平成10年(1998年)4月15日 中和新聞
統一教会の回答 - 総務局
「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(下)
『原理講論』のモーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する記述は、しばしば統一教会に反対する人たちによって意図的に曲解され、統一教会を攻撃するために使われる部分です。先回は、「統一原理の教えの中心は怨讐(おんしゅう)を愛して、サタンを自然屈伏し、神様の世界を復帰することである」という観点から述べましたが、今回は具体的にヤコブとモーセの路程をたどりながら、背後に隠された神様の摂理に迫ります。
一. 「万物復帰」とモーセ路程(エジプト人から財産を取ったこと)について
『原理講論』に「モーセはまた、エジプトから多くの財物を取って出発したのであるが、これも、将来にあるはずのイエスの万物復帰を、前もって表示されたのであった」(366㌻)とあります。
思想的に偏向した弁護士らにより指導され、当法人を訴えた裁判の原告の主張は、この部分を根拠にして、統一教会が万物復帰の教義の実践として、サタン世界から財物を奪ってくる霊感商法を行っているというのです。
ここでいう万物復帰とは、『原理講論』のアダム家庭の「万物を復帰する」(297㌻)ことと同義であり、その詳しい意義については既に陳述書35~39㌻に説明しました。
人間始祖が堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ書一七章9節)立場にまで落ちたので、人間が自分より価値ある万物を供えて、神の子として本来の人間としての価値を取り戻していくことが「万物を復帰する」ことの意義です。出エジプトの際に、イスラエル民族のもとに多くの万物が集まったことは、人間がその本来の価値を復帰することによって自然に万物が主管されてくることを象徴しています。
「真の愛をもっている夫婦が愛し合って生きる家庭には美しい花が咲くし、美しい鳥と美しい動物が近づき、共に住みたいという本性の動きがあるのです。そのような家庭の人には、自然に万物が懐かしく思ってついてくるので、その人には豊かな生活をするなといっても、豊かな生活ができるのです」(40日研修教材シリーズ『神を中心とする生活』185㌻)という文鮮明先生の説教のように、本来の神との関係を復帰した人間は、万物に対する主管性を復帰すること(万物の復帰)ができるというのです.
したがって本来の「万物の復帰」は、努力と精誠を尽くす結果として集まるのであって、無理やり奪い取るものでは決してありません。当時のイスラエルのような方法は前述したように、あくまでも旧約段階における時代的摂理であり、本来の方法ではありません。モーセ路程は、人間が本来の位置と価値を取り戻せば、万物が自然に集まってくるということのあくまでも象徴的表現なのです。
事実、実体摂理を歩まれたイエス路程においては、そのような略奪的方法で万物が集まったのでは決してなく、イエスの教えに感動した人々が、自ら喜んで万物を携えてきた(使徒行伝四章三二~三五節)のです。すなわち「各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自らの心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリント人への第二の手紙九章7節)と聖書にあるごとくです。
モーセ路程で行われた内容は、あくまでもイエスの路程の表示であり、イエスの実体路程がそのまま完全に現れているのではありません。『原理講論』でいう「表示」という言葉はそのような、いわば象徴的であることを意味しているのです。
二.モーセの殺人とヤコブの知恵について
『原理講論』に、「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである。モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人はだれでも悪だと言うであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった」(541㌻)とあります。
統一教会に反対する人たちは、このようなみ言葉を根拠にして、統一教会が常識や良心に反する違法行為を正当化して、そのような教義に基づいて違法な霊感商法を行っていると主張しています。
同じような例としてヤコブの知恵があります。ヤコブが兄エサウをだまして長子権を奪ったことを例として、統一教会が嘘をついて、だまして、詐欺的な方法で、伝道したり経済活動をしているとして、その根拠は、このような教義に基づいていると主張しています。
