「無性生殖」は、原理講論が述べる二性性相の例外?

浅見定雄氏の批判

すべての植物は、雄しべと雌しべとによって存続するというが、ではシダ類、コケ類、アオカビ、淡水海綿などの無性生殖はどうなるのか。すべての動物は雄と雌とによって繁殖生存するというが、ではアメーバーやゾウリムシ、ミドリムシなどはどうなのか(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』10ページ)。

 

批判に対する回答

動植物の繁殖形態については無性生殖と有性生殖の二つがある。自然界においては有性生殖がほとんどで、最も基本的な繁殖形態といえるが、原始的な生物の中には質問中にあるような無性生殖の生物も存在することは事実である。

しかしながら、無性生殖だとされているゾウリムシやアオミドロなどの単細胞生物も、いったん環境条件などが悪化すると単細胞の二個体があたかも雄、雌のように合体(接合)し、新個体(接合子)となることが確認されている。例えば、アオミドロは細胞が並んだ糸状体で、環境が悪くなると二本の糸状体の向かい合った細胞が配偶子(生殖のための特殊な細胞)となり、互いに接合管を出して接合し、一方の原形質が他方に流れ込んで接合子をつくる。この際、流れ込む方が十性(陽性)であり、流れ込まれる方が一性(陰性)と呼ばれている(『よくわかる生物I』旺文社)。

さらにもっと次元の低い細菌のようなものにも、そのような接合が見られることが分かってきている。1946年、スタンフォード大学医学部の大学院生だったジョシュア・レーダーバーグは「メチオニンがないと発育できない大腸菌」ともう一つの「スレオニンがないと発育できない大腸菌」とを混合し、三種類の栄養の入った寒天培地―― 一つはメチオニンを含まない培地、一つはスレオニンを含まない培地、もう一つはどちらも含まない培地――にまいてみた。その結果、どちらも含まない培地には、この二種の大腸菌は繁殖しないはずなのに、不思議にも数十個の集落が成育したのである。これは二種の菌の接合による遺伝子の伝達によって、メチオニンとスレオニンがなくても増殖できる新しい種の菌をつくり出したことを意味している。この接合の際、二種の菌は十性と一性という配偶子と同じ働きをすることが確認されている(『性の源を探る』岩波新書183ページ以下)。

また、他の文献にも「高等生物では染色体の交叉(受精)をやっているけれども、バクテリアでも染色体に相当する核酸分子でつなぎ換え(接合)を行うことは珍しくない」(『偶然と必然』東大出版会103ページ)とか、「バクテリアにも雄雌があり、少しへばってくると接合」(『生命の物理学』今堀和友・講談社70ページ)するなどの記述がある。

このように、アオミドロや細菌のような最も下等な生物においてすら非常時には高等動物における有性生殖と同じような現象が見られるということは、基本的には、その背後に十性と一性が潜在的に存在していると言うことができるであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

自然を観察すれば神様が分かるって本当?①

地球 虫眼鏡 観察s浅見定雄氏の批判

『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。

批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。

かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。

ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)

CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える

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自然を観察すれば神様が分かるって本当? ②

地球 万物s和賀真也氏の批判

『原理講論』は自然界の中から神を知ろうとしているが、イエス・キリストこそ神を現わした方である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』209ページ)

批判に対する回答
ここで和賀氏が問題にしているのは、すなわち、自然を通して神の本質を知るよりは、イエスを通して知るべきだということです。しかし、こういう見解は数多くのキリスト教神学の中の一つの立場(根本主義)に固執した解釈で、歴史的な神学的課題である啓示と理性、啓示神学と自然神学という問題について、十分配慮されているとはいえません。

もちろん、私たちは、理性や自然界だけで神を十分に認識できるとは考えていません。堕落した人間が罪に陥っているゆえに、罪なき人(キリスト)を通してでなければ人間の側から一方的に神のすべてを知ることはできないことを私たちも認めます。

