反対牧師諸君へ- 統一神学博士からの手紙

クリスチャン・フィッシュ
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救い主)の頭文字を並べたもの

統一教会信者に対する拉致監禁・強制改宗に携わっている牧師たちは、統一教会の信仰が「異端」であるということをその活動の動機としています。とりわけ「福音派」と呼ばれる、聖書を文字どおりに解釈する教派の牧師たちは、統一教会がキリスト教を名乗りながらも聖書をでたらめに解釈して人々を惑わすので、その信者に「正しいキリスト教」を教えてあげることが救いであると信じて疑いません。

そのため、彼らは監禁の現場で自らが寄って立つ福音派の神学に基づいて統一教会の教えである「統一原理」を批判し、信者の信仰を破壊しようと試みます。神学に対する専門的な知識を持たない一般の信者たちは、こうした牧師たちによる統一原理批判に対して答えられないばかりか、外部との接触を完全に遮断され、長期監禁・説得をうけるという異常な環境下のもので、彼らの教えこそ「正しいキリスト教」であり、統一原理はでたらめであると思い込まされて信仰を失ってしまう場合が少なくありません。

しかし、キリスト教神学に対する広範な知識があれば、こうした批判が的外れなものであったり、非常に偏った立場からの批判であることが分かり、逆に福音派の神学との比較を通して統一原理の神学としての真価が再認識されるのです。

このたび、キリスト教神学を専門的に学ばれ、米国ニューヨーク州にある統一神学大学院で神学を講じている神明忠昭博士が、主に福音派の反対牧師による統一教会批判の代表的な12項目に対して答えながら、福音派の神学の限界と統一原理の価値を明らかにする論文を特別に寄稿してくださいました。

この論文を通して、反対牧師の説得によって統一教会を去った兄弟姉妹の皆さま、監禁から生還したものの統一原理に対する疑問を抱いている信者の皆さま、そうした信者たちを信仰指導する牧会者の皆さま、そして広く一般の皆さまに、統一原理のもつ神学的な価値を再認識していただければ幸いです。

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目次


神明忠昭プロフィール

1944年福島県生まれ。1971年東京大学工学部原子力工学科卒業。73年統一教会宣教師として渡米。77年アメリカ統一神学校卒業。84年ドゥルー大学 (Drew University) 大学院卒業でキリスト教神学博士号 (Ph.D.) 取得。その後、統一神学校神学教授職を経て、94年から2000年まで当校の総長として奉職。2000年以降、世界平和超宗教超国家連合 (IIFWP) および天宙平和連合 (UPF) 国際本部主任研究員。アメリカ宗教学会 (AAR) 会員。北米カール・バルト学会 (Karl Barth Society of North America) 会員。専門分野は教父神学、カトリック神学、現代プロテスタント神学、および組織神学。特に、アウグスティヌス神学とホワイトヘッド哲学に造詣が深い。著書『統一主義における探究』等、多数。学術論文出版多数。66年9月統一教会入教。777双祝福家庭。

自然を観察すれば神様が分かるって本当?①

地球 虫眼鏡 観察s浅見定雄氏の批判

『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。

批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。

かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。

ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)

CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える

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人類歴史をたった6000年と見なしている?

日と月s浅見定雄氏の批判
人類歴史をたった6000年のことと見なしている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
『講論』で扱われている人類歴史六千年という数字は、あくまでも聖書の記述を中心とした摂理的数字であって、象徴的なものであり史実とは異なるものである。参考のため、以下に『講論』の思想的展開である『統一思想教材』(統一思想研究院)から一文を引用しておきたい「人類始祖出現六千年説には必ずしも固執しない。六千は六数に摂理的な意味があるのであり、実際には数万年以上あると見る」(208ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」という呼び名は統一教会だけ?

