アベルの小羊はイエスの十字架の予表だった?

アベルとカインs:「カインの供え物が顧みられなかったのは、彼の捧げた供え物が地の産物だったからで、地の産物は血が流れないため、人類の贖いの供え物としての神の小羊、すなわちイエス・キリストの十字架の犠牲を予表(象徴)することができなかったからである。

また、アベルの供え物が受け入れられたのは彼の信仰(人間側の功績)のゆえであって、神の選び(善の表示体)だったからではない。ヘブル人への手紙11章4節に、『信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた』とはっきりと述べられている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:まず第一に、供え物の種類が悪かったという考え方に対してですが、それでは神はいつでも供え物として血の流れるものばかりを要求されたのかというと、決してそうではありません。例えば、素祭などは地の産物でした(レビ2:1~16)。

したがって供え物がすべて十字架を予表しているという考えは、聖書のすべてを“血による贖い”という観点から見ようとする、行き過ぎた見解といえましょう。このことに関して次のように述べられています。

「カインとアペルのささげ物は、罪の赦しを求めてのそれではない。……しかし感謝の中に、神よりの好意と祝福への願いを認めるなら、広義の和解の求めを認め得る。この意味では、作物のささげ物も、羊のそれも本来同じものであろう。……カインの場合、罪のための動物の血が注がれなかったから受け入れられなかったと言われる。しかし、これは啓示の歴史の流れと、直接の文脈の両方から外れている。……カインのささげ物が受け入れられなかった理由が明らかにされなかったからこそ、『神がカインにとり隠された神となり怒りの神となった』」(『新聖書註解旧約1』99ページ〈関根氏〉)。

「神はアベルとそのささげ物に目を留められたが、カインとそのささげ物は顧みられなかった。相違はどこにあったのか。へブル語本文では、ささげ物自体にこの原因を見い出していない」(前掲書69ページ)とはっきり述べられています。

第二に、アベルの供え物が受け入れられたのは、その信仰(アベルの資質・功績)のゆえであったという点に関しては、「統一原理」は必ずしもアペルの信仰を否定するわけではありません。しかしそのことが決定的な条件であったのではなく、その背後にもっと深い神の選びの計画があったとしているのです。例えば、次のように記されています。

「ヤーウェがアベルの供え物を受け入れ、カインの供物を拒否した理由の説明はない。後代のユダヤ教の伝承……は功績によるものであるとしているが、著者は、神の選択が無償であることの説明に使っている。これはイサクとヤコブの場合などにも同じであって、神は長子を無視して別の子を選んでいる」(『カトリック聖書新註解書』207ページ)。

またヘブル人への手紙11章4節に関しては、「アブラハム以外の人々の信仰について旧約聖書は特別に述べていない。この書の筆者の解釈である。……信仰という点で特にアベルの事跡を求めることはむずかしい」(『新約聖書略解』684ページ)と述べられています。(『聖句Q&A』より)

「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」の根拠は聖書のどこに?

ノアs:『原理講論』によると、「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」ということですが、聖書のいったいどこに記されているのでしょうか。

:確かに創世記6章の洪水物語をずっと読んでみても、ノアが啓示を受けてから洪水審判まで120年あったと明確に述べられている箇所はないように思われます。しかし、ヒントとなる重要な聖句が創世記6章3節に記されています。
「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は120年であろう』」。

これは一見、質問の内容とは関係のない聖句のようですが、実はこの聖句の訳には問題があり、同じ箇所をドン・ボスコ社のカトリック聖書で見ると、次のようになっています。

「すると主は、『私の霊はいつまでも人間のうちに居つづけないだろう、かれは、肉だけのものでしかないからである。かれの日かずは、あと120年』とおおせられた」。

これは一般の人間の寿命を意味するというよりも、罪を犯した人々に対して神が、“おまえたちはあと120年しか生きられない”と宣言されたということで、120年後に洪水審判が下されることを暗示していると思われるのです。この見解が正しいことを示すいくつかの文献を挙げてみましょう。

「〈人の齢は120年〉。文法的には人のさばきの執行猶予の期間(Iペテロ3:20)とも、地上の人間の寿命の短縮ともとれる」(『新聖書註解1』いのちのことば社、110ページ)。ノアの洪水s

「J(モーセ五書を構成していると思われる文献J、E、D、Pなどの一つ……著者注)は、物語を『非神話化』して使うことによって、全般的に堕落した人間の状態の証拠として、その寿命が120年に限定されたと考えたのであろう。しかしこの逸話と結びつけた洪水物語との関連上、120年を大災害の発生前に人類に与えられた恩恵の期間とした、と解釈する方がよいと思われる。明らかにこれが創世記の最終著者の意図である。なぜなら、後にPにおいては、120年以上の寿命が個人に与えられているからである」(『カトリック聖書新註解書』エンデルレ書店210ページ)。

「一般人類の生命の息……は、120年後の洪水によって断たれるであろうという神の宣言(おそらくヨナ3:4の場合と同じような悔い改めの期間……)以上の解釈はギリシャ語訳、ラテン語訳、シリヤ語訳に一致するものである」(聖書〈原文校訂による口語訳〉フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社55ページ)。

これらの文章は、洪水前に120年という期間があったとする『原理講論』の主張が、かってな独断ではなく聖書的根拠に基づいていることを明確に示しているものといえましょう。(『聖句Q&A』より)

イエス・処女降誕否定の根拠は?