しかし、私たちは決して、キリストを通して示されるものだけが神の啓示だとは考えません。神はイエス・キリストによる啓示以前に預言者、祭司、知者を介して様々な方法で啓示されました。『新聖書大辞典』(キリスト新聞社1977年、454ページ)によれば、外面的方法として、夢(創37、40、41章、土師7:13、列王上3:5他)、しるし(士師6:36、列王下20:8他)、くじ(ヨシュア7:16、サムエル上10:20)などや、内面的手段として幻(アモス7~9章、イザヤ6章、エゼキエル37章他)、神の霊(エゼキエル、第ニイザヤ)などが挙げられます。また、パウロはロマ1:18、2:14、使14:17、17:27においてキリストによる啓示以外の一般的啓示を認めています。有名なスイスの神学者E・ブルンナーもロマ1:20に基づいて、神の創造における啓示を認めようとしました。

以上のような観点から、『原理講論』は自然界からも神の存在を知ろうとしているのですが、啓示という概念は重要な問題ですから、ここで、もう少しつっこんで考えておきたいと思います。

啓示とは、神の自己開示ということができますが、それには、①神がキリストの全存在を通して啓示されるもの、②人間の本心に語りかけられるもの、③自然界や被造世界に反映されるもの、などが考えられます。

しかし、人間の本性や神認識についての見解の相異によって様々な神学的見解が示されています。まず、カール・バルトのようにキリスト論的見方に基づき、①のみを啓示として認めるが、人間の神認識における理性は罪によって死んでおり、神を自然理性によって知ることはできないとして、②、③を啓示として認めない立場があります。

第二に、トマス神学は人間の神認識における理性は、病弱ではあるが、ある程度理性によって神を認識できるとして、①のほかに②③を認めます。また、トマス神学に準ずるルター派と改革派の古プロテスタント神学は、①を特殊的啓示あるいは超自然的啓示、③を一般的啓示あるいは自然的啓示と呼び認めました。

第三に、シュライエルマッハやキリスト教神秘主義は、①を特殊的啓示、②を一般的啓示とする立場を取ります。
このほかに、E・ブルンナーのように①の啓示のほかに②一般啓示、③創造の啓示とする考えや、アルトハウスの②を原啓示などとする考え方があります。

さて、私たちの考えは、バルトのようなキリスト論集中的な考え方はしません。私たちは、キリストに現れた神の特殊啓示①を中心として、ブルンナー流にいえば一般啓示②も創造の啓示③をも認めます。そして、一般啓示や創造の啓示は特殊啓示と矛盾するものではなく補完するものだと考えます。したがって、私たちは自然界を通しても部分的に神を知ることができると考えるわけです。和賀氏のような主張はキリスト教のすべてを代表しているとはいえません。

なお、『原理講論』の「創造原理」には、特に、キリスト論的視点からの言及のないのには別の理由があります。普通、キリスト教の教義学では、人間の堕罪以前の問題(創造の秩序に関する問題)と以後の問題(救済の秩序に関する問題)が、同時に論じられています。例えば、教義学において、初めに出てくる神論の中で既に救済の秩序に関するキリストや聖霊を含めた三位一体論が論じられ、また、次に出てくる人間論では人間の創造本然性と共に人間の罪の問題も論じられているという状況です。

しかし、『原理講論』では、それらが明確に区別せられ論じられています。例えば、「創造原理」では人間の堕落以前の創造の秩序に関する問題のみが論じられており、次の「堕落論」において人間の堕罪の問題が取り上げられています。そして、キリスト論を含めた救済に関する問題は、それ以後において出てきます。

このように『原理講論』のもっている表現形式は、神の真理を順序立てて理解するための優れた独特の形態をもっています。

このような理由で、「創造原理」の項目では、キリスト論的視点からの言及はなされていないわけです。それに対して、和賀氏はこのような『原理講論』の全体をよく理解しないで「キリストという言葉を完全に締め出している」などと感情的発言を繰り返していますが、何事に対しても、もっと広い視野から、公正で建設的な判断をしていただきたいものです。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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『原理講論』のロマ1:20の「神の見えない性質」の解釈は間違ってる?

