人類歴史をたった6000年と見なしている?

日と月s浅見定雄氏の批判
人類歴史をたった6000年のことと見なしている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
『講論』で扱われている人類歴史六千年という数字は、あくまでも聖書の記述を中心とした摂理的数字であって、象徴的なものであり史実とは異なるものである。参考のため、以下に『講論』の思想的展開である『統一思想教材』(統一思想研究院)から一文を引用しておきたい「人類始祖出現六千年説には必ずしも固執しない。六千は六数に摂理的な意味があるのであり、実際には数万年以上あると見る」(208ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)

人間の肉体が死ぬのは、人類始祖の堕落の結果?

堕落による死sQ:「統一教会は“肉体の死”を堕罪によって生じたものとは考えず、“自然死”だとしているが、創世記2章17節の『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』というみ言の“死ぬであろう”とは、人間の全存在に対して言われたのであって、肉体であろうが、霊人体であろうが、その人の固有の要素はすべて死ぬのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:一般的にキリスト教の教義学においては、堕罪による死は『原理講論』の主張するごとく第一義的には霊的死、すなわち“霊魂の神からの離反”ということで意見は一致しています。保守派の代表的人物ヘンリー・シーセンの『組織神学』にも、「霊的死とは霊魂が神から離されることである。エデンの園において宣告され、いま全人類の上にふりかかっている罪の刑罰は、第一義的にはこの魂の死なのである」(448ページ)と述べられています。しかし、では堕罪による死が“肉的死をも含むか否か”という問題になると様々な教説があり、一致が見られないのが現状です。

しかし、『原理講論』は、創世記2章17節の「取って食べると、きっと死ぬ」は文語訳では、取って食べた「その日」(英訳では、“in the day”新改訳では“その時”、ヘブル語ではbeyomベヨム)に死ぬとなっており、したがって、あくまでもアダムとエバは取って食べた“その日″あるいは“その時”に既に死んだと見なければなりません。しかし、彼らの肉体はその後、なおも生き続け、アダムは930歳(聖書的数字)まで生きたというのであるから、堕落によってもたらされた“死”とはまさしく“肉体の死”ではなく“霊的死”と見るべきであると主張しています。

そして、多くの神学者も実はこの見解を支持しています。日本基督教団出版局から出されている『教義学講座(1)』の「永生論」には、「キリスト教の中においても自由派の人々は、死をもって自然現象となし、罪の結果と考えない」(405ページ)とあり、さらに「人間論」の中には、「個々の人の罪が原因となって、人間に生物学的な意味での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。

生まれた以上死ぬのは人間の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の前であろうが、後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。……罪こそ死なのである」(239ページ)と述べており、堕罪による死は「肉体の死」よりも、より本質的には「霊的死」であることがはっきりと述べられています。(『聖句Q&A』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)