自然を観察すれば神様が分かるって本当?①

地球 虫眼鏡 観察s浅見定雄氏の批判

『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。

批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。

かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。

ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)

CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える

統一教会の教義 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

原理講論 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

Amazon.co.jp: 原理講論―重要度三色分け: 世界基督教統一神霊協会: 本

人類歴史をたった6000年と見なしている?

日と月s浅見定雄氏の批判
人類歴史をたった6000年のことと見なしている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
『講論』で扱われている人類歴史六千年という数字は、あくまでも聖書の記述を中心とした摂理的数字であって、象徴的なものであり史実とは異なるものである。参考のため、以下に『講論』の思想的展開である『統一思想教材』(統一思想研究院)から一文を引用しておきたい「人類始祖出現六千年説には必ずしも固執しない。六千は六数に摂理的な意味があるのであり、実際には数万年以上あると見る」(208ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」という呼び名は統一教会だけ?

PEOPLE_61浅見定雄氏の批判
イザヤ14 :12の「明けの明星」を統一教会は「ルーシェル」と呼んでいるが、「ルーシェル」などという単語は世界中のどの言語にもない。統一教会だけの隠語である。これはたぶん、英語のLucifer(ルーシファ)の聞きちがいから生じたのである。ciを「シェ」などと発音するのも幼稚だし、fの音を落とすに至っては欧米語の音韻を知らない証拠だ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』16ページ)。

批判に対する回答
統一教会ではサタンのことを「ルーシェル」と呼んでいるが、これは英語のLucifer「ルーシファ」の韓国語なまりからきたものである。もともと英語の「ルーシファ」は、ラテン語の「ルキフェル」からきたものであり、これ自体もなまったものである。ちなみにドイツ語では「ルチフェル」となる。

もともと外国語の発音をその国の言葉で忠実に表現しようとすること自体不可能なことである。それを原音に忠実でないから〈幼稚〉だなどといって騒ぐこと自体きわめて幼稚だと言わざるをえない。

なお、『講論』の日本語訳は「ルーシェル」であるが、韓国語では「누시엘=ヌシエル」(韓国語では語頭にくるㄹ音〈R〉はㄴ音〈N〉に変わる)であり、英語訳は〈Lucifer〉、ドイツ語訳は〈Luzifer〉、イタリア語訳は〈Lucifero〉となっており、それぞれ、その国の言語の事情から一様ではない。したがって、浅見氏の言うように〈ルーシェル〉は統一教会だけの隠語だなどというようなものでも何でもない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

アダムの年齢「930歳」やノアの年齢「950歳」を史実としている?

男女 ハテナs浅見定雄氏の批判
アダムの年齢「930歳」やノアの年齢「950歳」をみな史実としている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
この問題も前項の問題(人類歴史をたった6000年のことと見なしている)と同様である。アダムやノアの年齢も摂理的意味をもって象徴的に書かれているものであって、『講論』は彼らの年齢を史実とみなしていない。ところで、このように表現されてきた背景をいかに考えるべきか、以下に若干の考察を加えておきたい。

この種の年齢の問題に関しては、これまでにも、①ここで記載されている名前は個人のものではなく、世襲の家名であろう(例えば王朝のごときもの)、②ここでの1年は現在の12ケ月の1年よりもずっと短かったのではないか、③一般に太古の年表は文字どおりではなく象徴的数字で記載されていた、など様々な意見が出されてきたが、一般的に難解なところとされている。これについては『聖書の考古学』も、(この驚くべき年数の原因と意味は、……解き得ぬ謎として残っている」(講談社14ページ)としている。しかしながら、われわれに参考になると思われるのは、前述③項にも関係するが、これらの物語成立の背景をなすオリエント地方の神話に関する事柄である。

