嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(下)

平成10年(1998年)4月15日 中和新聞  
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(下)

『原理講論』のモーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する記述は、しばしば統一教会に反対する人たちによって意図的に曲解され、統一教会を攻撃するために使われる部分です。先回は、「統一原理の教えの中心は怨讐(おんしゅう)を愛して、サタンを自然屈伏し、神様の世界を復帰することである」という観点から述べましたが、今回は具体的にヤコブとモーセの路程をたどりながら、背後に隠された神様の摂理に迫ります。

一. 「万物復帰」とモーセ路程(エジプト人から財産を取ったこと)について

『原理講論』に「モーセはまた、エジプトから多くの財物を取って出発したのであるが、これも、将来にあるはずのイエスの万物復帰を、前もって表示されたのであった」(366㌻)とあります。
思想的に偏向した弁護士らにより指導され、当法人を訴えた裁判の原告の主張は、この部分を根拠にして、統一教会が万物復帰の教義の実践として、サタン世界から財物を奪ってくる霊感商法を行っているというのです。
ここでいう万物復帰とは、『原理講論』のアダム家庭の「万物を復帰する」(297㌻)ことと同義であり、その詳しい意義については既に陳述書35~39㌻に説明しました。
人間始祖が堕落して、万物よりも劣った(エレミヤ書一七章9節)立場にまで落ちたので、人間が自分より価値ある万物を供えて、神の子として本来の人間としての価値を取り戻していくことが「万物を復帰する」ことの意義です。出エジプトの際に、イスラエル民族のもとに多くの万物が集まったことは、人間がその本来の価値を復帰することによって自然に万物が主管されてくることを象徴しています。
「真の愛をもっている夫婦が愛し合って生きる家庭には美しい花が咲くし、美しい鳥と美しい動物が近づき、共に住みたいという本性の動きがあるのです。そのような家庭の人には、自然に万物が懐かしく思ってついてくるので、その人には豊かな生活をするなといっても、豊かな生活ができるのです」(40日研修教材シリーズ『神を中心とする生活』185㌻)という文鮮明先生の説教のように、本来の神との関係を復帰した人間は、万物に対する主管性を復帰すること(万物の復帰)ができるというのです.
したがって本来の「万物の復帰」は、努力と精誠を尽くす結果として集まるのであって、無理やり奪い取るものでは決してありません。当時のイスラエルのような方法は前述したように、あくまでも旧約段階における時代的摂理であり、本来の方法ではありません。モーセ路程は、人間が本来の位置と価値を取り戻せば、万物が自然に集まってくるということのあくまでも象徴的表現なのです。
事実、実体摂理を歩まれたイエス路程においては、そのような略奪的方法で万物が集まったのでは決してなく、イエスの教えに感動した人々が、自ら喜んで万物を携えてきた(使徒行伝四章三二~三五節)のです。すなわち「各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自らの心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリント人への第二の手紙九章7節)と聖書にあるごとくです。
モーセ路程で行われた内容は、あくまでもイエスの路程の表示であり、イエスの実体路程がそのまま完全に現れているのではありません。『原理講論』でいう「表示」という言葉はそのような、いわば象徴的であることを意味しているのです。

二.モーセの殺人とヤコブの知恵について

『原理講論』に、「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである。モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人はだれでも悪だと言うであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった」(541㌻)とあります。
統一教会に反対する人たちは、このようなみ言葉を根拠にして、統一教会が常識や良心に反する違法行為を正当化して、そのような教義に基づいて違法な霊感商法を行っていると主張しています。
同じような例としてヤコブの知恵があります。ヤコブが兄エサウをだまして長子権を奪ったことを例として、統一教会が嘘をついて、だまして、詐欺的な方法で、伝道したり経済活動をしているとして、その根拠は、このような教義に基づいていると主張しています。
まず、モーセが行った殺人の問題について、以下のように反論します。
モーセ路程では、聖番に書いてあるとおり、奴隷であるイスラエルの同胞たちを虐待し、迫害してくるエジプト人を、結果的にはモーセが殺すことによって摂理がなされました。『原理講論』は、この同胞愛に燃えたモーセを見て、そのときイスラエル民族が彼を中心に一つになるかならないかということが重大な問題であったと述べています(357㌻)。
けれども、これはあくまでもモーセ路程という形象型の摂理であって、将来来られるイエスを中心に人類が一つにならなけれぱならないということを表示している象徴的表現です。つまりこのことは、やがてイエスが来られたときに、敵を憎み、迫害する者を殺すのではなくて、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五章44節)というイエスの教えを中心にして、信徒たちが一つになるという形で実現したのです。
ですから、モーセ路程における殺人とは、どこまでも旧約時代において現れた摂理であって、イエス時代の実体路程を完全に表しているものではありません。
そして、現代の摂理とは、イエスの時代と同様に、実体路程を歩む摂理であるために、どこまでも「怨讐を愛する」ということによってなされるのです。
以上のことから、「原理講論」の内容は、モーセの殺人を教理として正当化しているというのではなく、聖書に現れている内容を宗教的見地に立って解説を加えているにすぎないのであり、ましてや教理でこれを奨励しているがごとき彼らの主張は言語道断です。
結果的に、イスラエル民族が奴隷の身分でそのままエジプトにいるよりも、モーセを中心に出エジプトしてカナンの地へと帰ったことが、メシヤ(イエス)を迎えるという神の摂理に対してよりプラスとなったという観点から見て、相対的に善だと評価できるという、歴史に対する解釈がここでは(『原理講論』541㌻)述べられているのです。
以上のことから、『原理講論』のある一部分の表現だけをあげつらって判断するなら、物事を正しく理解することはできません。『原理講論』の全体の論旨を酌み取って判断すべきなのです。

