持つという意味で用いられた。しかし創世記の記述は性行為そのものを禁じているのではない。むしろ結婚は神の祝福であった。したがって物語は婚姻関係以外での性関係を断罪しているのである。カナンの多産崇拝は、祭の時に夫や妻以外の男女と性関係を結ぶことにより、長寿、多産、神との交流を約束する宗教であり、その宗教的シンボルには「蛇」と「木」が含まれていので、創世記の著者は明らかに神殿娼婦による性の儀式を伴うカナンの多産崇拝に対する反論、あるいは警告を意図してこの物語を書いたのだということが分かるのである。

さらに、「いちじくの葉」は性的な宗教の乱交と関連したものであった。そしてアダムとエバは堕落した後に、裸を恥ずかしく思って下部を覆った。また罪に対する罰は、妊娠と出産の苦痛に関連している。したがって聖書の記事は、多産崇拝が約束した祝福が安っぽい詐欺的誘惑であり、その結果は祝福とは逆の「呪い」であるというメッセージを語っていることが分かる。多産崇拝における神殿娼婦との性の儀式の結果もたらされるのは、豊穣、子孫の繁栄、永遠の命ではなく、逆に不作、産みの苦しみ、そして死であり、ヤハウェの真の祝福である「命の木」への道は閉ざされてしまう、というのが著者の言いたいことである。

創世記3章の著者は、カナンの多産崇拝の性の儀式が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるという主張を物語の中に込めている。これがその時代における失楽園の物語の意味であった。しかしこの物語は今日の我々に対しても普遍的なメッセージを語りかける。なぜなら今日ほど「性の偶像化」がなされている時代はないからだ。今日の我々の文化は性を礼賛し、あたかもエデンの園の蛇のごとく「取って食べなさい」と人々を誘惑している。しかしその結果もたらされているものは、人々の精神的退廃と家庭の崩壊である。

統一原理は、不倫なる性愛が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるととらえている点において、創世記第3章の著者と完全に一致している。そしてちょうど木によって象徴されたアシュラが全ての存在の母なる神として崇められていたように、統一原理においても「善悪を知る木」は全人類の母となるべき「エバ」を象徴するものであったと解釈されている。そして木の実はエバの貞操を意味し、それを「取って食べる」という行為は、まさしく性関係を意味していると捉えられているのである。そして堕落によって閉ざされてしまった「命の木」とは、本来アダムが罪を犯さなければ至るはずであった完成の理想であった。このように見ると、はるか古代に生きたヤハウィストと統一原理は、時代や文化圏の違いを越えて、神が人類に対して語りたい普遍的なメッセージを受けとめているということが分かる。

そして統一原理はその物語の背後に、人類始祖の堕落に関するさらに詳細な秘密まで読みとっている。まず創世記に登場する蛇は、単なる動物ではなくて堕落してサタンとなった「天使」を象徴するものであると解釈されている。その蛇がエバを誘惑して善悪の実を食べさせたということは、本来アダムとエバの養育係として二人の成長を手助けするために創造された「ルーシェル」と呼ばれる天使が、まだ幼かったエバを誘惑して霊的な性関係を結んでしまったことを意味しているのである。そしてエバがその木の実をアダムにも食べさせたということは、彼女がアダムを誘惑し、彼までも罪の中に巻き込んでしまったことを意味するのである。

すなわちヤハウィストが書いた物語の持つ意味は、聖書批評学的に見れば当時の文化的状況を背景として理解されるのであるが、その物語の中には彼自身も意識しない内に、人類歴史の最初に犯された不倫の罪に関する秘密が隠されていた、と統一原理は見るのである。ヤハウィストは当時の社会的問題について真剣に悩み、その解決を求めていたので、神はそれをモチーフとして人類の罪の根源に関する秘密を啓示したのである。そして統一原理の堕落論は、今日我々の社会が抱える同じ問題の解決の為に与えられた、「神の啓示」なのである。(魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』より)

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?①

浅見定雄氏の批判

『講論』は人間始祖の堕落の問題をすべて「セックス」と関係づけている(浅見定雄『統一協会=原理運動――その見極め方と対策――』148ページ)。

 