まず、モーセが行った殺人の問題について、以下のように反論します。
モーセ路程では、聖番に書いてあるとおり、奴隷であるイスラエルの同胞たちを虐待し、迫害してくるエジプト人を、結果的にはモーセが殺すことによって摂理がなされました。『原理講論』は、この同胞愛に燃えたモーセを見て、そのときイスラエル民族が彼を中心に一つになるかならないかということが重大な問題であったと述べています(357㌻)。
けれども、これはあくまでもモーセ路程という形象型の摂理であって、将来来られるイエスを中心に人類が一つにならなけれぱならないということを表示している象徴的表現です。つまりこのことは、やがてイエスが来られたときに、敵を憎み、迫害する者を殺すのではなくて、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五章44節)というイエスの教えを中心にして、信徒たちが一つになるという形で実現したのです。
ですから、モーセ路程における殺人とは、どこまでも旧約時代において現れた摂理であって、イエス時代の実体路程を完全に表しているものではありません。
そして、現代の摂理とは、イエスの時代と同様に、実体路程を歩む摂理であるために、どこまでも「怨讐を愛する」ということによってなされるのです。
以上のことから、「原理講論」の内容は、モーセの殺人を教理として正当化しているというのではなく、聖書に現れている内容を宗教的見地に立って解説を加えているにすぎないのであり、ましてや教理でこれを奨励しているがごとき彼らの主張は言語道断です。
結果的に、イスラエル民族が奴隷の身分でそのままエジプトにいるよりも、モーセを中心に出エジプトしてカナンの地へと帰ったことが、メシヤ(イエス)を迎えるという神の摂理に対してよりプラスとなったという観点から見て、相対的に善だと評価できるという、歴史に対する解釈がここでは(『原理講論』541㌻)述べられているのです。
以上のことから、『原理講論』のある一部分の表現だけをあげつらって判断するなら、物事を正しく理解することはできません。『原理講論』の全体の論旨を酌み取って判断すべきなのです。
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次に、ヤコブがエサウをだました問題について、以下のように反論します。
ヤコブが歩んだ路程においては、結果的にヤコブがエサウをだますという形によって長子権(家督相続権)を奪ってしまいました。しかし、これはあくまでもヤコブ路程という象徴型(蘇生型)として現れてきたものでああて、将来来られるイエスが、真の愛の主管による「自然屈服」を通してカイン圏から長子権を復帰することを表示している象徴的表現なのです。
同時にヤコブが知恵を使ってエサウをだましたことが、やがてエサウの恨みを買い、ヤコブが相続するはずであったカナンの地から追放され、21年のハラン苦役路程の原因となったのです。だから本来ヤコブは「自然屈服」の道を歩んで、だますことなくエサウから自然に長子権をもらえる道があったと考えられます。
神の摂理を進めるにおいて、「自然屈服」(心から喜んで一つとなること)が大原則であり、それはだますことや、殺すことなどによりなされるのではありません。最終的な「自然屈服」という結論から見れば、一時的にはだまして成功したかに見えるヤコブは、そのことによってかえって恨みを買い、その恨みを解かねばならないという、もっと困難な課題を抱えたということです。
ヤコブやモーセの時代は神の復帰摂理は、象徴型(蘇生型)、形象型(調整型)の摂理であるので、本来の神の摂理のあるべき姿を完全に現してはいません。だから、それらの路程で殺人やだますことが行われたとしても、それが実体型(完成型)の蕩減復帰の摂理の時代である現代の摂理において行われるべきであるというようなことではありません(注)。むしろ本来は実体型の蕩減復帰においては「自然屈服」があるべき姿であることを思うと、そのようなだましたり殺したりすることはあってはならないことなのです。
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以上のような一見矛盾する主張は、神の摂理やみこころがいずこにあるかを知らなければ、到底理解することができない内容です。したがって統一教会に反対する人たちは、統一教会に対する不当な請求を正当化するために、『原理講論』の一部を歪曲(わいきょく)し、勝手に解釈したことに基づいているのです。
(注)象徴型、形象型、実体型の歴史発展については、『原理講論』283㌻以下を参照。