イエス・処女降誕否定の根拠は?

処女降臨 マリア イエスs:「統一教会はイエスの処女降誕を否定しているが、イザヤ書7章14節にははっきりと『見よ、おとめ(a virgin)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』と預言されている」という意見がありますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、三位一体やイエスの肉体復活と並び、保守的なクリスチャンにとってはイエス・キリストの神性(無原罪)を裏付けるものとして絶対に譲れない中心的教理の一つではありますが、今日この“処女降誕説”に疑問をはさむ神学者は決して少なくありません。その問題となっている点をいくつか挙げてみましょう。

一つは処女降誕の根拠となるイザヤ書7章14節は確かに七十人訳(ギリシャ語)では“処女”(a virgin)となっていますが、ヘブル原典では単に、“おとめ”(a young girl)となっており、必ずしも処女を意味しないということ。この点については日本基督教団の『旧約聖書略解』は、「イエスの奇跡的誕生との関連において、マタイ福音書の著者がイザヤ書7:14を奇跡的に解釈するのは当然であるが、イザヤ自身はこの聖句にそのような意味をもたしていないことは、これがスリヤ・エフライム戦争においてアハズ王に語られた神の言葉であることからも理解しうる。「おとめ」と訳されているヘブル語は「結婚適齢の若い女」をさし、処女であっても、既婚の女であってもよい」(667ページ)と述べています。ハルナックもその著『History of Dogma』の中で「処女降誕の観念は旧約聖書の誤訳による」と説明しています。

第二はこの聖句は、直接にはイエスの誕生を指していないという点です。この点についてさらに『旧約聖書略解』(前掲書)は「……それで、この預言の『おとめ』とは誰のことであろうか。……アハズ王に『しるし』となるのであるから、王の知っている若い女のことでなければならない。王の后か、預言者の妻かであろう。ヘブル語では、『彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』となっているが、七十人訳以外の有力なギリシャ語訳旧約聖書は『あなた(アハズ王)は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』と訳している。ゆえにこの『おとめ』は王の后となる女であると解釈する註解者もいる……当時流布していた救世主の誕生の待望との関係から、メシヤをさしているのだとする見解(は)妥当ではない」(667ページ)と述べています。すなわち、この預言はイザヤの時代に関するものであるというのです。

新改訳のイザヤ書7章14節の注にも「イザヤ時代に生まれて来る男の子のことが念頭におかれている」と書かれています。

第三は処女懐胎の物語は福音書のマタイとルカの初めの章だけで扱われており、マルコ、ヨハネ、パウロなどはこれに言及していない点。これは必須の重要教理でないことを示しているともいえます。

第四は処女懐胎がメシヤの「無原罪誕生」の根拠とされているが、それは古代世界においては、子供をつくるのは男性のみであり、女性はただ子供を宿すにすぎないと信じられていたからで、今日の科学は、両親が共に子供の肉体および精神の構造を決定することを証明している。したがってイエスから父親を取り除いても、イエスを原罪のない存在とすることにはならない。
以上の点を挙げることができます。(広義昭『聖句Q&A』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)

聖霊は女性神?

HOLYSPIRIT_16:「『統一原理』では、聖霊を女性神としているが、ヨハネによる福音書14章16節などに出てくる“助け主”と訳されている言葉は、ギリシャ語で“ホ・パラクレイトス”という。『ホ』という男性単数主格を表す冠詞で明らかなように、聖霊は男性格である。したがって、聖霊が女性だというのは聖書的見解ではない」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、聖霊なる存在が聖書においては、“主の霊”とか“神の霊”とか“み霊”などといろいろなかたちで呼ばれ、その働きも実に多様に表現されており、それが『原理講論』の重生論における聖霊とは必ずしも同じものを意味していないため、説明に若干の困難を要します。

結論から言って聖書全体における聖霊とは、広義の意味においては、人類の救済と新生のために個人と歴史に働く一切の神の霊的活動を意味します。その意味では、質問の指摘のように聖霊は必ずしも母性的働きのみに限定することはできないことを「統一原理」は認めます。

しかし、聖霊を女性格と見ることは決して不当なことではなく、初期のクリスチャンたちの多くが、聖霊を女性的存在として見ていた証拠がいくつも残っています。

そもそも、霊を意味するヘブライ語は“ルーアッハー”(ruach)という女性名詞が使われています。〈新約聖書によく見られる“プニューマ”(pneuma)というギリシヤ語は中性名詞となっています〉。さらに旧約聖書において、神の知恵(hokmah――ヘブル語原典では女性名詞)は女性の霊として描かれています(箴8、9)。その他、聖霊の働きは慰労と感動を与え人間の心をイエスに導く(コリントⅠ12:3)といった女性的働きを有していることが明らかです。

使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエスが「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
また、初期のシリア、もしくはエジプトのクリスチャンたちの産物である『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文が載っています。『マニの福音書』(The Gospel of Mani)には、父なる神の権能と母の祝福、および、子の善を讃える三位一体論の頌栄が見いだされますが、恐らくこれはマニ教徒たちが、その当時のあるクリスチャンの団体から学んだものであろうと考えられています。(統一神学より)このようにイエスの復活以後における聖霊の働き(狭義の聖霊)を女性神ととらえることは、決して非聖書的結論ではないといえましょう。(『聖句Q&A』より)

「イエスの復活」って?