次に、ヤコブがエサウをだました問題について、以下のように反論します。
ヤコブが歩んだ路程においては、結果的にヤコブがエサウをだますという形によって長子権(家督相続権)を奪ってしまいました。しかし、これはあくまでもヤコブ路程という象徴型(蘇生型)として現れてきたものでああて、将来来られるイエスが、真の愛の主管による「自然屈服」を通してカイン圏から長子権を復帰することを表示している象徴的表現なのです。
同時にヤコブが知恵を使ってエサウをだましたことが、やがてエサウの恨みを買い、ヤコブが相続するはずであったカナンの地から追放され、21年のハラン苦役路程の原因となったのです。だから本来ヤコブは「自然屈服」の道を歩んで、だますことなくエサウから自然に長子権をもらえる道があったと考えられます。
神の摂理を進めるにおいて、「自然屈服」(心から喜んで一つとなること)が大原則であり、それはだますことや、殺すことなどによりなされるのではありません。最終的な「自然屈服」という結論から見れば、一時的にはだまして成功したかに見えるヤコブは、そのことによってかえって恨みを買い、その恨みを解かねばならないという、もっと困難な課題を抱えたということです。
ヤコブやモーセの時代は神の復帰摂理は、象徴型(蘇生型)、形象型(調整型)の摂理であるので、本来の神の摂理のあるべき姿を完全に現してはいません。だから、それらの路程で殺人やだますことが行われたとしても、それが実体型(完成型)の蕩減復帰の摂理の時代である現代の摂理において行われるべきであるというようなことではありません(注)。むしろ本来は実体型の蕩減復帰においては「自然屈服」があるべき姿であることを思うと、そのようなだましたり殺したりすることはあってはならないことなのです。

以上のような一見矛盾する主張は、神の摂理やみこころがいずこにあるかを知らなければ、到底理解することができない内容です。したがって統一教会に反対する人たちは、統一教会に対する不当な請求を正当化するために、『原理講論』の一部を歪曲(わいきょく)し、勝手に解釈したことに基づいているのです。
(注)象徴型、形象型、実体型の歴史発展については、『原理講論』283㌻以下を参照。

嘘や殺人は原理的に肯定されるか?(上)

平成10年(1998年)4月1日 中和新聞 
統一教会の回答 - 総務局

「ヤコブ、モーセ路程の教訓」に対する誤った解釈を正す(上)
今回は、『原理講論』の中で、モーセの殺人とヤコブの嘘(うそ)に関する部分を取り上げてみます。この部分はよく統一教会に反対する人たちや誤解する人により、意図的に曲解されて統一教会を攻撃するために使われる部分です。神のみこころについて語ったものを、反社会的、違法な内容を教えるものだと解釈するその人たちの意図や誤解を正していかなくてはなりません。

 宗教の経典の多くは矛盾内包

教会に反対する人たちが、ヤコブやモーセ路程の『原理講論』の解説を引用して、あたかもそれらが統一原理の教えであり、統一教会が殺人や略奪行為、またはヤコブの嘘などを正当化しているがごとく主張し、統一教会が反社会的行為を教理上において奨励していると主張していますが、それはまさに自分たちの不当な訴えを正当化するために、意図的に曲解した解釈にほかなりません。
それらの人たちは、宗教書における言語にはさまざまな問題があることを全く無視しています。そもそも宗教における経典(教祖の言葉を含む)や教理霄には。一見矛盾すると思われる表現が数多く見いだされます。そのためにそれらの表現を調和させ、その表現上の矛盾を解消するために何らかの解釈施す必要性が生じてくるのです。
例えば、キリスト教の経典である聖書においても、イエス・キリストは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書五章9節)と教えていますが、一方では為を教理上において奨励し「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っている・:そうではない。むしろ分裂である」(ルカによる福解音書十二章51節)などと、全く矛盾すると思われることを述べています。
また、「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ぱれるであろう」(マタイによる福音書五章18~19節)と語る一方、自らは「安息日の主である」(同一二章8笳)と称して安息日の戒律を破ったり、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」(ルカー六章9節)などと教えたりしているのです。