PEOPLE_61浅見定雄氏の批判
イザヤ14 :12の「明けの明星」を統一教会は「ルーシェル」と呼んでいるが、「ルーシェル」などという単語は世界中のどの言語にもない。統一教会だけの隠語である。これはたぶん、英語のLucifer(ルーシファ)の聞きちがいから生じたのである。ciを「シェ」などと発音するのも幼稚だし、fの音を落とすに至っては欧米語の音韻を知らない証拠だ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』16ページ)。

批判に対する回答
統一教会ではサタンのことを「ルーシェル」と呼んでいるが、これは英語のLucifer「ルーシファ」の韓国語なまりからきたものである。もともと英語の「ルーシファ」は、ラテン語の「ルキフェル」からきたものであり、これ自体もなまったものである。ちなみにドイツ語では「ルチフェル」となる。

もともと外国語の発音をその国の言葉で忠実に表現しようとすること自体不可能なことである。それを原音に忠実でないから〈幼稚〉だなどといって騒ぐこと自体きわめて幼稚だと言わざるをえない。

なお、『講論』の日本語訳は「ルーシェル」であるが、韓国語では「누시엘=ヌシエル」(韓国語では語頭にくるㄹ音〈R〉はㄴ音〈N〉に変わる)であり、英語訳は〈Lucifer〉、ドイツ語訳は〈Luzifer〉、イタリア語訳は〈Lucifero〉となっており、それぞれ、その国の言語の事情から一様ではない。したがって、浅見氏の言うように〈ルーシェル〉は統一教会だけの隠語だなどというようなものでも何でもない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

自然を観察すれば神様が分かるって本当? ②

地球 万物s和賀真也氏の批判

『原理講論』は自然界の中から神を知ろうとしているが、イエス・キリストこそ神を現わした方である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』209ページ)

批判に対する回答
ここで和賀氏が問題にしているのは、すなわち、自然を通して神の本質を知るよりは、イエスを通して知るべきだということです。しかし、こういう見解は数多くのキリスト教神学の中の一つの立場(根本主義)に固執した解釈で、歴史的な神学的課題である啓示と理性、啓示神学と自然神学という問題について、十分配慮されているとはいえません。

もちろん、私たちは、理性や自然界だけで神を十分に認識できるとは考えていません。堕落した人間が罪に陥っているゆえに、罪なき人(キリスト)を通してでなければ人間の側から一方的に神のすべてを知ることはできないことを私たちも認めます。

しかし、私たちは決して、キリストを通して示されるものだけが神の啓示だとは考えません。神はイエス・キリストによる啓示以前に預言者、祭司、知者を介して様々な方法で啓示されました。『新聖書大辞典』(キリスト新聞社1977年、454ページ)によれば、外面的方法として、夢(創37、40、41章、土師7:13、列王上3:5他)、しるし(士師6:36、列王下20:8他)、くじ(ヨシュア7:16、サムエル上10:20)などや、内面的手段として幻(アモス7~9章、イザヤ6章、エゼキエル37章他)、神の霊(エゼキエル、第ニイザヤ)などが挙げられます。また、パウロはロマ1:18、2:14、使14:17、17:27においてキリストによる啓示以外の一般的啓示を認めています。有名なスイスの神学者E・ブルンナーもロマ1:20に基づいて、神の創造における啓示を認めようとしました。

以上のような観点から、『原理講論』は自然界からも神の存在を知ろうとしているのですが、啓示という概念は重要な問題ですから、ここで、もう少しつっこんで考えておきたいと思います。

啓示とは、神の自己開示ということができますが、それには、①神がキリストの全存在を通して啓示されるもの、②人間の本心に語りかけられるもの、③自然界や被造世界に反映されるもの、などが考えられます。

しかし、人間の本性や神認識についての見解の相異によって様々な神学的見解が示されています。まず、カール・バルトのようにキリスト論的見方に基づき、①のみを啓示として認めるが、人間の神認識における理性は罪によって死んでおり、神を自然理性によって知ることはできないとして、②、③を啓示として認めない立場があります。

第二に、トマス神学は人間の神認識における理性は、病弱ではあるが、ある程度理性によって神を認識できるとして、①のほかに②③を認めます。また、トマス神学に準ずるルター派と改革派の古プロテスタント神学は、①を特殊的啓示あるいは超自然的啓示、③を一般的啓示あるいは自然的啓示と呼び認めました。

第三に、シュライエルマッハやキリスト教神秘主義は、①を特殊的啓示、②を一般的啓示とする立場を取ります。
このほかに、E・ブルンナーのように①の啓示のほかに②一般啓示、③創造の啓示とする考えや、アルトハウスの②を原啓示などとする考え方があります。

さて、私たちの考えは、バルトのようなキリスト論集中的な考え方はしません。私たちは、キリストに現れた神の特殊啓示①を中心として、ブルンナー流にいえば一般啓示②も創造の啓示③をも認めます。そして、一般啓示や創造の啓示は特殊啓示と矛盾するものではなく補完するものだと考えます。したがって、私たちは自然界を通しても部分的に神を知ることができると考えるわけです。和賀氏のような主張はキリスト教のすべてを代表しているとはいえません。