オリエントを中心とする古代社会の神話のほとんどには、洪水神話が含まれているが、そこでは人類誕生から洪水までの期間を10人の異常に長い寿命の王の名前で説明されている。例えば『聖書ハンドブック』(聖書図書刊行会71ページ)によれば、BC300年頃のバビロニアの歴史家ベロッソスは、マルドゥク神殿の記録保管所の古代記録から調べたものとして、一代で一万年から六万年を統治したとする以下のような十人の王を挙げている〈アロロース→アラパロス→アメロン→アムメノン→メガラロス→ダオノス→ユードラク→アメンプシノス→オチアルテス→クシストロス、そしてクシストロスの時に大洪水が起こった〉。

また、バビロンの南東ニップルで発見された五万枚からなるBC3000年代の粘土板と、ウルの北方の町ラルサで発見されたBC2170年に書かれた角柱(ウェルドの王朝角柱)には以下のような洪水前までの10人の名とその王たちの統治年数が記されていた〈アリュリム(2万8千年)、アラルマール(3万6千年)、エメンルアンナ(4万3千年)、キチュンナ(4万3千年)、エンメンガランナ(2万8千年)、ズムジ(3万6千年)、ジブジアンナ(2万8千年)、エメンズランナ(2万1千年)、ウブルランツム(1万8千年)、ジンスズ(6万4千年)、それから洪水が大地を覆った〉。

これに対して、聖書は創世記5章でアダムからノア(洪水)までの期間を次の10人の長寿の人物で説明している〈アダム(930歳)、セツ(912歳)、エノス(905歳)、カイナン(910歳)、マハラレル(895歳)、ヤレド(962歳)、エノク(365歳)、メトセラ(969歳)、レメク(777歳)、ノア(950歳)〉。

ところで、このような古代オリエントの神話と聖書の記事との類似性については『新聖書注解・旧約1』は次のような見解を紹介している「カスートは、この系図における歴史性の特徴をバビロニア伝承との比較を通して見ている。原初の世代の十人の頭についての伝承は、古代東方の諸国民の間に数多く存在していた。

バビロニア、エジプト、ペルシャ、インドの諸例のうち、よく知られているのがシュメール人の王のリスト、五章(創世記)の系図に最も近いのがバビロニアの王のリストである。後者は、洪水前後のそれぞれ十人の王たちについての伝承である。王たちの治世が一万年から六万年という大きな数字であることでは全く異質。しかしリストの七番目がアダムから七番目の〈エノク〉を思わせる人物、十番目が洪水物語の英雄で、同じ十番目の〈ノア〉に相当する人物であることなど著しい類似点もある」(いのちのことば社、104ページ)。

おそらくこのようなオリエントの各地に存在する類似した神話は、互いに影響を与えながらそれぞれ成立したと考えられる。
アダムからノアまでの十代については、合理的な理解の仕方として、この間の代表的な十人の人物が選ばれ、ある期間(神が啓示すべき意味を持った期間)を満たすため、長寿の年齢が彼らの上に表示されているのだと考えることもできるであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「ルーシェル」の存在は聖書の誤訳から生じた俗説?

AG_DE_HV_HL_39浅見定雄氏の批判
「ルーシェル」と言う言葉は、「明けの明星」に当たるヘブル語「ヘーレール」(輝くものの意)の誤訳から生じたものであり、後世のキリスト教で生まれた俗説であって実在するものではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』17ページ)。

批判に対する回答
イザヤ14:12の「明けの明星」は、確かにヘブライ語原典では〈ヘーレール〉であり、その意味は〈輝くもの〉である。しかしながら、この言葉は〈黎明の子〉を意味するヘブライ語〈ベン・シャハル〉と対で使用されているのであるから、単に輝くものを意味しているのではなく、夜明けにおける輝くものであり、結局、明けの明星を意味している。

イザヤ14:12のヘブル語〈ヘーレール〉がラテン語に訳されるとき、ラテン語の〈Lucifer〉(「発光」、「明けの明星」の意)があてられ、それが英訳へと受け継がれてきたと考えられる。これは、誤訳というより意訳というべきものである。以下この部分についてもう少し詳しい考察をしてみたい。