批判に対する回答

『講論』は、人間始祖の堕落を単なる「セックス」と関連づけているのではなく、そこで真に主張されている内容は、人間始祖による“愛の秩序の破壊”と言うことなのである。楽園(神の国)は、神を中心とした愛の秩序の下に築かれなければならなかった。この愛の秩序の破壊が楽園喪失の真意だったのである。ところでこの愛の秩序は性的な次元で最もシビアに表れる。人間始祖の堕落も、性的な次元において決定的な出来事として生起したのである。

人間始祖の堕落の背後に性的な問題が潜んでいるという考えは、これまでにも見られた。例えば『カトリック聖書新注解書』は、神話的表現の背後に堕落の性的要素が語られているとして次のように述べている。少し長くなるが参考のため以下に紹介しておきたい。

「聖書の作者によって表明されている人祖の罪は、異教徒の神話となんらかの関連があると考えられる。作者は、これらの神話を良く知っていたに違いない。彼は、自分と同時代に生きているだけでなく、同じ文化的背景を持つ男女のために書いたのである。その読者たちは著者と同程度の教養を持っていなかったと考えられる。著者は、物語を記述するに当って、故意にあるいは無意識のうちに(ただし意識的であった可能性が大きい)、読者が知っている近隣諸国の神話や伝説を利用せざるを得なかった、という事実を否定することはできない。すぐれた語り手として、著者は同時代の人々に、すべての人が持っている罪への傾きを説明するために、誘惑と堕落をすぐれた方法で描写したと思われる。これが、コペンスなどによって推唱されている罪の〈性的〉解釈の基礎である。

蛇は、パレスチナにおけるカナン人の宗教において、セム族の諸宗教におけると同様に、性の象徴であった。蛇は、カナン人によって、神バアルおよび女神アシェラ(共に多産の神)と関連づけられていた。この関連づけから、イスラエル人聴衆にとって、蛇が悪魔的儀式への誘惑の象徴であったことが容易に理解できる。カナンにおけるイスラエルの歴史を通じて、バアル崇拝はイスラエルの民にとって非常に魅惑的であった。この民の傾きに対して、律法と預言者は絶え間なく非難を続けたが、警告が聞き入れられない場合が多かった。〈善悪の知識〉は道徳全般に関するものであったが、性的知識に関連づけて使われている(申1:39、サムエル下19:35)。〈禁断の実〉を食べることは、女神アシェラの礼拝の際に行われた〈ぶどう菓子〉を食べる(ホセア3:1)のと同様に性に関連したことを思い起こさせたのであろう。最後に、男女は罪を犯した直後に、性に気づいた。そして、女への罰は性の次元で宣告される。確かに、聖書作者は、性そのものが悪であるとか、あるいは神が男女に求めた理想的状態においては性交がなかったとか言おうとしているのではない。それとは反対に、すでに見たように(創2:24)、作者は一夫一妻の結婚が神によって定められた制度であることを教えている。むしろ、作者は、カナンの影響によってイスラエル人に伝染する危険のある性に関する悪弊、例えば、多産の神への祈願、または本来の目的に反する性の体験などを暗示しているのであろう」(エンデルレ書店205ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

〝原罪″は血統的に遺伝される?②

統一原理における罪の概念

統一原理における罪の概念は、血統と密接に結び付いている。まず原罪自体が「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」であり、「血統的な罪」であるとしている。すなわち罪の根は淫乱にあったのであり、これは血縁関係によってつくられた罪であるために、子々孫々にまで遺伝されてきたととらえられているのである。人類始祖というような遠い昔の祖先ではなく、われわれに比較的近い先祖が犯した罪も、血統的な因縁によってわれわれに受け継がれるのであるが、これを統一原理では「遺伝罪」と呼んでいる。さらに自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪の「連帯罪」と、自らが直接犯した罪の「自犯罪」とを合わせて、統一原理にはつごう四種類の罪概念が存在することになる。

