自然を観察すれば神様が分かるって本当? ②

地球 万物s和賀真也氏の批判

『原理講論』は自然界の中から神を知ろうとしているが、イエス・キリストこそ神を現わした方である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』209ページ)

批判に対する回答
ここで和賀氏が問題にしているのは、すなわち、自然を通して神の本質を知るよりは、イエスを通して知るべきだということです。しかし、こういう見解は数多くのキリスト教神学の中の一つの立場(根本主義)に固執した解釈で、歴史的な神学的課題である啓示と理性、啓示神学と自然神学という問題について、十分配慮されているとはいえません。

もちろん、私たちは、理性や自然界だけで神を十分に認識できるとは考えていません。堕落した人間が罪に陥っているゆえに、罪なき人(キリスト)を通してでなければ人間の側から一方的に神のすべてを知ることはできないことを私たちも認めます。

しかし、私たちは決して、キリストを通して示されるものだけが神の啓示だとは考えません。神はイエス・キリストによる啓示以前に預言者、祭司、知者を介して様々な方法で啓示されました。『新聖書大辞典』(キリスト新聞社1977年、454ページ)によれば、外面的方法として、夢(創37、40、41章、土師7:13、列王上3:5他)、しるし(士師6:36、列王下20:8他)、くじ(ヨシュア7:16、サムエル上10:20)などや、内面的手段として幻(アモス7~9章、イザヤ6章、エゼキエル37章他)、神の霊(エゼキエル、第ニイザヤ)などが挙げられます。また、パウロはロマ1:18、2:14、使14:17、17:27においてキリストによる啓示以外の一般的啓示を認めています。有名なスイスの神学者E・ブルンナーもロマ1:20に基づいて、神の創造における啓示を認めようとしました。

以上のような観点から、『原理講論』は自然界からも神の存在を知ろうとしているのですが、啓示という概念は重要な問題ですから、ここで、もう少しつっこんで考えておきたいと思います。

啓示とは、神の自己開示ということができますが、それには、①神がキリストの全存在を通して啓示されるもの、②人間の本心に語りかけられるもの、③自然界や被造世界に反映されるもの、などが考えられます。

しかし、人間の本性や神認識についての見解の相異によって様々な神学的見解が示されています。まず、カール・バルトのようにキリスト論的見方に基づき、①のみを啓示として認めるが、人間の神認識における理性は罪によって死んでおり、神を自然理性によって知ることはできないとして、②、③を啓示として認めない立場があります。

第二に、トマス神学は人間の神認識における理性は、病弱ではあるが、ある程度理性によって神を認識できるとして、①のほかに②③を認めます。また、トマス神学に準ずるルター派と改革派の古プロテスタント神学は、①を特殊的啓示あるいは超自然的啓示、③を一般的啓示あるいは自然的啓示と呼び認めました。

第三に、シュライエルマッハやキリスト教神秘主義は、①を特殊的啓示、②を一般的啓示とする立場を取ります。
このほかに、E・ブルンナーのように①の啓示のほかに②一般啓示、③創造の啓示とする考えや、アルトハウスの②を原啓示などとする考え方があります。

さて、私たちの考えは、バルトのようなキリスト論集中的な考え方はしません。私たちは、キリストに現れた神の特殊啓示①を中心として、ブルンナー流にいえば一般啓示②も創造の啓示③をも認めます。そして、一般啓示や創造の啓示は特殊啓示と矛盾するものではなく補完するものだと考えます。したがって、私たちは自然界を通しても部分的に神を知ることができると考えるわけです。和賀氏のような主張はキリスト教のすべてを代表しているとはいえません。

なお、『原理講論』の「創造原理」には、特に、キリスト論的視点からの言及のないのには別の理由があります。普通、キリスト教の教義学では、人間の堕罪以前の問題(創造の秩序に関する問題)と以後の問題(救済の秩序に関する問題)が、同時に論じられています。例えば、教義学において、初めに出てくる神論の中で既に救済の秩序に関するキリストや聖霊を含めた三位一体論が論じられ、また、次に出てくる人間論では人間の創造本然性と共に人間の罪の問題も論じられているという状況です。

しかし、『原理講論』では、それらが明確に区別せられ論じられています。例えば、「創造原理」では人間の堕落以前の創造の秩序に関する問題のみが論じられており、次の「堕落論」において人間の堕罪の問題が取り上げられています。そして、キリスト論を含めた救済に関する問題は、それ以後において出てきます。

このように『原理講論』のもっている表現形式は、神の真理を順序立てて理解するための優れた独特の形態をもっています。

このような理由で、「創造原理」の項目では、キリスト論的視点からの言及はなされていないわけです。それに対して、和賀氏はこのような『原理講論』の全体をよく理解しないで「キリストという言葉を完全に締め出している」などと感情的発言を繰り返していますが、何事に対しても、もっと広い視野から、公正で建設的な判断をしていただきたいものです。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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『原理講論』のロマ1:20の「神の見えない性質」の解釈は間違ってる?