また後にも述べますが.マタイー五章4節では「父と母とを雅又」という神の戒めを奨励しながらも、ルカー四章26節では「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、わたしのもとに来るのでなければ.わたしの弟子になることはできない」などと、あたかも父母を捨てることを奨励するかのごとく語っているのです。
以上の様に、経典や教理解説書の中には一見矛盾すると思われる表現が少なからず見受けられるので、その見かけ上の矛盾を解消するために「神学(言語の解釈)」がどうしても必要となってきたのです。その結果、キリスト教では厖大(ぼうだい)な神学書や注解書が生れたのでした。
このように宗教的言語にさまざまな学問的釈義問題があるにもかかわらず、反対する人たちはそのようとな諸事情を無視し、宗教法人世界棊腎教統一神霖塰=(以下当法人という)の発行している出版物の言語を、当法人にその正確な概念規定や意義を確認することもなく、自分かってな意図的解釈を施し、当法人を誹謗(ひぼう)中傷しようと画策しているとしか思えません。

神は人間の成長と進歩に即して摂理

それではそれらの人たちが問題にしているヤコブとモーセ路程に関して、以下に反論します。
神の救いの摂理の本質は「サタンを自然屈伏」してなされるもので、決して強制や何らかの策略またはごまかしによってなされるものではありません。「サタンを自然屈服」するとは、中心人物の愛と真理と精誠によって、霊界のサタンとそれに相対する地上の人たちが心から感動して、敵対していたものが神の愛により一つとなり、神を中心とした人間世界が取り戻されていくことにほかなりません。メシヤとはまさにそのような神を中心とした人間関係を取り戻すために、来られる方なのです。
したがって、そのような「サタンが自然屈伏する」過程、すなわちサタンやサタンの側に立つ人たちが自然に本心で納得して心から屈伏する過程で、殺人やだまし、あるいは脅迫といった強制的、暴力的手段が取られることは、決して摂理の本来的形ではありません。しかし神の救いの摂理は、人類の歴史的心霊と知能の成長と進歩に即して行われるものであり、そのような段階的摂理を『原理講論』は、「サタンを屈服してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった」(342㌻)と記しています。
したがってあくまでも、ヤコブ路程は象徴型(蘇生型)、モーセ路程は形象型(長生型)摂理なのであり、イエス路程に至って初めて実体型(完成型)として展開されたというのです。したがってヤコブやモーセが歩んだ路程とは、どこまでも象徴的・形象的な表示であって、本来あるべき神の実体的な摂理をそのまま表しているわけでは決してありません。
ノア家庭における摂理においても、統一教会に反対する人々は、『原理講論』の。「裸を恥じることは罪であった」との教説(311㌻)を盾にとって、「統一教会は裸になることを奨励している」などといった的はずれな批判をしているわけですが、これに閧しても『原理講論』は、「裸を恥ずかしがることがだれにとっても罪になるのであろうか。そうではない。……アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである」(312㌻)と、はっきりと時代的限定的摂理であったことを明記しています。
このような旧約聖書の記述に関する歴史的段階的解釈は、決して統一教会だけに限ったことではありません。キリスト教においても同様な見解が見られます。『聖書事典』(日本基督教団出版局)31-32㌻には、次のように述べられています。
「……イスラエル民族を通してなされた神の啓示が、今日から見て多くの欠陥をもっていることは否定することができない。その表現において原始的・神話的であるものが少なくない。神の属性、神の意志行動の表現がすべて人間的であるばかりでなく、神に対する人間の態度もあたかも人間の主君や裁判官や父母に対するようにあらわされている。
けれども旧約聖書をすこし注意して読む人は、神の啓示がイスラエル民族の歴史の進展、その文化の発達に伴って展開され、次第に高く深くなっていったことを認めざるを得ないであろう。すなわちイスラエル民族の初期の遊牧時代から、カナン移住後の農耕時代を経、更に王朝時代からアッシリヤ、バビロニヤとの国際関係を経て王国の滅亡、人民の追放捕囚と、移り変わったイスラエル民族の歴史は、その間に起った幾多の預言者により、また先進諸国民との接触交渉によってイスラエル人民の知識思想が次第に発達進歩し、これと同時に彼らの道徳も宗教もともに進歩発達したことを示しているのであって、我々はここに神の啓示の進展を認めざるを得ないのである。
もちろん、これは神の知識思想が進歩発達したことを意味するものではなく、神が選民イスラエルの知的・宗教的発展に伴ってその啓示を展開されたことを意味するのである。われわれが旧約聖書を年代順に注意して読むならば、その思想にも、道徳にも、信仰にも、低きより高きに、物質的より精神的に、肉体的より霊的に進歩発展していった跡を認めることができるであろう。けれどもなお、旧約だけの範囲では神の啓示も、結局、人間の人格、惷、道徳の不完全によって制限されざるを得なかった」