地球 虫眼鏡 観察s和賀真也氏の批判
『原理講論』では、ロマ書1章20節を引用し、自然界から神を知ろうとしているが、これは、パウロが言っている「神の見えない性質」という語句を誤って理解し、その上拡大解釈した結果である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』212ページ)

批判に対する回答
この問題は前出の問題に続くものですが、ここで同氏は、ロマ書1:20の「神の見えない性質」をいかに解釈するかということを問題にしています。

ロマ書1:19、20の、「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」において、「見えない性質」を同氏は神の見えないという性質、すなわち、神の不可視性と解釈して、被造世界を見ても、神の不可視性という性質が分かるだけであって、まさにこの神の不可視性こそが神の永遠の力と神性なのだと主張しています。

ここで、まずいえることは、もし、このような和賀氏の主張を認めたとしても、結局、パウロは、神の不可視性にしろ、被造物を通して神の神性と能力が理解できると言っていることになり、パウロも自然界を通して神を知るという一般啓示を認めていることになります。しかし、この聖句をよく読んでみると、和賀氏が言うように単に神の不可視性だけを問題にしているとは思えません。

ここにおいて「目に見えない性質」というこの聖句の解釈が問題となってきますが、『新聖書注解』(いのちのことば社刊、1977年、新約)はこの聖句について次のように釈義を加えています。

「(目に見えない本性)は、“神の目に見えないということ”不可視性とも読める言葉であるが(山本泰次郎)、やはり、人間の肉的な存在や本質とは根本的に違う神の聖なる本質のことであると理解するのが良い。神の聖なる本質、〈すなわち、神の永遠の力と神性〉は、神の被造物である自然においてはっきりと認識することが出来る。

すなわち、パストゥールの告白のように自然を通じて、またカントのことばのように人間の良心によって、神の聖なる存在と偉大な力を知ることができるのである。つまり、人間は、自己の肉的感覚によってではなく、神の自然啓示において神を知ることができる。したがって、人間には全く弁解の余地がない。〈知られ〉(ギノウーメナ)は知的に、〈認められる〉(カソラータイ)は感覚的に、それぞれ認識することであり、人間があらゆる意味において神を認めることができるように、神は自らを明らかにあらわしておられる。知的にまた感覚的に認識できるということは、イデオー(直観的認識)ではなく、あくまで神のかたちにつくられた人間としての倫理的、霊的認識のことである。

さて、そのように神が自らをはっきりと啓示されたのは、人間が神に対して言いのがれをすることのできないためである」
また同書のロマ書1:19の注解には「人間は、神につくられた者として、神に関して正しい知識を持ち、神との正しい関係と心からの感謝を持たなければならない。〈神について知りうること〉(ト・グノーストン・トウーヤワー)とは、神について知ることのできることではなく、神について知られていることである(J・ノックス)。

すなわち、神にかかわる客観的な知識であり、それはすべての人間に明らかにされている。なぜなら神ご自身がそれを人間に明らかに示しておられるからである。それは自然啓示においてであり、生物学者パストゥールは、“この美しい自然と生物の研究は、私にとって自然をつくりあげた全知の創造者の存在を知る道であった”とあります。以上から見てもパウロは一般啓示(自然啓示)を認めていたと解釈するのが妥当と思われます。その他、高柳伊三郎氏も『新約聖書略解』(日本基督教団出版局刊、399ページ)において「パウロは今日の神学でいう『自然神学』あるいは『一般啓示』を認めているようである」と述べています。

また、私たちは聖書を見る時、次のような聖句に出会います。例えば詩篇19篇1節「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」とか、97篇6節「もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た」など。ここに見られるような神の一般啓示の思想をパウロも継承していたといえるでしょう。

和賀氏の考え方はバルトの『ロマ書講解』に基づいていますが、バルトは自然神学を一切認めないことで有名で、それゆえ、「神の不可視性」などと、無理な解釈を試みています。しかし、このような考え方がキリスト教会の全体を代表する考えとはいえません。したがって、和賀氏の指摘もまた、十分客観性をもつものとはいえません。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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『原理講論』はキリスト教の神と易学の太極を同一視?