処女降臨 マリア イエスs:「統一教会はイエスの処女降誕を否定しているが、イザヤ書7章14節にははっきりと『見よ、おとめ(a virgin)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』と預言されている」という意見がありますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、三位一体やイエスの肉体復活と並び、保守的なクリスチャンにとってはイエス・キリストの神性(無原罪)を裏付けるものとして絶対に譲れない中心的教理の一つではありますが、今日この“処女降誕説”に疑問をはさむ神学者は決して少なくありません。その問題となっている点をいくつか挙げてみましょう。

一つは処女降誕の根拠となるイザヤ書7章14節は確かに七十人訳(ギリシャ語)では“処女”(a virgin)となっていますが、ヘブル原典では単に、“おとめ”(a young girl)となっており、必ずしも処女を意味しないということ。この点については日本基督教団の『旧約聖書略解』は、「イエスの奇跡的誕生との関連において、マタイ福音書の著者がイザヤ書7:14を奇跡的に解釈するのは当然であるが、イザヤ自身はこの聖句にそのような意味をもたしていないことは、これがスリヤ・エフライム戦争においてアハズ王に語られた神の言葉であることからも理解しうる。「おとめ」と訳されているヘブル語は「結婚適齢の若い女」をさし、処女であっても、既婚の女であってもよい」(667ページ)と述べています。ハルナックもその著『History of Dogma』の中で「処女降誕の観念は旧約聖書の誤訳による」と説明しています。

第二はこの聖句は、直接にはイエスの誕生を指していないという点です。この点についてさらに『旧約聖書略解』(前掲書)は「……それで、この預言の『おとめ』とは誰のことであろうか。……アハズ王に『しるし』となるのであるから、王の知っている若い女のことでなければならない。王の后か、預言者の妻かであろう。ヘブル語では、『彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』となっているが、七十人訳以外の有力なギリシャ語訳旧約聖書は『あなた(アハズ王)は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』と訳している。ゆえにこの『おとめ』は王の后となる女であると解釈する註解者もいる……当時流布していた救世主の誕生の待望との関係から、メシヤをさしているのだとする見解(は)妥当ではない」(667ページ)と述べています。すなわち、この預言はイザヤの時代に関するものであるというのです。

新改訳のイザヤ書7章14節の注にも「イザヤ時代に生まれて来る男の子のことが念頭におかれている」と書かれています。

第三は処女懐胎の物語は福音書のマタイとルカの初めの章だけで扱われており、マルコ、ヨハネ、パウロなどはこれに言及していない点。これは必須の重要教理でないことを示しているともいえます。

第四は処女懐胎がメシヤの「無原罪誕生」の根拠とされているが、それは古代世界においては、子供をつくるのは男性のみであり、女性はただ子供を宿すにすぎないと信じられていたからで、今日の科学は、両親が共に子供の肉体および精神の構造を決定することを証明している。したがってイエスから父親を取り除いても、イエスを原罪のない存在とすることにはならない。
以上の点を挙げることができます。(広義昭『聖句Q&A』より)

ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)

人間の肉体が死ぬのは、人類始祖の堕落の結果?

堕落による死sQ:「統一教会は“肉体の死”を堕罪によって生じたものとは考えず、“自然死”だとしているが、創世記2章17節の『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』というみ言の“死ぬであろう”とは、人間の全存在に対して言われたのであって、肉体であろうが、霊人体であろうが、その人の固有の要素はすべて死ぬのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:一般的にキリスト教の教義学においては、堕罪による死は『原理講論』の主張するごとく第一義的には霊的死、すなわち“霊魂の神からの離反”ということで意見は一致しています。保守派の代表的人物ヘンリー・シーセンの『組織神学』にも、「霊的死とは霊魂が神から離されることである。エデンの園において宣告され、いま全人類の上にふりかかっている罪の刑罰は、第一義的にはこの魂の死なのである」(448ページ)と述べられています。しかし、では堕罪による死が“肉的死をも含むか否か”という問題になると様々な教説があり、一致が見られないのが現状です。