 統一教会の教えの中心は「愛と許し」

ヘンリー・シーセンの『組織神学』190㌻にも、今日の倫理道徳観念から見て理解できない旧約聖書の記述問題に対して、「……キリスト教以前の時代には、絶対的でなく相対的な意味で正当と認められたこともいくつかある」とか「みなごろしの戦争は、腐った手足を切断することによって、後世のへブル民族を救おうとされる、慈悲深い神の外科手術にすぎなかった」(同191㌻)などと述べています。
このように旧約摂理はあくまでも、その時代のみに許された時代的摂理であって、今日も同様にすべき普遍的倫理道徳基準を述べているのではありません。自然屈服の本質とはあくまでも愛することです。したがって実体的摂理を歩まれたイエス様は、敵を暴力的に打ち負かすのではなく、逆に「汝の敵をも愛せよ」と教えられたのです。
同様に文鮮明先生の教えも、「怨讐(おんしゅう)を愛せよ」という思想に満ちあふれており、その教説中に、殺人や略奪、だましなどを自然屈伏の方法として推奨する表現はありません。文先生はその説教の中で「天国に入ろうとするならば、怨讐を愛さなければなりません」「神様が怨讐を打ち殺すのではなく、怨讐を愛したという条件……を立てねばなりません」(1986年2月22日、韓国ソウルでの説教)と語られており、最終的にいかなる敵をも愛し許すことが、復帰摂理の本質であることを強調されています。
このように統一教会は、文先生の教えに藁つき、その信者に対して.神様の頽う愛と人格をもつ者となり、怨讐ともいうべき人々に対しても無条件の許しと愛と精誡を尽くし、それらの人々が、自然に背後にいる神様を信じ、神様の愛を受け入れるようになり、最終的に敵対するすべてのものが和解し、一つとなっていくことができる「自然屈伏」の道を教えているのです。      (「下」に続く)

 

韓国における〝反″統一教会の第一人者による謝罪文

 統一教会に対する謝罪文   -卓 明煥-

 本人は多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会に対し、出版物(統一教、その実相)、スライド(これが統一教だ)、講演会、記者会見等を通して、統一教会が、非倫理的集団、政治集団、新型共産主義、邪教集団であると批判してきました。

 しかし、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、最近、名誉棄損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたのを契機として、新しい角度から、広範囲な資料を収集、総合検討した結果、本人が統一教会に対し批判した内容中、事実でない部分があることを確認、次のように訂正釈明します。

 1、非倫理的な集団問題

 本人は、統一教会の創始者、文鮮明氏が一九五五年七月四日社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的、淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日宣告公判において無罪で釈放されたのを知るようになりました。

 これ以外、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します。

2、政治集団問題

本人は、この間、統一教会を政治集団と規定、批判してきたが、これは事実ではないことが明らかにされたので、ここに訂正します。

 3、新型共産主義の問題

 本人は統一教会を、新型共産主義集団であると批判してきたが、これは事実でなかったので、ここに釈明します。

 以上、三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した資料に、多くの間違いがあり、本人が統一教会を否定的に批判することによって、統一教会に被害を与えてきたことに対して、深甚なる謝罪の意を表し、今後は再びこのようなことをしないことを確約いたします。

 ※この謝罪文は一九七九年九月十日付

朝鮮日報と韓国日報、

九月十一日付、ソウル新聞二只郷新聞、東亜日報、新亜日報に載せられている。

-以下、謝罪文についての報道紹介-

統一教会に謝罪する

『週刊宗教』一九七九年九月二十日付

 新興宗教問題研究所の所長卓明煥氏が、彼の今までの統一教会に対する批判内容が、事実と違うことを確認し、「このような誤りを犯したことに対して、統一教会側に謝罪する」と発表した。

 十日、十一日、国内七大日刊紙に発表した謝罪文を通して、卓明煥氏は、「多年の間、新興宗教問題研究所を運営してきながら、統一教会を『非倫理的集団』『新型共産主義』『政治集団』『邪教集団』であると批判したけれども、本人に批判の資料を提供した一部の統一教会離脱者たちが、名誉棄損等、犯罪行為で拘束起訴されたことを契機として、新しい角度から広範囲な資料を収集、検討した結果、本人の批判内容中、事実ではない部分があったことを確認し、訂正、釈明する」と語った。

 卓明煥氏は、自分の批判内容中、間違った部分を具体的に言及し、・非倫理的な集団、・政治集団、・新型共産主義の邪教集団うんぬんの批判が、根本的に誤りであったことを是認した。

 特に卓氏は、彼が批判した統一教会の非倫理的集団うんぬんに対して、「本人は統一教会の創始者文鮮明氏が、一九五五年七月四日、社会風紀紊乱嫌疑で、拘束起訴されたものと知って、統一教会を非倫理的淫乱集団と断定、批判してきたところ、調査の結果、当時の事件は兵役法違反嫌疑で起訴されたが、同年十月四日、宣告公判において無罪で釈放されたことを知るようになり、それ以外に、統一教会をめぐって、問題とされてきた淫乱集団うんぬんは、その根拠がないものと確認、ここに訂正します」と明らかにした。

 卓明煥氏はまた、「以上三つの項目以外に、一部の統一教会離脱者たちが提供した間違った資料により、本人が統一教会を否定的に批判することによって統一教会に被害を与えたことに対して、謝罪の意を表して、再びこのようなことをしないことを確約します」と明らかにした。