イエス 復活 霊人体 使徒s:「統一原理」によれば、イエスの復活は霊的なものであったというわけですが、ルカによる福音書24章39節から43節の「わたしの手や足を見なさい。……霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」という言葉や、「イエスはそれを取ってみんなの前で(焼いた魚の一切れを)食べられた」という記事は、イエスの肉体復活を支持しているかのように思われますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:まず初めに、イエスの復活が霊的だったと思われるいくつかの根拠を挙げてみましょう。第一は、復活後のイエスの体は普通の肉体とは異なっていたという点です。“閉めきった部屋に、突然現れる”(ヨハネ20:19)、“道を歩いていた弟子への超自然的顕現”(ルカ24:15~31)等。

第二は、福音書よりも以前に書かれたパウロ書簡の中に、不思議にもイエスの肉体復活についてほとんど記されていないということです。その中でもコリント人への第一の手紙15章3節から8節が、復活に関する最古の伝承とされていますが、ここでパウロは、イエスが復活後、地上の人々に次々と現れた事実を述べています。初めはペテロに、次に十二弟子、500人の兄弟、ヤコブ、すべての使徒、そして最後にパウロにも現れたというものですが、この聖句に関しドイツの新約学者キュンメルは、次のように述べています。(要点のみ)

「パウロがここで、復活のイエスの目撃者を列挙する意図は、彼ら(弟子たち)と同じ復活のイエスと出会ったことを主張することによって、自分も使徒の資格があることを示そうとするところにある。ところでパウロのイエスとの出会いは、クリスチャン迫害のためダマスコヘ行く途上での、明らかな霊的出会いである(使9:1~9)。したがって、もし“パウロの出会い”と“弟子たちの出会い”が全く異なったものであったとしたならば、このパウロの主張に、異議を申し立てることのできた多くの人々が、まだ生きていたはずである」。

さらにキュンメルは、「今日、復活証人の目撃が“幻視”という学術用語で言い表されるのは、おそらく的確な仮説と思われる」(『新約聖書概論』日基、147ページ)と述べています。

さて問題の聖句ですが、ルカによる福音書24章40節の“手足を見せた”は、米国改訂標準訳や新改訳聖書では削除されており、一般に後世の加筆とされています。43節の“魚を食べた”も、ユノビオン(前で)アオトン(これを)エファゲン(イエスは食べた)は用語上、ルカの編集句とされているので、編集者(ルカ)の加筆と思われている部分です。36節から39節の“霊には肉や骨はないが″の部分は、他の福音書のイエスの海上歩行物語と全く同じ形式であり、ルカが海上歩行物語を採用しなかった代わりに、これを復活物語に組み込んだものと考えられている部分です。

一般的に、イエスの肉体を強調する聖句は、当時、“イエスは肉体をもってこられたはずはない”とする異端(仮現説)に対抗しようとして、その弁証の弾みから生じたものと考えられています。(『聖句Q&A』より)

ユダの手紙6節以下は天使の淫行堕落説の根拠にはならない?

SATAN_37浅見定雄氏の批判
ユダ6、7の「御使いたち」は複数であって堕落した天使長ルーシェルを指しているのではない。さらに「不自然な肉欲」とはソドムの男色、つまり、同性愛のことであってエバとルーシェルのような異性との性関係ではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』18ページ)。

批判に対する回答
確かにこの聖句は、直接ルーシェル天使長に関するものではない。『講論』も、この部分のみをもってルーシェルが淫行により堕落したのだと結論しているわけではない。しかし、ここでの「御使いたち」の堕落の原因が、「淫行」にあったということは、ルーシェルの堕落もまた淫行にあったと言うことを理解するのに大いに力(傍証)となるものである。

ところで、「不自然な肉欲」が同性愛だということであるが、ここでも浅見氏の“浅学”ぶりが遺憾なく発揮されている。

まずこの部分(ユダ6、7)は、外典エノク書からの引用であることが認められている。例えば、『新約聖書略解』は次のように解説している「後期ユダヤ教の著名な物語となっている天使の不倫をさす。地位を守ろうとはせず(エノク書15:7、そのおるべきところを捨て去った御使(同書12:4、10:4~6、10:11~12、54:3~5)。本来の権威ある身分と高い天のすまいを捨て人間の娘のところにはいり、淫行を犯した天使が……」(日本基督教団出版局760ページ)。

また、この部分については『フランシスコ会訳聖書』は、次のように注解している「本節は、創6:1~4の背景、すなわち、人間の娘をめとって堕落した天使のことを物語る神話に言及したものであろう。この話しは、外典エノク10:11~15、12:4、15:4~9、19:1に詳しく述べられている。本節に関するこの解釈は、次節の〈かれらと同じく〉という句からもうなずける。……“不自然な肉欲”は直訳では“異なった肉”。堕落した天使が人間の女を求めたように、ソドムの人々もその町を訪れた二位の天使をおかそうとした(創19:5、なお、外典アセルの遺訓7:1参照)。この堕落した天使たちの罪とソドムの人々の罪は、外典ナフタリの遺訓3:4~5でも関係づけられている」(147ページ)。

すなわち、ここで、ユダ書が言わんとしていることは、エノク書にある〈人間と天使〉と言うような「不自然な肉欲」と同じように、ソドムの人たちも〈人間と天使〉(創19:5)というような「不自然な肉欲」に走ったということなのである。

以上、浅見氏は、『仮面』の中でいかにもすべてを知っているかのように「ソドミー」などという言葉まで出してきているが、ここでの「不自然な肉欲」とは、同氏の言うような「同性愛」を意味しているのでなく、明らかに〈天使と人間〉との関係を意味しているものである。

したがって、この聖句は、ルーシェル天使長とエバの淫行関係という問題に関して、十分傍証としての意味を持つものである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)