なお、『原理講論』の「創造原理」には、特に、キリスト論的視点からの言及のないのには別の理由があります。普通、キリスト教の教義学では、人間の堕罪以前の問題(創造の秩序に関する問題)と以後の問題(救済の秩序に関する問題)が、同時に論じられています。例えば、教義学において、初めに出てくる神論の中で既に救済の秩序に関するキリストや聖霊を含めた三位一体論が論じられ、また、次に出てくる人間論では人間の創造本然性と共に人間の罪の問題も論じられているという状況です。

しかし、『原理講論』では、それらが明確に区別せられ論じられています。例えば、「創造原理」では人間の堕落以前の創造の秩序に関する問題のみが論じられており、次の「堕落論」において人間の堕罪の問題が取り上げられています。そして、キリスト論を含めた救済に関する問題は、それ以後において出てきます。

このように『原理講論』のもっている表現形式は、神の真理を順序立てて理解するための優れた独特の形態をもっています。

このような理由で、「創造原理」の項目では、キリスト論的視点からの言及はなされていないわけです。それに対して、和賀氏はこのような『原理講論』の全体をよく理解しないで「キリストという言葉を完全に締め出している」などと感情的発言を繰り返していますが、何事に対しても、もっと広い視野から、公正で建設的な判断をしていただきたいものです。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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アダムの年齢「930歳」やノアの年齢「950歳」を史実としている?

男女 ハテナs浅見定雄氏の批判
アダムの年齢「930歳」やノアの年齢「950歳」をみな史実としている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
この問題も前項の問題(人類歴史をたった6000年のことと見なしている)と同様である。アダムやノアの年齢も摂理的意味をもって象徴的に書かれているものであって、『講論』は彼らの年齢を史実とみなしていない。ところで、このように表現されてきた背景をいかに考えるべきか、以下に若干の考察を加えておきたい。

この種の年齢の問題に関しては、これまでにも、①ここで記載されている名前は個人のものではなく、世襲の家名であろう(例えば王朝のごときもの)、②ここでの1年は現在の12ケ月の1年よりもずっと短かったのではないか、③一般に太古の年表は文字どおりではなく象徴的数字で記載されていた、など様々な意見が出されてきたが、一般的に難解なところとされている。これについては『聖書の考古学』も、(この驚くべき年数の原因と意味は、……解き得ぬ謎として残っている」(講談社14ページ)としている。しかしながら、われわれに参考になると思われるのは、前述③項にも関係するが、これらの物語成立の背景をなすオリエント地方の神話に関する事柄である。

オリエントを中心とする古代社会の神話のほとんどには、洪水神話が含まれているが、そこでは人類誕生から洪水までの期間を10人の異常に長い寿命の王の名前で説明されている。例えば『聖書ハンドブック』(聖書図書刊行会71ページ)によれば、BC300年頃のバビロニアの歴史家ベロッソスは、マルドゥク神殿の記録保管所の古代記録から調べたものとして、一代で一万年から六万年を統治したとする以下のような十人の王を挙げている〈アロロース→アラパロス→アメロン→アムメノン→メガラロス→ダオノス→ユードラク→アメンプシノス→オチアルテス→クシストロス、そしてクシストロスの時に大洪水が起こった〉。

また、バビロンの南東ニップルで発見された五万枚からなるBC3000年代の粘土板と、ウルの北方の町ラルサで発見されたBC2170年に書かれた角柱(ウェルドの王朝角柱)には以下のような洪水前までの10人の名とその王たちの統治年数が記されていた〈アリュリム(2万8千年)、アラルマール(3万6千年)、エメンルアンナ(4万3千年)、キチュンナ(4万3千年)、エンメンガランナ(2万8千年)、ズムジ(3万6千年)、ジブジアンナ(2万8千年)、エメンズランナ(2万1千年)、ウブルランツム(1万8千年)、ジンスズ(6万4千年)、それから洪水が大地を覆った〉。

これに対して、聖書は創世記5章でアダムからノア(洪水)までの期間を次の10人の長寿の人物で説明している〈アダム(930歳)、セツ(912歳)、エノス(905歳)、カイナン(910歳)、マハラレル(895歳)、ヤレド(962歳)、エノク(365歳)、メトセラ(969歳)、レメク(777歳)、ノア(950歳)〉。

