『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』の盗作?

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?

原理講論
原理講論

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作であると中傷する反対牧師もいます。
この中傷は、1975年5月19日、ソウル・セムアン教会で行われた「統一教批判講演会」で、朴英官氏が「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作。それは年代的、構造面、核心思想から見てそうだ」と語ったのが発端です。これは朴英官氏のデマです。

反対牧師は、『原理講論』と『基督教根本原理』の目次を示し、似ていると批判します。しかし、『基督教根本原理』より前に『原理解説』が出ている事実を見落としています。統一教会出版物と、金百文氏の出版物は、下表の年次で出ています【下表を参照】。

金氏が盗作したと言うなら、まだ話の筋は通りますが、「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作」は事実無根です。なお、この盗作の中傷に対し、『受難の現場』(光言社)の319〜325ページに柳光烈氏の反論が掲載されています。

『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?
(太田朝久『踏みにじられた信教の自由』より)

『受難の現場: 統一教会受難とその真相』 柳光烈先生による「教理剽窃是非に対する釈明」

イエス・処女降誕否定の根拠は?

処女降臨 マリア イエスs:「統一教会はイエスの処女降誕を否定しているが、イザヤ書7章14節にははっきりと『見よ、おとめ(a virgin)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』と預言されている」という意見がありますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、三位一体やイエスの肉体復活と並び、保守的なクリスチャンにとってはイエス・キリストの神性(無原罪)を裏付けるものとして絶対に譲れない中心的教理の一つではありますが、今日この“処女降誕説”に疑問をはさむ神学者は決して少なくありません。その問題となっている点をいくつか挙げてみましょう。

一つは処女降誕の根拠となるイザヤ書7章14節は確かに七十人訳(ギリシャ語)では“処女”(a virgin)となっていますが、ヘブル原典では単に、“おとめ”(a young girl)となっており、必ずしも処女を意味しないということ。この点については日本基督教団の『旧約聖書略解』は、「イエスの奇跡的誕生との関連において、マタイ福音書の著者がイザヤ書7:14を奇跡的に解釈するのは当然であるが、イザヤ自身はこの聖句にそのような意味をもたしていないことは、これがスリヤ・エフライム戦争においてアハズ王に語られた神の言葉であることからも理解しうる。「おとめ」と訳されているヘブル語は「結婚適齢の若い女」をさし、処女であっても、既婚の女であってもよい」(667ページ)と述べています。ハルナックもその著『History of Dogma』の中で「処女降誕の観念は旧約聖書の誤訳による」と説明しています。

第二はこの聖句は、直接にはイエスの誕生を指していないという点です。この点についてさらに『旧約聖書略解』(前掲書)は「……それで、この預言の『おとめ』とは誰のことであろうか。……アハズ王に『しるし』となるのであるから、王の知っている若い女のことでなければならない。王の后か、預言者の妻かであろう。ヘブル語では、『彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』となっているが、七十人訳以外の有力なギリシャ語訳旧約聖書は『あなた(アハズ王)は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』と訳している。ゆえにこの『おとめ』は王の后となる女であると解釈する註解者もいる……当時流布していた救世主の誕生の待望との関係から、メシヤをさしているのだとする見解(は)妥当ではない」(667ページ)と述べています。すなわち、この預言はイザヤの時代に関するものであるというのです。

新改訳のイザヤ書7章14節の注にも「イザヤ時代に生まれて来る男の子のことが念頭におかれている」と書かれています。

第三は処女懐胎の物語は福音書のマタイとルカの初めの章だけで扱われており、マルコ、ヨハネ、パウロなどはこれに言及していない点。これは必須の重要教理でないことを示しているともいえます。

第四は処女懐胎がメシヤの「無原罪誕生」の根拠とされているが、それは古代世界においては、子供をつくるのは男性のみであり、女性はただ子供を宿すにすぎないと信じられていたからで、今日の科学は、両親が共に子供の肉体および精神の構造を決定することを証明している。したがってイエスから父親を取り除いても、イエスを原罪のない存在とすることにはならない。
以上の点を挙げることができます。(広義昭『聖句Q&A』より)

ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)

人間の肉体が死ぬのは、人類始祖の堕落の結果?