このイザヤ14:12の聖句の背景には当時カナンに伝わっていたウガリット神話があることを学者は指摘している。例えば、『旧約聖書略解』には「カナンに流布されていたウガリット神話から取材したものである。ウガリット神話には夜明け、または、明けの明星の神シャハル〈夜明け〉のことやシャハルの子ヘラル〈明星〉のことが書かれてある」(日本基督教団出版局、675ページ)とあり、また『ATD旧約聖書注解18イザヤ書』には「ウガリットの人々においては、シャカルとシャリム、すなわち夜明けとたそがれの薄明かり、もしくは明けと宵の明星の対の神々の誕生についての典礼的な物語が見出される。……光を放ちつつ現れ出る明けの明星は、立ち昇る太陽の光によって色あせてしまう。カナン人もまた夜明けの薄明かりの神シャカルたる明けの明星が、雲居と星々のはるか上方に住まう至高の神の王座を覆そうと身のほど知らずにも思い上がったことを語っていたと見てよいだろう」(68~69ページ)と述べられている。

このようなことからも、イザヤ14:12におけるヘブル語〈ヘーレール〉は単に〈輝くもの〉の意とするだけでは、文脈からの理解としては不足であって、この言葉は明らかに〈明けの明星〉を意識して使われているといえよう。

ところで、浅見氏によると「ルーシファ」が、「天上から落とされた大天使」とか「サタン」であるという説明は、後のキリスト教で生まれた俗説であり、研究社の『新英和大辞典』では「イザヤ書14:12の誤訳から」となっている、と言うことであるが、ハーバード大学で博士号を取得したという聖書学者が、神学文献の代わりに英和辞典を引き合いに出すとは驚きである。

大辞典であれば権威があるというのであれば、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)では「①天から落ちた傲慢な大天使:Satanと同一視される、②《文語》明けの明星 「morning star」とあり、『WEBSTRE`S NEW UNIVERSAL UNABRIDGED DICTIONARY』(published by New World Dictionerie/Simon & Schaster)という32万語からなる大辞典では、「①the planet venus, when it is the morning star. ②Satan, especially as the leader of revolt of angels before his fall.」とある。

念のため英語の辞書としては世界で最も権威があるといわれる『OXFORD ENGLISH DICTIONARY』(OXFORD UNIVERSITY PRESS)を見てもだいたい同じ意味の事が書かれている。これらの辞典は研究社の『新英和大辞典』にも引けを取らない大辞典であるが、むしろ『講論』に近い説明が書かれてある。しかしながら、いくら大辞典といえども専門書でないものをもって、われわれは云々するつもりはない。

さて、イザヤ14:12の「明けの明星」が〈天から落とされた大天使〉ないしは〈サタン〉を意味するかどうかという問題については、諸説のあることは事実である。確かに、この聖句は、直接的にはバビロンの王を指していると思われるが、しかし、それを通して、その背後にサタンをも示しているとの理解は、特に福音派の人たちから伝統的に支持されてきた。

例えば、ルネ・パーシュはサタンの起源に関して、「聖書は、多くの詳しい説明を与えていない。しかし、エゼキエル書28章12~27節と、イザヤ書14章12~15節の二個所で、聖書は、ベールの片隅を持ち上げている。預言者はツロとバビロンの王たちを越えて、そこに、これらの人物を自分の道具としている者を見る(イエスがヘテロに〈サタンよ、わたしの後に行け〉と言われたように)」(『再臨』いのちのことば社、182ページ)と述べており、また、『聖書教理ハンドブック』では、「少なくとも二つの聖句が、サタンの本来の性格を示し、彼が天から堕落したことを述べている、①エゼキエル書28章12~19節、……②イザヤ書14章12~15節……」(いのちのことば社、74ページ)と述べられている。

その他、『聖書ハンドブック』(いのちのことば社)には「ルシファー(明けの明星)の堕落がしるされている。〈明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。……〉この事は、次の主の言葉によってくり返されているのではないだろうか〈わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た〉(ルカ10:18、黙12:7~9と比較せよ)」(74ページ)と述べられている。