ところで、このような古代オリエントの神話と聖書の記事との類似性については『新聖書注解・旧約1』は次のような見解を紹介している「カスートは、この系図における歴史性の特徴をバビロニア伝承との比較を通して見ている。原初の世代の十人の頭についての伝承は、古代東方の諸国民の間に数多く存在していた。

バビロニア、エジプト、ペルシャ、インドの諸例のうち、よく知られているのがシュメール人の王のリスト、五章(創世記)の系図に最も近いのがバビロニアの王のリストである。後者は、洪水前後のそれぞれ十人の王たちについての伝承である。王たちの治世が一万年から六万年という大きな数字であることでは全く異質。しかしリストの七番目がアダムから七番目の〈エノク〉を思わせる人物、十番目が洪水物語の英雄で、同じ十番目の〈ノア〉に相当する人物であることなど著しい類似点もある」(いのちのことば社、104ページ)。

おそらくこのようなオリエントの各地に存在する類似した神話は、互いに影響を与えながらそれぞれ成立したと考えられる。
アダムからノアまでの十代については、合理的な理解の仕方として、この間の代表的な十人の人物が選ばれ、ある期間(神が啓示すべき意味を持った期間)を満たすため、長寿の年齢が彼らの上に表示されているのだと考えることもできるであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」の存在は聖書の誤訳から生じた俗説?

AG_DE_HV_HL_39浅見定雄氏の批判
「ルーシェル」と言う言葉は、「明けの明星」に当たるヘブル語「ヘーレール」(輝くものの意)の誤訳から生じたものであり、後世のキリスト教で生まれた俗説であって実在するものではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』17ページ)。

批判に対する回答
イザヤ14:12の「明けの明星」は、確かにヘブライ語原典では〈ヘーレール〉であり、その意味は〈輝くもの〉である。しかしながら、この言葉は〈黎明の子〉を意味するヘブライ語〈ベン・シャハル〉と対で使用されているのであるから、単に輝くものを意味しているのではなく、夜明けにおける輝くものであり、結局、明けの明星を意味している。

イザヤ14:12のヘブル語〈ヘーレール〉がラテン語に訳されるとき、ラテン語の〈Lucifer〉(「発光」、「明けの明星」の意)があてられ、それが英訳へと受け継がれてきたと考えられる。これは、誤訳というより意訳というべきものである。以下この部分についてもう少し詳しい考察をしてみたい。

このイザヤ14:12の聖句の背景には当時カナンに伝わっていたウガリット神話があることを学者は指摘している。例えば、『旧約聖書略解』には「カナンに流布されていたウガリット神話から取材したものである。ウガリット神話には夜明け、または、明けの明星の神シャハル〈夜明け〉のことやシャハルの子ヘラル〈明星〉のことが書かれてある」(日本基督教団出版局、675ページ)とあり、また『ATD旧約聖書注解18イザヤ書』には「ウガリットの人々においては、シャカルとシャリム、すなわち夜明けとたそがれの薄明かり、もしくは明けと宵の明星の対の神々の誕生についての典礼的な物語が見出される。……光を放ちつつ現れ出る明けの明星は、立ち昇る太陽の光によって色あせてしまう。カナン人もまた夜明けの薄明かりの神シャカルたる明けの明星が、雲居と星々のはるか上方に住まう至高の神の王座を覆そうと身のほど知らずにも思い上がったことを語っていたと見てよいだろう」(68~69ページ)と述べられている。

このようなことからも、イザヤ14:12におけるヘブル語〈ヘーレール〉は単に〈輝くもの〉の意とするだけでは、文脈からの理解としては不足であって、この言葉は明らかに〈明けの明星〉を意識して使われているといえよう。

ところで、浅見氏によると「ルーシファ」が、「天上から落とされた大天使」とか「サタン」であるという説明は、後のキリスト教で生まれた俗説であり、研究社の『新英和大辞典』では「イザヤ書14:12の誤訳から」となっている、と言うことであるが、ハーバード大学で博士号を取得したという聖書学者が、神学文献の代わりに英和辞典を引き合いに出すとは驚きである。