「遺伝罪」や「連帯罪」という概念は従来のキリスト教にはないが、原罪が血統を通して遺伝されるという考え方は、伝統的にキリスト教が取ってきた立場である。しかし一口に「原罪の遺伝」と言っても、その意味する内容には諸説ある。そこで、ここではそれを二つのタイプに大別して、それらが統一原理と一致する内容をもっていることを示すことにする。原罪に関するキリスト教の教理は、伝統的に旧約聖書の創世記第三章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語と結び付けられてきた。この点についてはキリスト教も統一原理も全く同じである。しかしそれがどのようにして後孫に影響を及ぼすのかということについては、キリスト教の中にも二とおりの考え方があったのである。

第一番目の考え方が「罪責の法廷論的伝播」というものである。「原罪」とは私自身が犯した罪ではなく、人類始祖アダムとエバが犯した罪であるにも関わらず、あたかもその罪を自分が犯したかのような罪責をわれわれが背負わされているというものである。これはわれわれがアダムとエバの子孫であるという「血のつながり(血統)」を条件として、その罪に対する責任を「法廷論的」に負うということを意味する。このような立場を取るのが、プロテスタントの中でもカルヴァン主義の流れをくむ「契約神学(Federal Theology)」である。契約神学の主張するところによれば、神はアダムを通して全人類と契約を結ぼうとしたのであり、その代表であるアダムが罪を犯すことにより、全人類が法廷論的にアダムの罪に巻き込まれるようになった、ということになる。統一原理における原罪の概念も、基本的にはこれと同じ枠組みでとらえられている。

もう一つの考え方は、「罪の生物学的な遺伝」というものである。これは原罪の教義を最初に体系化したと言われるアウグスティヌスの取った立場であった。彼は原罪の本質を情欲としてとらえ、肉欲によって汚された人間の性交を媒介として原罪が遺伝されるのであるととらえた。すなわち、たとえ正当な結婚による夫と妻の性関係といえども、それは罪深い情欲によって汚れているために、すべての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続するのであると考えたのである。このように性欲そのものを罪悪視し、それを原罪の遺伝の決定的な要因とする彼の立場は、後にカトリック教会から否定された。しかし性欲に焦点が絞られているという点を除いては、原罪が繁殖によって後孫に遺伝されていくという彼の主張は認められたのである。

統一原理も性欲そのものを罪とはとらえないので、その点ではアウグスティヌスの立場とは異なる。しかし、われわれが人類始祖アダムとエバから受け継いでいるのは単に法廷論的な罪責だけではなく、堕落によって生じた人間の腐敗した性質をも血統を通じて受け継いでいるととらえている点では、彼の考え方に通じるものがある。これを統一原理では「堕落性本性」と呼んでいる。「堕落性本性」とは、アダムとエバが堕落することによって、サタンとなった天使長ルーシェルの性質を受け継ぐようになり、それが歴史的に継承されてきたために、あたかも人間の本性のごとく深く根づくようになってしまった性質のことを言う。具体的に言えば、それは嫉みや嫉妬、恨みや憎悪、傲慢や反抗心、罪の繁殖や自己正当化といった、およそ人間の自己中心的な性質のすべてを含むと言っていいであろう。このような腐敗した人間性は、親から子へと遺伝や生活習慣を通して伝播されるのである。

このようにわれわれ個人の人生は、法廷論的にも遺伝的にも過去に生きた先祖たちの罪の影響を受けている、というのが「統一原理」の人間観である。個人主義的な倫理観が全盛である現代の観点から見れば、自分自身が犯してもいない過去の罪に対する責任が自分にふりかかってくるという考え方は受け入れ難いかもしれない。事実、実存主義的な哲学に基づいて聖書を解釈する現代神学の多くは、罪が血統を通して遺伝するという考え方を否定する。彼らにとってアダムとエバの物語は、遠い昔に生きたわれわれの先祖に起こった事件について述べたものではなく、常に罪の誘惑にさらされているわれわれの普遍的な状況を描写した「神話」なのである。すなわちアダムとエバはわれわれ自身のことを表しているのであり、彼らはわれわれの血筋をたどっていくことによってたどり着く罪のルーツなのではない。このようにして、彼らはアダムとエバの歴史的実在とともに「罪の遺伝」という観念をも否認してしまったのである。