 経緯

 統一教会はこの間、あらゆる批判勢力に対して、一貫して沈黙する政策をとってきた。その代わり、統一教会に対する「淫乱集団≒政治集団」「邪教集団」「異端」「新型共産主義」などとの批判には、学界と宗教界教役者を対象として、統一原理公聴会を開き、教団認識を新しくしたり、国際的な勝共運動と夏期と冬期を利用した大々的な伝道活動で応戦してきた。しかし、度を越した批判に対して「統一教会側か沈黙で一貫するのは、その事実を是認するものではないか」という外部の誤解を買うことになったり、また教会内でも前線牧会者たちが、伝道に甚大な支障をきたしているので、一日も早く汚名をすすがなければならないという要求が、嵐のごとく起こり、ある対策を講じなければならないと、重大決断を下すようになったという。

 このような状況において卓明煥氏は、最近『統一教、その実相』という本を発刊した。本の内容は相変わらず統一教会に対する事実歪曲、針小棒大等で、誤りが多く、教会全体はもちろん、現存する統一教会関係人の名誉を毀損していて、統一教会側は次第に白黒(善悪)をつけるつもりで、反証に必要な資料を収集、これに立脚して名誉毀損で提訴する方針を固めるや、卓氏が謝罪文を出すことになったというのである。

 卓明煥氏はその間、統一教会に関して出版物、スライド、講演会、記者会見等、機会あるごとに辛辣に批判してきた。しかし、彼は十余年間新興宗教を研究して、それなりにこの道の権威者として認定を受ける立場に立ち、宗教研究が単なる風土にだけ迎合する偏向的なことと、歪曲された先入観や逆技能面を取り扱うことが全部ではないという学者的良心に促され心的変化をもたらしたようだ。それで従来の研究姿勢を是正しようとしたところ彼に資料を提供してくれた人たちの拘束を契機として全面再検討した結果、今まで自分の統一教会に対する研究発表が間違っていたことを発見するようになったものと、解釈できる。

破廉恥な卓明炊氏

『週刊宗教』一九八〇年一月十六日付

 国際宗教問題研究所の卓明煥所長が、その間新興宗教問題研究所という看板をもって、既成教会と新興宗教を二重に欺瞞し、いろいろの手法で破廉恥な行為を業としてきた行跡が暴かれ、教界を驚かしている。

 このような事実は、卓氏が七九年九月、統一教会に『謝罪文』を発表して以来、最近再び謝罪文発表以前と同じ内容の誹謗行脚を開始することによって、統一教会側から、その間隠しておいた謝罪文発表前後の事情を明白にされることによって、暴かれた。

 統一教会の一関係者朴吉年氏によれば、最近卓氏が『統一教会の実像と虚像』という本の発刊と雑誌投稿、集会講演で一方的な誹謗を業としていることに対して「その間卓氏の過ちを悔い改めて善くなることだけを待っていたが、少しの反省もなく教界を愚弄する処事を継続していて、これ以上韓国教界が彼の二律背反的行為に眩惑されることを防ぐために、やむを得ず全貌を明白にするほかない」とその経緯を語った。

 彼によれば、去る七六年三月ごろ、急に卓氏から電話で会おうと提議したのち△この間統一教会に対して故意に非難謀略をし、済まない。これからは中傷謀略、人身攻撃はしない。そして、新興宗教より既成宗教に問題がもっと多い。△これから先、既成教会の復興会、修道院、神学校等を本格的に批判しなければならないが、その場合、既成教会で問題が生じるようなので、統一教会で生計を保障してくれと要請してきたというもの。

 そこで統一教会側では△統一教会の健全な批判は歓迎する。批判を受けてこそ成長するものではないか。

 △既成教会に対する批判も建設的で、肯定的な批判にとどまれ。また生計費を保障することはできない。貴下の新興宗教問題研究所を、国際宗教問題研究所に変えて、韓国教界全体の発展とキリスト教の連合に寄与することのできる学問的研究をするならば、研究費は支援する用意があると答え、統一教会のこの条件を卓氏が受け入れ、七六年七月二十三日午後四時、ソウル西部駅の裹、中林洞所在、国一飯店で、卓氏と彼と一緒に仕事をするK某氏、統一教会側二名が同席する場で、卓氏の要求どおり月三十万ウォンずつの一年分研究費三〇〇万ウォンを支給したということである。

 しかし、卓氏は統一教会に対して悪意的非難を継続するだけでなく、看板も変えないで批判冊子をつくる等、数多い欺瞞行為を継続したので、七九年九月統一教会側から最後の対策として、卓氏の言行と冊子を集め、詐欺および名誉毀損で告訴する方針を固めるや、この事実を知った卓氏が△告訴はいつでもすることができるではないか、贖罪する意味で謝罪文を出す。△謝罪文を出したあとでも、私の態度が変わらなかったら、いつ告訴してくれても受けるつもりだといいながら、自筆で覚書と謝罪文を書いて統一教会側に渡したというのである。