大辞典であれば権威があるというのであれば、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)では「①天から落ちた傲慢な大天使:Satanと同一視される、②《文語》明けの明星 「morning star」とあり、『WEBSTRE`S NEW UNIVERSAL UNABRIDGED DICTIONARY』(published by New World Dictionerie/Simon & Schaster)という32万語からなる大辞典では、「①the planet venus, when it is the morning star. ②Satan, especially as the leader of revolt of angels before his fall.」とある。

念のため英語の辞書としては世界で最も権威があるといわれる『OXFORD ENGLISH DICTIONARY』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)を見てもだいたい同じ意味の事が書かれている。これらの辞典は研究社の『新英和大辞典』にも引けを取らない大辞典であるが、むしろ『講論』に近い説明が書かれてある。しかしながら、いくら大辞典といえども専門書でないものをもって、われわれは云々するつもりはない。

さて、イザヤ14:12の「明けの明星」が〈天から落とされた大天使〉ないしは〈サタン〉を意味するかどうかという問題については、諸説のあることは事実である。確かに、この聖句は、直接的にはバビロンの王を指していると思われるが、しかし、それを通して、その背後にサタンをも示しているとの理解は、特に福音派の人たちから伝統的に支持されてきた。

例えば、ルネ・パーシュはサタンの起源に関して、「聖書は、多くの詳しい説明を与えていない。しかし、エゼキエル書28章12~27節と、イザヤ書14章12~15節の二個所で、聖書は、ベールの片隅を持ち上げている。預言者はツロとバビロンの王たちを越えて、そこに、これらの人物を自分の道具としている者を見る(イエスがヘテロに〈サタンよ、わたしの後に行け〉と言われたように)」(『再臨』いのちのことば社、182ページ)と述べており、また、『聖書教理ハンドブック』では、「少なくとも二つの聖句が、サタンの本来の性格を示し、彼が天から堕落したことを述べている、①エゼキエル書28章12~19節、……②イザヤ書14章12~15節……」(いのちのことば社、74ページ)と述べられている。

その他、『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)には「ルシファー(明けの明星)の堕落がしるされている。〈明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。……〉この事は、次の主の言葉によってくり返されているのではないだろうか〈わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た〉(ルカ10:18、黙12:7~9と比較せよ)」(74ページ)と述べられている。

なお、『講論』が、サタンの存在や、天使長ルーシェルについて、これほどまでに確言する背景には、聖書における証言のほかに、文師自身が天界で体験してきた啓示的事実――文師自らが神と一問一答し、天界で人間の始祖アダム・エバに会い、サタンと対決しその中で与えられた事実――が存在する。おそらく、多くの人は、すぐさまこのようなことは信じられないであろう。実際、今日、サタンはおろか天使の存在さえ疑問とする人も多いのである。

多くの学者は、〈サタン〉という概念は、中間時代の「ユダヤ思想」において発展してきたものと指摘する。しかしこのことは、サタンの実在性を軽視する理由にはならない。なぜなら、このような“概念の発展”という問題については、ヘブライ人の「神観」についても同様のことがいえるからである。もし神の本質が漸次啓示されてきたと見ることができるならば、〈サタン〉と言う概念についてもそのようなことがいえないことはない。

サタンの実在性については、後期ユダヤ教のラビたち、原始キリスト教における新約聖書の記者たち、そしてそれに続く教父たちをはじめ、多くの伝統的な神学者、ルター、カルヴィンに至るまで、それを強調してきた。しかし、啓蒙主義の時代以降、神学者の間には、サタンや天使の存在を軽視する傾向の出てきたことも事実である。

しかしながら、昨今の複雑な世相を反映して、悪(罪)に対するこのような楽観的(リベラル)傾向に対し、もう一度この世の悪と言うものの背後にある「人格的な力」(サタンの実在性)を見直そうとする動き――例えば、ドイツのヘルムート・ティーリケやスウェーデンのグスターフ・アウレン――の出てきたことは大いに注目すべきことである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

『原理講論』のロマ1:20の「神の見えない性質」の解釈は間違ってる?