堕落による死sQ:「統一教会は“肉体の死”を堕罪によって生じたものとは考えず、“自然死”だとしているが、創世記2章17節の『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』というみ言の“死ぬであろう”とは、人間の全存在に対して言われたのであって、肉体であろうが、霊人体であろうが、その人の固有の要素はすべて死ぬのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:一般的にキリスト教の教義学においては、堕罪による死は『原理講論』の主張するごとく第一義的には霊的死、すなわち“霊魂の神からの離反”ということで意見は一致しています。保守派の代表的人物ヘンリー・シーセンの『組織神学』にも、「霊的死とは霊魂が神から離されることである。エデンの園において宣告され、いま全人類の上にふりかかっている罪の刑罰は、第一義的にはこの魂の死なのである」(448ページ)と述べられています。しかし、では堕罪による死が“肉的死をも含むか否か”という問題になると様々な教説があり、一致が見られないのが現状です。

しかし、『原理講論』は、創世記2章17節の「取って食べると、きっと死ぬ」は文語訳では、取って食べた「その日」(英訳では、“in the day”新改訳では“その時”、ヘブル語ではbeyomベヨム)に死ぬとなっており、したがって、あくまでもアダムとエバは取って食べた“その日″あるいは“その時”に既に死んだと見なければなりません。しかし、彼らの肉体はその後、なおも生き続け、アダムは930歳(聖書的数字)まで生きたというのであるから、堕落によってもたらされた“死”とはまさしく“肉体の死”ではなく“霊的死”と見るべきであると主張しています。

そして、多くの神学者も実はこの見解を支持しています。日本基督教団出版局から出されている『教義学講座(1)』の「永生論」には、「キリスト教の中においても自由派の人々は、死をもって自然現象となし、罪の結果と考えない」(405ページ)とあり、さらに「人間論」の中には、「個々の人の罪が原因となって、人間に生物学的な意味での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。

生まれた以上死ぬのは人間の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の前であろうが、後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。……罪こそ死なのである」(239ページ)と述べており、堕罪による死は「肉体の死」よりも、より本質的には「霊的死」であることがはっきりと述べられています。(『聖句Q&A』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)

統一教会は心身障碍者を「先祖の因縁」と蔑視?

先祖s浅見定雄氏の批判
統一教会は、心身障害者を受け入れない。受け入れないどころか、彼らを、前世の因縁が悪いとか悪霊がついているからだと言って蔑視している。これは、聖書の教え(キリスト教)とは真反対の教えである。ヨハネ福音書第9章には、はっきりと盲人であるのは本人の罪でも、親の罪でもないと書かれている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』11ページ)。

批判に対する回答
統一教会が心身障害者を信徒として受け入れないなどという方針はどこにも存在しない。「統一原理」の内容を理解し、受け入れることのできる者は誰でも信徒になれる。実際、統一教会の職員の中には身体障害者もいる。ただし、教会の業務に専従するためには、それに相応する心身の健康が要求されることは当然である。このことは、カトリック、プロテスタントを問わずどこの教会でも同じことであろう。

心身障害者になった原因という問題であるが、「統一原理」はすべての物事の原因には内的側面と外的側面のあることを主張する。外的側面というのは地上界からのものであり、内的側面とはそれを超えた霊的側面からのものである。内的側面の中には神からの直接的なものをはじめ、先祖の霊を含めたいわゆる霊界(天界)の霊人からの影響も含まれる――出エジプト記20章5節参照。ただし、浅見氏が言うような〈前世〉すなわち〈輪廻転生思想〉は「統一原理」にはない――。

ところで浅見氏の言うヨハネ9章の解釈の問題であるが、イエスの「神のみわざがあらわれるために」と言う言葉は、そのときの状況を十分考慮しつつ解釈されるべきである。イエスがここで意図したことは、“病気や一切の不幸が先祖や本人の犯した罪と全く関係がない″といった普遍な真理を表明することにあったのではなく、弟子たちが、その盲人に関する罪の原因の所在をあれこれ考えていたときに、“今、大事なことはそういうことではない。人間は皆等しく罪人であって、その意味ではこの盲人も他の者もなんら変わるところがない。大切なのは眼の前にいるメシヤをメシヤと認めて、一日も早く救いに入れられることなのだ”ということにあったといえる。

この部分については『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社)も次のように言っている「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の受難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(487ページ)。

すなわち、この場合、見当はずれの質問に対して解答が避けられ、それをきっかけにして新しい別のメッセージが語られているのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

ロマ書7章の「パウロの嘆き」における自己矛盾の描写は、イエスによる回心以前のことを指している?

イエス キリスト教 十字架 復活s:「統一教会では、ローマ人への手紙7章15節から24節のパウロの嘆きを例に挙げながら、『イエスによって救われたと主張するクリスチャンが相変わらず自己の矛盾性に悩んでいるということは、結局、その救いが完全なものではなかったことを示している』と言っている。

しかし、パウロがここで言いたいのは、7章25節から8章にかけて述べられているように『そのような自己矛盾に悩んでいた罪深い自分がイエスによって救われたのだ』ということなのであって、この自己矛盾の描写はイエスによる回心以前のことを指しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいのでしょうか。

:確かに指摘のとおり、この聖句をキリスト教の救いの限界性の根拠として用いるには若干説明が必要かと思います。実はこのパウロの嘆きが信仰をもつ以前のことなのか、それとも信仰者の現実を指しているのか、学者の間でもかなり意見が分かれているのです。