しかし、『原理講論』は、創世記2章17節の「取って食べると、きっと死ぬ」は文語訳では、取って食べた「その日」(英訳では、“in the day”新改訳では“その時”、ヘブル語ではbeyomベヨム)に死ぬとなっており、したがって、あくまでもアダムとエバは取って食べた“その日″あるいは“その時”に既に死んだと見なければなりません。しかし、彼らの肉体はその後、なおも生き続け、アダムは930歳(聖書的数字)まで生きたというのであるから、堕落によってもたらされた“死”とはまさしく“肉体の死”ではなく“霊的死”と見るべきであると主張しています。

そして、多くの神学者も実はこの見解を支持しています。日本基督教団出版局から出されている『教義学講座(1)』の「永生論」には、「キリスト教の中においても自由派の人々は、死をもって自然現象となし、罪の結果と考えない」(405ページ)とあり、さらに「人間論」の中には、「個々の人の罪が原因となって、人間に生物学的な意味での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。

生まれた以上死ぬのは人間の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の前であろうが、後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。……罪こそ死なのである」(239ページ)と述べており、堕罪による死は「肉体の死」よりも、より本質的には「霊的死」であることがはっきりと述べられています。(『聖句Q&A』より)

聖霊は女性神?

HOLYSPIRIT_16:「『統一原理』では、聖霊を女性神としているが、ヨハネによる福音書14章16節などに出てくる“助け主”と訳されている言葉は、ギリシャ語で“ホ・パラクレイトス”という。『ホ』という男性単数主格を表す冠詞で明らかなように、聖霊は男性格である。したがって、聖霊が女性だというのは聖書的見解ではない」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、聖霊なる存在が聖書においては、“主の霊”とか“神の霊”とか“み霊”などといろいろなかたちで呼ばれ、その働きも実に多様に表現されており、それが『原理講論』の重生論における聖霊とは必ずしも同じものを意味していないため、説明に若干の困難を要します。

結論から言って聖書全体における聖霊とは、広義の意味においては、人類の救済と新生のために個人と歴史に働く一切の神の霊的活動を意味します。その意味では、質問の指摘のように聖霊は必ずしも母性的働きのみに限定することはできないことを「統一原理」は認めます。

しかし、聖霊を女性格と見ることは決して不当なことではなく、初期のクリスチャンたちの多くが、聖霊を女性的存在として見ていた証拠がいくつも残っています。

そもそも、霊を意味するヘブライ語は“ルーアッハー”(ruach)という女性名詞が使われています。〈新約聖書によく見られる“プニューマ”(pneuma)というギリシヤ語は中性名詞となっています〉。さらに旧約聖書において、神の知恵(hokmah――ヘブル語原典では女性名詞)は女性の霊として描かれています(箴8、9)。その他、聖霊の働きは慰労と感動を与え人間の心をイエスに導く(コリントⅠ12:3)といった女性的働きを有していることが明らかです。

使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエスが「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
また、初期のシリア、もしくはエジプトのクリスチャンたちの産物である『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文が載っています。『マニの福音書』(The Gospel of Mani)には、父なる神の権能と母の祝福、および、子の善を讃える三位一体論の頌栄が見いだされますが、恐らくこれはマニ教徒たちが、その当時のあるクリスチャンの団体から学んだものであろうと考えられています。(統一神学より)このようにイエスの復活以後における聖霊の働き(狭義の聖霊)を女性神ととらえることは、決して非聖書的結論ではないといえましょう。(『聖句Q&A』より)

「イエスの復活」って?

イエス 復活 霊人体 使徒s:「統一原理」によれば、イエスの復活は霊的なものであったというわけですが、ルカによる福音書24章39節から43節の「わたしの手や足を見なさい。……霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」という言葉や、「イエスはそれを取ってみんなの前で(焼いた魚の一切れを)食べられた」という記事は、イエスの肉体復活を支持しているかのように思われますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:まず初めに、イエスの復活が霊的だったと思われるいくつかの根拠を挙げてみましょう。第一は、復活後のイエスの体は普通の肉体とは異なっていたという点です。“閉めきった部屋に、突然現れる”(ヨハネ20:19)、“道を歩いていた弟子への超自然的顕現”(ルカ24:15~31)等。

第二は、福音書よりも以前に書かれたパウロ書簡の中に、不思議にもイエスの肉体復活についてほとんど記されていないということです。その中でもコリント人への第一の手紙15章3節から8節が、復活に関する最古の伝承とされていますが、ここでパウロは、イエスが復活後、地上の人々に次々と現れた事実を述べています。初めはペテロに、次に十二弟子、500人の兄弟、ヤコブ、すべての使徒、そして最後にパウロにも現れたというものですが、この聖句に関しドイツの新約学者キュンメルは、次のように述べています。(要点のみ)