地球 虫眼鏡 観察s和賀真也氏の批判
『原理講論』では、ロマ書1章20節を引用し、自然界から神を知ろうとしているが、これは、パウロが言っている「神の見えない性質」という語句を誤って理解し、その上拡大解釈した結果である。(和賀真也『統一協会―その行動と論理』212ページ)

批判に対する回答
この問題は前出の問題に続くものですが、ここで同氏は、ロマ書1:20の「神の見えない性質」をいかに解釈するかということを問題にしています。

ロマ書1:19、20の、「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」において、「見えない性質」を同氏は神の見えないという性質、すなわち、神の不可視性と解釈して、被造世界を見ても、神の不可視性という性質が分かるだけであって、まさにこの神の不可視性こそが神の永遠の力と神性なのだと主張しています。

ここで、まずいえることは、もし、このような和賀氏の主張を認めたとしても、結局、パウロは、神の不可視性にしろ、被造物を通して神の神性と能力が理解できると言っていることになり、パウロも自然界を通して神を知るという一般啓示を認めていることになります。しかし、この聖句をよく読んでみると、和賀氏が言うように単に神の不可視性だけを問題にしているとは思えません。

ここにおいて「目に見えない性質」というこの聖句の解釈が問題となってきますが、『新聖書注解』(いのちのことば社刊、1977年、新約)はこの聖句について次のように釈義を加えています。

「(目に見えない本性)は、“神の目に見えないということ”不可視性とも読める言葉であるが(山本泰次郎)、やはり、人間の肉的な存在や本質とは根本的に違う神の聖なる本質のことであると理解するのが良い。神の聖なる本質、〈すなわち、神の永遠の力と神性〉は、神の被造物である自然においてはっきりと認識することが出来る。

すなわち、パストゥールの告白のように自然を通じて、またカントのことばのように人間の良心によって、神の聖なる存在と偉大な力を知ることができるのである。つまり、人間は、自己の肉的感覚によってではなく、神の自然啓示において神を知ることができる。したがって、人間には全く弁解の余地がない。〈知られ〉(ギノウーメナ)は知的に、〈認められる〉(カソラータイ)は感覚的に、それぞれ認識することであり、人間があらゆる意味において神を認めることができるように、神は自らを明らかにあらわしておられる。知的にまた感覚的に認識できるということは、イデオー(直観的認識)ではなく、あくまで神のかたちにつくられた人間としての倫理的、霊的認識のことである。

さて、そのように神が自らをはっきりと啓示されたのは、人間が神に対して言いのがれをすることのできないためである」
また同書のロマ書1:19の注解には「人間は、神につくられた者として、神に関して正しい知識を持ち、神との正しい関係と心からの感謝を持たなければならない。〈神について知りうること〉(ト・グノーストン・トウーヤワー)とは、神について知ることのできることではなく、神について知られていることである(J・ノックス)。

すなわち、神にかかわる客観的な知識であり、それはすべての人間に明らかにされている。なぜなら神ご自身がそれを人間に明らかに示しておられるからである。それは自然啓示においてであり、生物学者パストゥールは、“この美しい自然と生物の研究は、私にとって自然をつくりあげた全知の創造者の存在を知る道であった”とあります。以上から見てもパウロは一般啓示(自然啓示)を認めていたと解釈するのが妥当と思われます。その他、高柳伊三郎氏も『新約聖書略解』(日本基督教団出版局刊、399ページ)において「パウロは今日の神学でいう『自然神学』あるいは『一般啓示』を認めているようである」と述べています。

また、私たちは聖書を見る時、次のような聖句に出会います。例えば詩篇19篇1節「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」とか、97篇6節「もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た」など。ここに見られるような神の一般啓示の思想をパウロも継承していたといえるでしょう。

和賀氏の考え方はバルトの『ロマ書講解』に基づいていますが、バルトは自然神学を一切認めないことで有名で、それゆえ、「神の不可視性」などと、無理な解釈を試みています。しかし、このような考え方がキリスト教会の全体を代表する考えとはいえません。したがって、和賀氏の指摘もまた、十分客観性をもつものとはいえません。(梅本憲志・迫圉隆繁『統一原理批判に答える:和賀真也氏の批判を斬る』より)

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『原理講論』はキリスト教の神と易学の太極を同一視?