しかし、たとえこれが回心以前のことであったとしても、このような自己の内における罪との闘いが、イエス様との出会いによって完全に解消されたのかといえば、パウロは決してそのようなことは一言も言っていないのです。『新聖書註解』(いのちのことば社)には、次のように述べられています。

「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。

それに対し、高橋三郎は、……律法に対して死ぬということは、われわれの人生において、ただ一度だけであるのであって、それ以後は機械的に同じ状態が進行するという風にもし考えるとすれば、それは信仰生活の実相を完全に無視した議論と言わねばならない。宗教改革者がいみじくも言ったように、われわれキリスト者の生涯は、常に新たな悔い改めの連続である。そうだとすれば、律法に対して死ぬという体験的事実は、(ある決定的一時点において、一回限りの出来事として開始されたとしても)その後われわれの全生涯を通して繰り返されて行く継続的事態であると言わねばならない。

そして、『律法に対して(常に新たに)死ぬ』ということは、われわれが常に新たに、律法主義的生活に逆転する可能性をうちにはらんでいるということを前提としている」(新約2、226, 227ページ)。

これはキリスト者の救いがイエス様を信じた瞬間に何もかも完成してしまうのではなく、その後も常に罪と闘わねばならない事実をはっきり示しているといえましょう。しかも8章23節には既にみ霊によって新生した者にも、さらに体のあがないが残されていることがはっきりと記されています。

このようにパウロの嘆きを一般キリスト者の現実と理解することは、必ずしも不当な解釈でないばかりか、キリスト教の救いというものが、終末(再臨)時にもたらされる体のあがない(完全なる救い)という基準から見て、いまだ未完成であるとの「統一原理」の主張は、聖書的見地から見ても何ら誤っていないといえます。

〔厳密には、完全に救われる(原罪を脱ぐ)ということと、自己の矛盾性から解放される(堕落性を脱ぐ)ということは別問題であり、原罪が赦されているということが直ちに霊肉の何の葛藤もない状態を意味するわけではありませんが、『原理講論』では、キリスト教においていまだ肉的救い(原罪の清算)が残されている事実を明示するための一例として、このような表現が用いられていることを御承知願います〕。(『聖句Q&A』より)

統一教会 Q&A – はじめての方へ

WORSHIP_66挨拶

本サイトは、主に統一教会の教理に対する疑問、批判に対する回答、反論をQ&A方式で掲載しています。以下、このサイトを作成した背景と目的を記します。

1966年以来今日に至るまで、世界基督教統一神霊協会(以下、統一教会)の信者は、反対派と共謀した親族らの手によって拉致され、その信仰を破壊して脱会させる目的で強制的説得を受けてきました。その数は4300人以上にもなります。拉致監禁された信者は、マンションの一室等に作られた“監禁部屋”に閉じ込められると、脱会するまでは一切外出を許されないという身体の自由を奪われた上で、孤独な信仰の闘いを強いられます。→全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会HP 参照

信仰のためには命がけの信念を持つのが宗教者の共通の思いですが、そのような統一教会信者を脱会させるために“監禁部屋”に必ず登場するのが自称「脱会カウンセラー」と呼ばれる脱会説得の専門家であり、その多くは「反対牧師」と呼ばれるキリスト教の牧師です。

ここで、反対牧師が信者の信仰を崩す“切り札”として持ち出すのがキリスト教の教典である『聖書』です。反対牧師は、統一教会の教理(特に『原理講論』)は聖書を間違って引用、解釈、あるいは改ざんしており、そのことを信者に理解させれば信仰を崩すこと事ができると考え、今日まで実践してきました。

そして、残念なことに多くの統一教会の信者は、教育不足、あるいは監禁下による特殊な環境など、さまざまな要因があってのことでしょうが、反対牧師のいいように説得されて脱会へと追い込まれてきました。

もちろん、統一教会信者は、今までこれらの反対牧師による批判を無視してきたわけではありません。これら批判に対する反論、回答に関する書籍が多く発行されてきました。

しかし、現在それらが手に入りにくい状況であることを鑑みて、それらの書籍から監禁現場で特に用いられる頻度の高い批判を中心に抜粋し、本サイトにQ&A形式でまとめました。それに加えて教理以外の批判についても反論、回答を試みてみました。

本サイトを熟読して頂ければ、反対牧師の批判は、統一教会の教理の真理体系をいささかも損なう事のない“陳腐”かつ他愛もない“詭弁”であることがはっきり分かると思います。それだけでなく、統一教会の教理の真理性を再確認して頂けると自負しています。

本サイトを読むことをきっかけに、より深く研究することで、統一教会の信者の皆さんが監禁下での反対牧師の詭弁に惑わされることなく、統一教会の教理に対する自信を一層深めて下さり、あわせて、不当な監禁下での説得により信仰を失ってしまった元信者の皆さんが再び統一教会の教理を学ぶ機会となれば幸いです。

拉致監禁・強制改宗被害者の会 代表 後藤徹