しかしカトリックやプロテスタントの保守派をはじめとする伝統的なキリスト教は、公式的にはアダムとエバの歴史的実在を否定していないし、罪の遺伝という観念も捨て去っていない。したがって統一原理における罪の遺伝の概念は、明らかにキリスト教の枠内に入り、その中でも保守的・伝統的な理解をしているグループに入ると言っていいであろう。すなわち、統一原理における罪の遺伝の理解は、純キリスト教的な起源に基づくものであると言うことができるのである。(魚谷俊輔著『統一教会の検証』より)

 

 

〝原罪″は血統的に遺伝される?①

浅見定雄氏の批判

人間の堕落行為に関して、性的関係という〈行為〉の結果が血統として残るとは、古代人の考えならまだしも分子生物学時代の話としてはあきれた新説である(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』12ページ)。

 

批判に対する回答

「統一原理」が人間始祖の堕落を血統的堕落と呼び、人間始祖の堕落の罪(原罪)が血統的に遺伝されるというとき、それは、人間の罪が、生物学的な次元で、すなわち、生物学的な遺伝情報として子孫に伝えられるということではない。それは血統を中心とした霊的、宗教学的事象を生物学的言語を使って説明しているのである。――ただし、罪を持つことにより、人間の肉体に生物学的影響を与えるということはありうるであろう――。

「統一原理」が、人間始祖の堕落を血統的堕落と呼んでいるのは、サタンを介在しての堕落の行為の結果、神に連結されるべき人間始祖の血統が、サタンに連結されることになったということなのである。そして、このような、人間始祖の罪(原罪)――すなわち、神の血統を有するべき人類がサタンの血統を有するに至ったという罪――が血統的に子孫に伝えられるということは、何も生物学的遺伝子によってそれがなされるということではなく、人間始祖を含めた人類の血統的な有機的一体性(血統的因縁)のゆえに、子孫にもその罪が転嫁されるということなのである。このことに関しては、パウロもロマ書で「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……、こうして、すべての人が罪を犯した」(5:12)と述べているとおりである。

このような「統一原理」の考えは、アウグスティヌスらによって主張された「自然首長原則」の説に近いもので『聖書教理ハンドブック』は、「アダムは、人類の連帯的かしらである。代表の原則は、アダムの堕落のときに行われていた(参照ロマ5:12~21、Ⅰコリント15:22)。アダムが罪を犯して堕落したとき、私たちはアダムの中にあった。それゆえ、アダムの罪とその恐るべき結果は、彼の子孫に転嫁され、彼らのものと認められ、法律的に彼らに対して責任が追及された(参照ロマ5:12、15、18、19)」(いのちのことば社・91ページ)と述べている。

また、原罪が血統的つながりを条件として伝えられるということについては、『大教理問答書』は「原罪はわれわれの始祖たちからその子孫に自然的生殖によって伝えられるから、その方法によってかれらから生まれてくるすべての者は罪のうちにみごもり、また、生まれる」(第26問の答えより)と言っており、『カトリック聖書新注解書』は「原罪はアダムという個人によって犯された罪から出るものであって、生殖を通じてすべての人に伝えられ、すべての人の中に本人の罪であるかのように存在する」(エンデルレ書店203ページ)と言っている。また『現代教義学総説』(新教出版社)では「J・ゲルトハルトは『原罪は、全人間の――原義から離れた――本性の最も内的で最も深い腐敗であって、それは、最初の両親たちの堕落から発生したもので、彼らから肉による出生を通して、すべての子孫に移されたものである』と定義している」と述べている。

以上、「統一原理」は、罪が血統的つながりを条件として転嫁されていくことは主張するが、決して罪の本質を“物質的概念”として扱っているのではなく、徹底的に“関係概念”として捉えているのである。したがって、浅見氏の批難は何ら、当を得たものではない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」という呼び名は統一教会だけ?