地球 虫眼鏡 観察s和賀真也氏の批判
『原理講論』では、ロマ書1章20節を引用し、自然界から神を知ろうとしているが、これは、パウロが言っている「神の見えない性質」という語句を誤って理解し、その上拡大解釈した結果である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』212ページ)

批判に対する回答
この問題は前出の問題に続くものですが、ここで同氏は、ロマ書1:20の「神の見えない性質」をいかに解釈するかということを問題にしています。

ロマ書1:19、20の、「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」において、「見えない性質」を同氏は神の見えないという性質、すなわち、神の不可視性と解釈して、被造世界を見ても、神の不可視性という性質が分かるだけであって、まさにこの神の不可視性こそが神の永遠の力と神性なのだと主張しています。

ここで、まずいえることは、もし、このような和賀氏の主張を認めたとしても、結局、パウロは、神の不可視性にしろ、被造物を通して神の神性と能力が理解できると言っていることになり、パウロも自然界を通して神を知るという一般啓示を認めていることになります。しかし、この聖句をよく読んでみると、和賀氏が言うように単に神の不可視性だけを問題にしているとは思えません。

ここにおいて「目に見えない性質」というこの聖句の解釈が問題となってきますが、『新聖書注解』(いのちのことば社刊、1977年、新約)はこの聖句について次のように釈義を加えています。

「(目に見えない本性)は、“神の目に見えないということ”不可視性とも読める言葉であるが(山本泰次郎)、やはり、人間の肉的な存在や本質とは根本的に違う神の聖なる本質のことであると理解するのが良い。神の聖なる本質、〈すなわち、神の永遠の力と神性〉は、神の被造物である自然においてはっきりと認識することが出来る。

すなわち、パストゥールの告白のように自然を通じて、またカントのことばのように人間の良心によって、神の聖なる存在と偉大な力を知ることができるのである。つまり、人間は、自己の肉的感覚によってではなく、神の自然啓示において神を知ることができる。したがって、人間には全く弁解の余地がない。〈知られ〉(ギノウーメナ)は知的に、〈認められる〉(カソラータイ)は感覚的に、それぞれ認識することであり、人間があらゆる意味において神を認めることができるように、神は自らを明らかにあらわしておられる。知的にまた感覚的に認識できるということは、イデオー(直観的認識)ではなく、あくまで神のかたちにつくられた人間としての倫理的、霊的認識のことである。

さて、そのように神が自らをはっきりと啓示されたのは、人間が神に対して言いのがれをすることのできないためである」
また同書のロマ書1:19の注解には「人間は、神につくられた者として、神に関して正しい知識を持ち、神との正しい関係と心からの感謝を持たなければならない。〈神について知りうること〉(ト・グノーストン・トウーヤワー)とは、神について知ることのできることではなく、神について知られていることである(J・ノックス)。

すなわち、神にかかわる客観的な知識であり、それはすべての人間に明らかにされている。なぜなら神ご自身がそれを人間に明らかに示しておられるからである。それは自然啓示においてであり、生物学者パストゥールは、“この美しい自然と生物の研究は、私にとって自然をつくりあげた全知の創造者の存在を知る道であった”とあります。以上から見てもパウロは一般啓示(自然啓示)を認めていたと解釈するのが妥当と思われます。その他、高柳伊三郎氏も『新約聖書略解』(日本基督教団出版局刊、399ページ)において「パウロは今日の神学でいう『自然神学』あるいは『一般啓示』を認めているようである」と述べています。

また、私たちは聖書を見る時、次のような聖句に出会います。例えば詩篇19篇1節「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」とか、97篇6節「もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た」など。ここに見られるような神の一般啓示の思想をパウロも継承していたといえるでしょう。

和賀氏の考え方はバルトの『ロマ書講解』に基づいていますが、バルトは自然神学を一切認めないことで有名で、それゆえ、「神の不可視性」などと、無理な解釈を試みています。しかし、このような考え方がキリスト教会の全体を代表する考えとはいえません。したがって、和賀氏の指摘もまた、十分客観性をもつものとはいえません。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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