浅見定雄氏の批判
神が陽性と陰性を持つという教えの背後に、韓国の通俗的陰陽五行説、日本の陰陽道がある。「陰陽の中和的主体である太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものである云々」、「陽陰が即ち『み言』であるという易学の主張は妥当である」という『講論』の箇所がそれを示している。『講論』は、「キリスト教の〈神〉と易学の〈太極〉、否〈陰陽〉そのものを、まったく同一視している」(浅見定雄『統一協会=原理運動―その見極め方と対策』206~207ページ)。

原理講論
原理講論

批判に対する回答
ここでも浅見氏は、『講論』の論旨を正しく伝えず、また、自分かってに〈まったく〉などという言葉を付け足して故意に文章の意味を曲げ、読者に誤った『講論』のイメージを与えようとしている。『講論』では、キリスト教の「神」と易学の「太極」とを〈まったく〉同一視しているわけではない。〈それに当たるものだ〉と言っているのである。

『講論』は、浅見氏が引用している部分の後、次のように言っている。「しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。

したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである」(『講論』49ページ)。すなわち『講論』の「太極は二性性相の中和的主体である神を表示したものである」という記述は、〈太極は二性性相の中和的主体である神の陽陰の中和的主体という内容のみを表示したものである〉と解釈されるべきなのである。

「陰陽」「み言」に関する問題も同じである。『講論』では、「陰陽が、すなわち〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(49ページ)と記されている。この〈み言〉というのは、前後の文意からして「一陰一陽之謂道、道也者言也」という易経に記されている〈言〉を指すものであるのに、浅見氏は、「陰陽が、即ち(聖書のヨハネ福音書のいう)〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(『対策』207ページ)と文意を取り違えた上、それをかっこにして注意書きまでしている。
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ここでも『講論』は易学の〈言〉は、聖書のヨハネ福音書の〈言〉と同じであると短絡的に考えているわけではなく、それに当たるものだと言っているのである。

ところで、これらのことをもって浅見氏は鬼の首を取ったかのように、「統一原理」はキリスト教ではないなどと主張しているが、事実は反対である。これらのことは、「統一原理」がユダヤ・キリスト教思想の流れの上に立ちながらも、東洋思想の受容できる優れた神学を有していることを示すものであり、むしろアジアにおけるこれまでのキリスト教が、東洋という視座に立って神学の見直しをしてこなかったところに問題がある、と言うべきであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

統一教会は心身障碍者を「先祖の因縁」と蔑視?

先祖s浅見定雄氏の批判
統一教会は、心身障害者を受け入れない。受け入れないどころか、彼らを、前世の因縁が悪いとか悪霊がついているからだと言って蔑視している。これは、聖書の教え(キリスト教)とは真反対の教えである。ヨハネ福音書第9章には、はっきりと盲人であるのは本人の罪でも、親の罪でもないと書かれている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』11ページ)。

批判に対する回答
統一教会が心身障害者を信徒として受け入れないなどという方針はどこにも存在しない。「統一原理」の内容を理解し、受け入れることのできる者は誰でも信徒になれる。実際、統一教会の職員の中には身体障害者もいる。ただし、教会の業務に専従するためには、それに相応する心身の健康が要求されることは当然である。このことは、カトリック、プロテスタントを問わずどこの教会でも同じことであろう。

心身障害者になった原因という問題であるが、「統一原理」はすべての物事の原因には内的側面と外的側面のあることを主張する。外的側面というのは地上界からのものであり、内的側面とはそれを超えた霊的側面からのものである。内的側面の中には神からの直接的なものをはじめ、先祖の霊を含めたいわゆる霊界(天界)の霊人からの影響も含まれる――出エジプト記20章5節参照。ただし、浅見氏が言うような〈前世〉すなわち〈輪廻転生思想〉は「統一原理」にはない――。