PEOPLE_61浅見定雄氏の批判
イザヤ14 :12の「明けの明星」を統一教会は「ルーシェル」と呼んでいるが、「ルーシェル」などという単語は世界中のどの言語にもない。統一教会だけの隠語である。これはたぶん、英語のLucifer(ルーシファ)の聞きちがいから生じたのである。ciを「シェ」などと発音するのも幼稚だし、fの音を落とすに至っては欧米語の音韻を知らない証拠だ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』16ページ)。

批判に対する回答
統一教会ではサタンのことを「ルーシェル」と呼んでいるが、これは英語のLucifer「ルーシファ」の韓国語なまりからきたものである。もともと英語の「ルーシファ」は、ラテン語の「ルキフェル」からきたものであり、これ自体もなまったものである。ちなみにドイツ語では「ルチフェル」となる。

もともと外国語の発音をその国の言葉で忠実に表現しようとすること自体不可能なことである。それを原音に忠実でないから〈幼稚〉だなどといって騒ぐこと自体きわめて幼稚だと言わざるをえない。

なお、『講論』の日本語訳は「ルーシェル」であるが、韓国語では「누시엘=ヌシエル」(韓国語では語頭にくるㄹ音〈R〉はㄴ音〈N〉に変わる)であり、英語訳は〈Lucifer〉、ドイツ語訳は〈Luzifer〉、イタリア語訳は〈Lucifero〉となっており、それぞれ、その国の言語の事情から一様ではない。したがって、浅見氏の言うように〈ルーシェル〉は統一教会だけの隠語だなどというようなものでも何でもない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」の存在は聖書の誤訳から生じた俗説?

AG_DE_HV_HL_39浅見定雄氏の批判
「ルーシェル」と言う言葉は、「明けの明星」に当たるヘブル語「ヘーレール」(輝くものの意)の誤訳から生じたものであり、後世のキリスト教で生まれた俗説であって実在するものではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』17ページ)。

批判に対する回答
イザヤ14:12の「明けの明星」は、確かにヘブライ語原典では〈ヘーレール〉であり、その意味は〈輝くもの〉である。しかしながら、この言葉は〈黎明の子〉を意味するヘブライ語〈ベン・シャハル〉と対で使用されているのであるから、単に輝くものを意味しているのではなく、夜明けにおける輝くものであり、結局、明けの明星を意味している。

イザヤ14:12のヘブル語〈ヘーレール〉がラテン語に訳されるとき、ラテン語の〈Lucifer〉(「発光」、「明けの明星」の意)があてられ、それが英訳へと受け継がれてきたと考えられる。これは、誤訳というより意訳というべきものである。以下この部分についてもう少し詳しい考察をしてみたい。

このイザヤ14:12の聖句の背景には当時カナンに伝わっていたウガリット神話があることを学者は指摘している。例えば、『旧約聖書略解』には「カナンに流布されていたウガリット神話から取材したものである。ウガリット神話には夜明け、または、明けの明星の神シャハル〈夜明け〉のことやシャハルの子ヘラル〈明星〉のことが書かれてある」(日本基督教団出版局、675ページ)とあり、また『ATD旧約聖書注解18イザヤ書』には「ウガリットの人々においては、シャカルとシャリム、すなわち夜明けとたそがれの薄明かり、もしくは明けと宵の明星の対の神々の誕生についての典礼的な物語が見出される。……光を放ちつつ現れ出る明けの明星は、立ち昇る太陽の光によって色あせてしまう。カナン人もまた夜明けの薄明かりの神シャカルたる明けの明星が、雲居と星々のはるか上方に住まう至高の神の王座を覆そうと身のほど知らずにも思い上がったことを語っていたと見てよいだろう」(68~69ページ)と述べられている。

このようなことからも、イザヤ14:12におけるヘブル語〈ヘーレール〉は単に〈輝くもの〉の意とするだけでは、文脈からの理解としては不足であって、この言葉は明らかに〈明けの明星〉を意識して使われているといえよう。

ところで、浅見氏によると「ルーシファ」が、「天上から落とされた大天使」とか「サタン」であるという説明は、後のキリスト教で生まれた俗説であり、研究社の『新英和大辞典』では「イザヤ書14:12の誤訳から」となっている、と言うことであるが、ハーバード大学で博士号を取得したという聖書学者が、神学文献の代わりに英和辞典を引き合いに出すとは驚きである。