「パウロがここで、復活のイエスの目撃者を列挙する意図は、彼ら(弟子たち)と同じ復活のイエスと出会ったことを主張することによって、自分も使徒の資格があることを示そうとするところにある。ところでパウロのイエスとの出会いは、クリスチャン迫害のためダマスコヘ行く途上での、明らかな霊的出会いである(使9:1~9)。したがって、もし“パウロの出会い”と“弟子たちの出会い”が全く異なったものであったとしたならば、このパウロの主張に、異議を申し立てることのできた多くの人々が、まだ生きていたはずである」。

さらにキュンメルは、「今日、復活証人の目撃が“幻視”という学術用語で言い表されるのは、おそらく的確な仮説と思われる」(『新約聖書概論』日基、147ページ)と述べています。

さて問題の聖句ですが、ルカによる福音書24章40節の“手足を見せた”は、米国改訂標準訳や新改訳聖書では削除されており、一般に後世の加筆とされています。43節の“魚を食べた”も、ユノビオン(前で)アオトン(これを)エファゲン(イエスは食べた)は用語上、ルカの編集句とされているので、編集者(ルカ)の加筆と思われている部分です。36節から39節の“霊には肉や骨はないが″の部分は、他の福音書のイエスの海上歩行物語と全く同じ形式であり、ルカが海上歩行物語を採用しなかった代わりに、これを復活物語に組み込んだものと考えられている部分です。

一般的に、イエスの肉体を強調する聖句は、当時、“イエスは肉体をもってこられたはずはない”とする異端(仮現説)に対抗しようとして、その弁証の弾みから生じたものと考えられています。(『聖句Q&A』より)

ロマ書7章の「パウロの嘆き」における自己矛盾の描写は、イエスによる回心以前のことを指している?

イエス キリスト教 十字架 復活s:「統一教会では、ローマ人への手紙7章15節から24節のパウロの嘆きを例に挙げながら、『イエスによって救われたと主張するクリスチャンが相変わらず自己の矛盾性に悩んでいるということは、結局、その救いが完全なものではなかったことを示している』と言っている。

しかし、パウロがここで言いたいのは、7章25節から8章にかけて述べられているように『そのような自己矛盾に悩んでいた罪深い自分がイエスによって救われたのだ』ということなのであって、この自己矛盾の描写はイエスによる回心以前のことを指しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいのでしょうか。

:確かに指摘のとおり、この聖句をキリスト教の救いの限界性の根拠として用いるには若干説明が必要かと思います。実はこのパウロの嘆きが信仰をもつ以前のことなのか、それとも信仰者の現実を指しているのか、学者の間でもかなり意見が分かれているのです。

しかし、たとえこれが回心以前のことであったとしても、このような自己の内における罪との闘いが、イエス様との出会いによって完全に解消されたのかといえば、パウロは決してそのようなことは一言も言っていないのです。『新聖書註解』(いのちのことば社)には、次のように述べられています。

「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。

それに対し、高橋三郎は、……律法に対して死ぬということは、われわれの人生において、ただ一度だけであるのであって、それ以後は機械的に同じ状態が進行するという風にもし考えるとすれば、それは信仰生活の実相を完全に無視した議論と言わねばならない。宗教改革者がいみじくも言ったように、われわれキリスト者の生涯は、常に新たな悔い改めの連続である。そうだとすれば、律法に対して死ぬという体験的事実は、(ある決定的一時点において、一回限りの出来事として開始されたとしても)その後われわれの全生涯を通して繰り返されて行く継続的事態であると言わねばならない。

そして、『律法に対して(常に新たに)死ぬ』ということは、われわれが常に新たに、律法主義的生活に逆転する可能性をうちにはらんでいるということを前提としている」(新約2、226, 227ページ)。

これはキリスト者の救いがイエス様を信じた瞬間に何もかも完成してしまうのではなく、その後も常に罪と闘わねばならない事実をはっきり示しているといえましょう。しかも8章23節には既にみ霊によって新生した者にも、さらに体のあがないが残されていることがはっきりと記されています。

このようにパウロの嘆きを一般キリスト者の現実と理解することは、必ずしも不当な解釈でないばかりか、キリスト教の救いというものが、終末(再臨)時にもたらされる体のあがない(完全なる救い)という基準から見て、いまだ未完成であるとの「統一原理」の主張は、聖書的見地から見ても何ら誤っていないといえます。

〔厳密には、完全に救われる(原罪を脱ぐ)ということと、自己の矛盾性から解放される(堕落性を脱ぐ)ということは別問題であり、原罪が赦されているということが直ちに霊肉の何の葛藤もない状態を意味するわけではありませんが、『原理講論』では、キリスト教においていまだ肉的救い(原罪の清算)が残されている事実を明示するための一例として、このような表現が用いられていることを御承知願います〕。(『聖句Q&A』より)