 ところで、当時卓氏は国内各新聞紙面を通じて、謝罪文に、「多年の間、統一教会を批判してきた内容が事実と違い、本人の批判で統一教会に被害を与えたことに対して、深甚な謝意を表し、今後、再びこういうことがないことを確約する」と明白にした。

 卓氏は、この謝罪文でまた、謝罪文発表の動機を「本人に統一教会の資料を提供してきた人たちが、名誉毀損等、犯罪嫌疑で拘束起訴されたことを契機として、広範囲な資料を再び入手、総合分析した結果、本人の批判に間違った部分を発見するようになった」と語った。

 自筆で謝罪文を書いた卓氏は、その後「強制されて本人の意志に反して書いた」と主張し、それに対して統一教会側は「平素遺言状を携帯し、京郷(首都と地方)各地を回りながら、命を賭けて統一教会批判運動をするという彼が、強制されて謝罪文を書いたと弁明することは自家撞着」であると主張している。

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?②

失楽園の物語に隠された意図とはなにか?

創世記の第3章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語は、キリスト教における「原罪」の教義の基礎となっている。この物語の意味する内容については古来よりさまざまな解釈がなされてきたが、それを解く重要な手がかりとして、この物語の「著者の意図」を探るという方法がある。「聖書の著者って、神様じゃないの?」という敬虔な方もおられるだろう。もちろんそれも一つの見方だが、ここではより現実的・歴史的観点からこの物語の意味を探ってみようと思う。

これは聖書批評学という学問がとる手法で、聖書の各部分を書いた著者の年代、背景、思想的傾向、想定されていた読者、語ろうとしたメッセージの内容、などを研究するものだ。聖書を歴史的背景に照らして読む利点とは何だろうか?聖書は比喩や象徴に満ちている。そして一つひとつのシンボルが意味する内容は文化圏ごとに異なっている。たとえば日本では「湯水のごとく使う」と言えば、どこにでもたくさんある物のようにムダ遣いすることを意味するが、砂漠で生活する人々にこの言葉を直訳したら、全く正反対の意味にとらえるはずだ。したがって、我々とは時代も文化背景も違う著者が書いた文献を読むときには、とんでもない間違った解釈をする危険があることが分かる。逆に著者の生きていた時代的・文化的背景を知っていれば、一見何を言っているのか分からない記述も、その意味するところが分かろうというものだ。

旧約聖書の批評学によれば、創世記が含まれている「モーセ五書」は、J・E・P・Dという4つの資料を編纂して作られたというのが定説になっていて、創世記の第3章はこの中で最も古い時代の「J資料」(紀元前850年頃)に属するものだと言われている。この「J資料」というのは、神様を「ヤハウェ(Jahweh)」と呼んでいることから、その頭文字をとって「J資料」と名付けられたものだ。もちろんその著者の正確な名前は分かっていない。そこでヤハウェを崇拝していた人物ということで、一般的に「ヤハウィスト」と呼ばれている。

さて、最近の聖書批評学が明らかにした内容によれば、創世記第3章の著者「ヤハウィスト」の記述は、彼が生きていた当時の近隣諸国の神話のモチーフに満ちているという。したがって著者はこれら近隣諸国の神話をよく知っており、当然彼が語りかけていた同時代・同文化圏の人々も、それらのモチーフが何を意味するか知っていたことになる。したがってこれらの神話的モチーフの意味を解読することを通して、創世記第3章の物語が「彼らにとって」何を意味したのかが推察できるというわけだ。

創世記の記述によれば、アダムとエバは「蛇」に誘惑されて「善悪を知る木」の実をとって食べて罪を犯し、その途端に裸が恥ずかしくなって、いちじくの葉を腰に巻いて下部を隠したとされている。その当時、中東全域において「蛇」は性的快楽、健康、知恵、肥沃等の神として崇拝されていた。これはアシュラと呼ばれる繁殖の女神をあがめる「多産崇拝」で、このカナンの土着信仰は歴史的にイスラエル民族を唯一神ヤハウェに対する信仰から逸脱させようとする誘惑であり続けた。多産崇拝の大母神としてのアシュラの役割は、「すべて生きた者の母」と呼ばれた創世記のエバの記述と酷似している。エバの名前はヘブル語では「ハゥワー」であり、アラム語の「蛇(ヒゥャッ)」と同根である。

農耕民族に広く分布していたこの多産崇拝においては、人間、穀物、牛などの豊饒は、男性神と女性神の性的結合によってもたらされると考えられていた。そしてその神々の性的結合を象徴する「宗教的儀式としての性交」が、神殿娼婦と男性崇拝者との間で行われ、それによって地上に豊饒の祝福がもたらされると信じられていた。アシュラ崇拝にはしばしば「アシュラ」と呼ばれた木の柱が用いられ、性の儀式はしばしば木の下や木製のアシュラ像の横で行われた。したがってこの多産崇拝の情景は、創世記第3章の記述に非常によく似ているのである。創世記3章の情景の中には、多産崇拝の「神々の結婚」の儀式を構成する要素がすべて含まれている。蛇の「あなたは神のようになる」という言葉は、まさに性的恍惚を通して神と人とが交じり合い、地上に豊饒、癒し、不死をもたらすという、多産崇拝の主張を物語っている。