ところで浅見氏の言うヨハネ9章の解釈の問題であるが、イエスの「神のみわざがあらわれるために」と言う言葉は、そのときの状況を十分考慮しつつ解釈されるべきである。イエスがここで意図したことは、“病気や一切の不幸が先祖や本人の犯した罪と全く関係がない″といった普遍な真理を表明することにあったのではなく、弟子たちが、その盲人に関する罪の原因の所在をあれこれ考えていたときに、“今、大事なことはそういうことではない。人間は皆等しく罪人であって、その意味ではこの盲人も他の者もなんら変わるところがない。大切なのは眼の前にいるメシヤをメシヤと認めて、一日も早く救いに入れられることなのだ”ということにあったといえる。

この部分については『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社)も次のように言っている「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の受難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(487ページ)。

すなわち、この場合、見当はずれの質問に対して解答が避けられ、それをきっかけにして新しい別のメッセージが語られているのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

神のかたちとは、人間特有の理性、人格、道徳性のことであって、男と女のことではない?

アダムとエバ 神のかたちsQ:「『統一原理』は東洋哲学でいう陽陰が神の属性であることを裏付けようとして、創世記1章27節の『神のかたちに創造し、男と女とに創造された』を『神の陽陰の二性性相が分立実体として展開されたのが、男と女である』と解釈しているが、“男と女に創造した”は、次の28節に“生めよ、ふえよ”とあるように繁殖のためであって、“神のかたち”とは、人間が動物とは異なった理性的、人格的、道徳的存在であることを示しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:「統一原理」は、“神のかたち”に理性的、人格的、道徳的存在としての内容が含まれることを決して否定するものではありません。むしろそれらは、性形の二性性相として陽陰の二性性相と比べ、より本質的なものであるとしています。一般的に、東洋哲学(易学)は陽陰を強調し、西洋哲学(キリスト教)は性形を強調しています。

したがってキリスト教はどうしても、“神のかたち”を人間一個人における内容としてしか見ない傾向が強いのです。しかし「統一原理」は、“男と女に創造された”こと自体に、はっきりと“神のかたち”が現れていると見ます。

バプテスト、カルヴァン系で保守派の神学者の一人であるヘンリー・シーセンは、“神のかたち”として精神的、道徳的性質の他に社会的性質の類似性を挙げており、その“交わり”の基本が正にアダムとエバにおける夫婦としての交わりであり、しかもその交わりの原型は正に神の三位一体性に由来していると述べています(『組織神学』366ページ)。

ところでキリスト教の三位一体、すなわち“父と子と聖霊”という概念は、『原理講論』の示す神の三相、すなわち“中和的主体”(神)、“神の男性性相”(イエス)、“神の女性性相”(聖霊)という概念と相通ずるものがあるといえます。したがって“三位一体性に由来する”とは、言い換えれば“神自体内の陽陰の二性性相に由来する”ということにもなりましょう。

新正統主義の代表的神学者K・バルトは、このことを次のように説明しています。「人間における神の像とは、人間が男と女とに造られたことを言い、それは神自身の本性の中で起こる共同と共存の関係すなわち三位一体という原型的関係を模写し繰返したものにほかならない」(『キリスト教大辞典』226ページ)。

さらに『新聖書註解』でも、同様に「K・バルトはボンヘッファーなどの考え方に従い、男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する。神性には「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場が内在している。人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある……。神のかたちとは人間同士の相互関係であり、個人としての人間そのものは神のかたちではない」(旧約1 いのちのことば社 81ページ)と記されています。このように“男と女に創造された”ことを“神のかたち”と解釈することは何ら非キリスト教的見解ではないといえましょう。(広義昭『聖句Q&A』より)