浅見定雄氏の批判
神が陽性と陰性を持つという教えの背後に、韓国の通俗的陰陽五行説、日本の陰陽道がある。「陰陽の中和的主体である太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものである云々」、「陽陰が即ち『み言』であるという易学の主張は妥当である」という『講論』の箇所がそれを示している。『講論』は、「キリスト教の〈神〉と易学の〈太極〉、否〈陰陽〉そのものを、まったく同一視している」(浅見定雄『統一協会=原理運動―その見極め方と対策』206~207ページ)。

原理講論
原理講論

批判に対する回答
ここでも浅見氏は、『講論』の論旨を正しく伝えず、また、自分かってに〈まったく〉などという言葉を付け足して故意に文章の意味を曲げ、読者に誤った『講論』のイメージを与えようとしている。『講論』では、キリスト教の「神」と易学の「太極」とを〈まったく〉同一視しているわけではない。〈それに当たるものだ〉と言っているのである。

『講論』は、浅見氏が引用している部分の後、次のように言っている。「しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。

したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである」(『講論』49ページ)。すなわち『講論』の「太極は二性性相の中和的主体である神を表示したものである」という記述は、〈太極は二性性相の中和的主体である神の陽陰の中和的主体という内容のみを表示したものである〉と解釈されるべきなのである。

「陰陽」「み言」に関する問題も同じである。『講論』では、「陰陽が、すなわち〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(49ページ)と記されている。この〈み言〉というのは、前後の文意からして「一陰一陽之謂道、道也者言也」という易経に記されている〈言〉を指すものであるのに、浅見氏は、「陰陽が、即ち(聖書のヨハネ福音書のいう)〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(『対策』207ページ)と文意を取り違えた上、それをかっこにして注意書きまでしている。
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ここでも『講論』は易学の〈言〉は、聖書のヨハネ福音書の〈言〉と同じであると短絡的に考えているわけではなく、それに当たるものだと言っているのである。

ところで、これらのことをもって浅見氏は鬼の首を取ったかのように、「統一原理」はキリスト教ではないなどと主張しているが、事実は反対である。これらのことは、「統一原理」がユダヤ・キリスト教思想の流れの上に立ちながらも、東洋思想の受容できる優れた神学を有していることを示すものであり、むしろアジアにおけるこれまでのキリスト教が、東洋という視座に立って神学の見直しをしてこなかったところに問題がある、と言うべきであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」の根拠は聖書のどこに?

ノアs:『原理講論』によると、「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」ということですが、聖書のいったいどこに記されているのでしょうか。

:確かに創世記6章の洪水物語をずっと読んでみても、ノアが啓示を受けてから洪水審判まで120年あったと明確に述べられている箇所はないように思われます。しかし、ヒントとなる重要な聖句が創世記6章3節に記されています。
「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は120年であろう』」。

これは一見、質問の内容とは関係のない聖句のようですが、実はこの聖句の訳には問題があり、同じ箇所をドン・ボスコ社のカトリック聖書で見ると、次のようになっています。

「すると主は、『私の霊はいつまでも人間のうちに居つづけないだろう、かれは、肉だけのものでしかないからである。かれの日かずは、あと120年』とおおせられた」。

これは一般の人間の寿命を意味するというよりも、罪を犯した人々に対して神が、“おまえたちはあと120年しか生きられない”と宣言されたということで、120年後に洪水審判が下されることを暗示していると思われるのです。この見解が正しいことを示すいくつかの文献を挙げてみましょう。

「〈人の齢は120年〉。文法的には人のさばきの執行猶予の期間(Iペテロ3:20)とも、地上の人間の寿命の短縮ともとれる」(『新聖書註解1』いのちのことば社、110ページ)。ノアの洪水s

「J(モーセ五書を構成していると思われる文献J、E、D、Pなどの一つ……著者注)は、物語を『非神話化』して使うことによって、全般的に堕落した人間の状態の証拠として、その寿命が120年に限定されたと考えたのであろう。しかしこの逸話と結びつけた洪水物語との関連上、120年を大災害の発生前に人類に与えられた恩恵の期間とした、と解釈する方がよいと思われる。明らかにこれが創世記の最終著者の意図である。なぜなら、後にPにおいては、120年以上の寿命が個人に与えられているからである」(『カトリック聖書新註解書』エンデルレ書店210ページ)。

「一般人類の生命の息……は、120年後の洪水によって断たれるであろうという神の宣言(おそらくヨナ3:4の場合と同じような悔い改めの期間……)以上の解釈はギリシャ語訳、ラテン語訳、シリヤ語訳に一致するものである」(聖書〈原文校訂による口語訳〉フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社55ページ)。

これらの文章は、洪水前に120年という期間があったとする『原理講論』の主張が、かってな独断ではなく聖書的根拠に基づいていることを明確に示しているものといえましょう。(『聖句Q&A』より)