大辞典であれば権威があるというのであれば、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)では「①天から落ちた傲慢な大天使:Satanと同一視される、②《文語》明けの明星 「morning star」とあり、『WEBSTRE`S NEW UNIVERSAL UNABRIDGED DICTIONARY』(published by New World Dictionerie/Simon & Schaster)という32万語からなる大辞典では、「①the planet venus, when it is the morning star. ②Satan, especially as the leader of revolt of angels before his fall.」とある。

念のため英語の辞書としては世界で最も権威があるといわれる『OXFORD ENGLISH DICTIONARY』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)を見てもだいたい同じ意味の事が書かれている。これらの辞典は研究社の『新英和大辞典』にも引けを取らない大辞典であるが、むしろ『講論』に近い説明が書かれてある。しかしながら、いくら大辞典といえども専門書でないものをもって、われわれは云々するつもりはない。

さて、イザヤ14:12の「明けの明星」が〈天から落とされた大天使〉ないしは〈サタン〉を意味するかどうかという問題については、諸説のあることは事実である。確かに、この聖句は、直接的にはバビロンの王を指していると思われるが、しかし、それを通して、その背後にサタンをも示しているとの理解は、特に福音派の人たちから伝統的に支持されてきた。

例えば、ルネ・パーシュはサタンの起源に関して、「聖書は、多くの詳しい説明を与えていない。しかし、エゼキエル書28章12~27節と、イザヤ書14章12~15節の二個所で、聖書は、ベールの片隅を持ち上げている。預言者はツロとバビロンの王たちを越えて、そこに、これらの人物を自分の道具としている者を見る(イエスがヘテロに〈サタンよ、わたしの後に行け〉と言われたように)」(『再臨』いのちのことば社、182ページ)と述べており、また、『聖書教理ハンドブック』では、「少なくとも二つの聖句が、サタンの本来の性格を示し、彼が天から堕落したことを述べている、①エゼキエル書28章12~19節、……②イザヤ書14章12~15節……」(いのちのことば社、74ページ)と述べられている。

その他、『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)には「ルシファー(明けの明星)の堕落がしるされている。〈明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。……〉この事は、次の主の言葉によってくり返されているのではないだろうか〈わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た〉(ルカ10:18、黙12:7~9と比較せよ)」(74ページ)と述べられている。

なお、『講論』が、サタンの存在や、天使長ルーシェルについて、これほどまでに確言する背景には、聖書における証言のほかに、文師自身が天界で体験してきた啓示的事実――文師自らが神と一問一答し、天界で人間の始祖アダム・エバに会い、サタンと対決しその中で与えられた事実――が存在する。おそらく、多くの人は、すぐさまこのようなことは信じられないであろう。実際、今日、サタンはおろか天使の存在さえ疑問とする人も多いのである。

多くの学者は、〈サタン〉という概念は、中間時代の「ユダヤ思想」において発展してきたものと指摘する。しかしこのことは、サタンの実在性を軽視する理由にはならない。なぜなら、このような“概念の発展”という問題については、ヘブライ人の「神観」についても同様のことがいえるからである。もし神の本質が漸次啓示されてきたと見ることができるならば、〈サタン〉と言う概念についてもそのようなことがいえないことはない。

サタンの実在性については、後期ユダヤ教のラビたち、原始キリスト教における新約聖書の記者たち、そしてそれに続く教父たちをはじめ、多くの伝統的な神学者、ルター、カルヴィンに至るまで、それを強調してきた。しかし、啓蒙主義の時代以降、神学者の間には、サタンや天使の存在を軽視する傾向の出てきたことも事実である。

しかしながら、昨今の複雑な世相を反映して、悪(罪)に対するこのような楽観的(リベラル)傾向に対し、もう一度この世の悪と言うものの背後にある「人格的な力」(サタンの実在性)を見直そうとする動き――例えば、ドイツのヘルムート・ティーリケやスウェーデンのグスターフ・アウレン――の出てきたことは大いに注目すべきことである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)