このように創世記第3章をそれが書かれた当時の歴史的状況に照らして読めば、それがカナンの多産崇拝に対する反論または警告として書かれたことが分かる。カナンの宗教において蛇は癒しと不死を象徴する生き物であり、神格化されていた。しかし創世記の著者は、蛇を狡猾なものとして描くと同時に、単なる動物にすぎないものとして描いている。これには蛇に神秘的な力があると信じていたカナンの多産崇拝の神話が、まやかしにすぎないものであるという意図が込められているのである。

創世記第3章の物語の解釈は、エバが食べたという「善悪を知る木」の木の「知る」という言葉が何を意味していたかが、解釈のポイントになる。ヘブル語において「知る」という動詞(原語の発音は「ヤダ」)は非常に広い意味を持っていたが、しばしば男性が女性と性関係を持つという意味で用いられた。しかし創世記の記述は性行為そのものを禁じているのではない。むしろ結婚は神の祝福であった。したがって物語は婚姻関係以外での性関係を断罪しているのである。カナンの多産崇拝は、祭の時に夫や妻以外の男女と性関係を結ぶことにより、長寿、多産、神との交流を約束する宗教であり、その宗教的シンボルには「蛇」と「木」が含まれていので、創世記の著者は明らかに神殿娼婦による性の儀式を伴うカナンの多産崇拝に対する反論、あるいは警告を意図してこの物語を書いたのだということが分かるのである。

さらに、「いちじくの葉」は性的な宗教の乱交と関連したものであった。そしてアダムとエバは堕落した後に、裸を恥ずかしく思って下部を覆った。また罪に対する罰は、妊娠と出産の苦痛に関連している。したがって聖書の記事は、多産崇拝が約束した祝福が安っぽい詐欺的誘惑であり、その結果は祝福とは逆の「呪い」であるというメッセージを語っていることが分かる。多産崇拝における神殿娼婦との性の儀式の結果もたらされるのは、豊穣、子孫の繁栄、永遠の命ではなく、逆に不作、産みの苦しみ、そして死であり、ヤハウェの真の祝福である「命の木」への道は閉ざされてしまう、というのが著者の言いたいことである。

創世記3章の著者は、カナンの多産崇拝の性の儀式が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるという主張を物語の中に込めている。これがその時代における失楽園の物語の意味であった。しかしこの物語は今日の我々に対しても普遍的なメッセージを語りかける。なぜなら今日ほど「性の偶像化」がなされている時代はないからだ。今日の我々の文化は性を礼賛し、あたかもエデンの園の蛇のごとく「取って食べなさい」と人々を誘惑している。しかしその結果もたらされているものは、人々の精神的退廃と家庭の崩壊である。

統一原理は、不倫なる性愛が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるととらえている点において、創世記第3章の著者と完全に一致している。そしてちょうど木によって象徴されたアシュラが全ての存在の母なる神として崇められていたように、統一原理においても「善悪を知る木」は全人類の母となるべき「エバ」を象徴するものであったと解釈されている。そして木の実はエバの貞操を意味し、それを「取って食べる」という行為は、まさしく性関係を意味していると捉えられているのである。そして堕落によって閉ざされてしまった「命の木」とは、本来アダムが罪を犯さなければ至るはずであった完成の理想であった。このように見ると、はるか古代に生きたヤハウィストと統一原理は、時代や文化圏の違いを越えて、神が人類に対して語りたい普遍的なメッセージを受けとめているということが分かる。

そして統一原理はその物語の背後に、人類始祖の堕落に関するさらに詳細な秘密まで読みとっている。まず創世記に登場する蛇は、単なる動物ではなくて堕落してサタンとなった「天使」を象徴するものであると解釈されている。その蛇がエバを誘惑して善悪の実を食べさせたということは、本来アダムとエバの養育係として二人の成長を手助けするために創造された「ルーシェル」と呼ばれる天使が、まだ幼かったエバを誘惑して霊的な性関係を結んでしまったことを意味しているのである。そしてエバがその木の実をアダムにも食べさせたということは、彼女がアダムを誘惑し、彼までも罪の中に巻き込んでしまったことを意味するのである。

すなわちヤハウィストが書いた物語の持つ意味は、聖書批評学的に見れば当時の文化的状況を背景として理解されるのであるが、その物語の中には彼自身も意識しない内に、人類歴史の最初に犯された不倫の罪に関する秘密が隠されていた、と統一原理は見るのである。ヤハウィストは当時の社会的問題について真剣に悩み、その解決を求めていたので、神はそれをモチーフとして人類の罪の根源に関する秘密を啓示したのである。そして統一原理の堕落論は、今日我々の社会が抱える同じ問題の解決の為に与えられた、「神の啓示」なのである。(魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』より)