なお、『講論』が、サタンの存在や、天使長ルーシェルについて、これほどまでに確言する背景には、聖書における証言のほかに、文師自身が天界で体験してきた啓示的事実――文師自らが神と一問一答し、天界で人間の始祖アダム・エバに会い、サタンと対決しその中で与えられた事実――が存在する。おそらく、多くの人は、すぐさまこのようなことは信じられないであろう。実際、今日、サタンはおろか天使の存在さえ疑問とする人も多いのである。

多くの学者は、〈サタン〉という概念は、中間時代の「ユダヤ思想」において発展してきたものと指摘する。しかしこのことは、サタンの実在性を軽視する理由にはならない。なぜなら、このような“概念の発展”という問題については、ヘブライ人の「神観」についても同様のことがいえるからである。もし神の本質が漸次啓示されてきたと見ることができるならば、〈サタン〉と言う概念についてもそのようなことがいえないことはない。

サタンの実在性については、後期ユダヤ教のラビたち、原始キリスト教における新約聖書の記者たち、そしてそれに続く教父たちをはじめ、多くの伝統的な神学者、ルター、カルヴィンに至るまで、それを強調してきた。しかし、啓蒙主義の時代以降、神学者の間には、サタンや天使の存在を軽視する傾向の出てきたことも事実である。

しかしながら、昨今の複雑な世相を反映して、悪(罪)に対するこのような楽観的(リベラル)傾向に対し、もう一度この世の悪と言うものの背後にある「人格的な力」(サタンの実在性)を見直そうとする動き――例えば、ドイツのヘルムート・ティーリケやスウェーデンのグスターフ・アウレン――の出てきたことは大いに注目すべきことである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

『原理講論』はキリスト教の神と易学の太極を同一視?

浅見定雄氏の批判
神が陽性と陰性を持つという教えの背後に、韓国の通俗的陰陽五行説、日本の陰陽道がある。「陰陽の中和的主体である太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものである云々」、「陽陰が即ち『み言』であるという易学の主張は妥当である」という『講論』の箇所がそれを示している。『講論』は、「キリスト教の〈神〉と易学の〈太極〉、否〈陰陽〉そのものを、まったく同一視している」(浅見定雄『統一協会=原理運動―その見極め方と対策』206~207ページ)。

原理講論
原理講論

批判に対する回答
ここでも浅見氏は、『講論』の論旨を正しく伝えず、また、自分かってに〈まったく〉などという言葉を付け足して故意に文章の意味を曲げ、読者に誤った『講論』のイメージを与えようとしている。『講論』では、キリスト教の「神」と易学の「太極」とを〈まったく〉同一視しているわけではない。〈それに当たるものだ〉と言っているのである。

『講論』は、浅見氏が引用している部分の後、次のように言っている。「しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。

したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである」(『講論』49ページ)。すなわち『講論』の「太極は二性性相の中和的主体である神を表示したものである」という記述は、〈太極は二性性相の中和的主体である神の陽陰の中和的主体という内容のみを表示したものである〉と解釈されるべきなのである。

「陰陽」「み言」に関する問題も同じである。『講論』では、「陰陽が、すなわち〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(49ページ)と記されている。この〈み言〉というのは、前後の文意からして「一陰一陽之謂道、道也者言也」という易経に記されている〈言〉を指すものであるのに、浅見氏は、「陰陽が、即ち(聖書のヨハネ福音書のいう)〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(『対策』207ページ)と文意を取り違えた上、それをかっこにして注意書きまでしている。
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ここでも『講論』は易学の〈言〉は、聖書のヨハネ福音書の〈言〉と同じであると短絡的に考えているわけではなく、それに当たるものだと言っているのである。

ところで、これらのことをもって浅見氏は鬼の首を取ったかのように、「統一原理」はキリスト教ではないなどと主張しているが、事実は反対である。これらのことは、「統一原理」がユダヤ・キリスト教思想の流れの上に立ちながらも、東洋思想の受容できる優れた神学を有していることを示すものであり、むしろアジアにおけるこれまでのキリスト教が、東洋という視座に立って神学の見直しをしてこなかったところに問題がある、と言うべきであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)