元祖「失楽園」 アダムとエバの堕落は「性」と関係?①

浅見定雄氏の批判

『講論』は人間始祖の堕落の問題をすべて「セックス」と関係づけている(浅見定雄『統一協会=原理運動――その見極め方と対策――』148ページ)。

 

批判に対する回答

『講論』は、人間始祖の堕落を単なる「セックス」と関連づけているのではなく、そこで真に主張されている内容は、人間始祖による“愛の秩序の破壊”と言うことなのである。楽園(神の国)は、神を中心とした愛の秩序の下に築かれなければならなかった。この愛の秩序の破壊が楽園喪失の真意だったのである。ところでこの愛の秩序は性的な次元で最もシビアに表れる。人間始祖の堕落も、性的な次元において決定的な出来事として生起したのである。

人間始祖の堕落の背後に性的な問題が潜んでいるという考えは、これまでにも見られた。例えば『カトリック聖書新注解書』は、神話的表現の背後に堕落の性的要素が語られているとして次のように述べている。少し長くなるが参考のため以下に紹介しておきたい。

「聖書の作者によって表明されている人祖の罪は、異教徒の神話となんらかの関連があると考えられる。作者は、これらの神話を良く知っていたに違いない。彼は、自分と同時代に生きているだけでなく、同じ文化的背景を持つ男女のために書いたのである。その読者たちは著者と同程度の教養を持っていなかったと考えられる。著者は、物語を記述するに当って、故意にあるいは無意識のうちに(ただし意識的であった可能性が大きい)、読者が知っている近隣諸国の神話や伝説を利用せざるを得なかった、という事実を否定することはできない。すぐれた語り手として、著者は同時代の人々に、すべての人が持っている罪への傾きを説明するために、誘惑と堕落をすぐれた方法で描写したと思われる。これが、コペンスなどによって推唱されている罪の〈性的〉解釈の基礎である。

蛇は、パレスチナにおけるカナン人の宗教において、セム族の諸宗教におけると同様に、性の象徴であった。蛇は、カナン人によって、神バアルおよび女神アシェラ(共に多産の神)と関連づけられていた。この関連づけから、イスラエル人聴衆にとって、蛇が悪魔的儀式への誘惑の象徴であったことが容易に理解できる。カナンにおけるイスラエルの歴史を通じて、バアル崇拝はイスラエルの民にとって非常に魅惑的であった。この民の傾きに対して、律法と預言者は絶え間なく非難を続けたが、警告が聞き入れられない場合が多かった。〈善悪の知識〉は道徳全般に関するものであったが、性的知識に関連づけて使われている(申1:39、サムエル下19:35)。〈禁断の実〉を食べることは、女神アシェラの礼拝の際に行われた〈ぶどう菓子〉を食べる(ホセア3:1)のと同様に性に関連したことを思い起こさせたのであろう。最後に、男女は罪を犯した直後に、性に気づいた。そして、女への罰は性の次元で宣告される。確かに、聖書作者は、性そのものが悪であるとか、あるいは神が男女に求めた理想的状態においては性交がなかったとか言おうとしているのではない。それとは反対に、すでに見たように(創2:24)、作者は一夫一妻の結婚が神によって定められた制度であることを教えている。むしろ、作者は、カナンの影響によってイスラエル人に伝染する危険のある性に関する悪弊、例えば、多産の神への祈願、または本来の目的に反する性の体験などを暗示しているのであろう」(エンデルレ書店205ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

〝原罪″は血統的に遺伝される?②

統一原理における罪の概念

統一原理における罪の概念は、血統と密接に結び付いている。まず原罪自体が「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」であり、「血統的な罪」であるとしている。すなわち罪の根は淫乱にあったのであり、これは血縁関係によってつくられた罪であるために、子々孫々にまで遺伝されてきたととらえられているのである。人類始祖というような遠い昔の祖先ではなく、われわれに比較的近い先祖が犯した罪も、血統的な因縁によってわれわれに受け継がれるのであるが、これを統一原理では「遺伝罪」と呼んでいる。さらに自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪の「連帯罪」と、自らが直接犯した罪の「自犯罪」とを合わせて、統一原理にはつごう四種類の罪概念が存在することになる。

「遺伝罪」や「連帯罪」という概念は従来のキリスト教にはないが、原罪が血統を通して遺伝されるという考え方は、伝統的にキリスト教が取ってきた立場である。しかし一口に「原罪の遺伝」と言っても、その意味する内容には諸説ある。そこで、ここではそれを二つのタイプに大別して、それらが統一原理と一致する内容をもっていることを示すことにする。原罪に関するキリスト教の教理は、伝統的に旧約聖書の創世記第三章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語と結び付けられてきた。この点についてはキリスト教も統一原理も全く同じである。しかしそれがどのようにして後孫に影響を及ぼすのかということについては、キリスト教の中にも二とおりの考え方があったのである。

第一番目の考え方が「罪責の法廷論的伝播」というものである。「原罪」とは私自身が犯した罪ではなく、人類始祖アダムとエバが犯した罪であるにも関わらず、あたかもその罪を自分が犯したかのような罪責をわれわれが背負わされているというものである。これはわれわれがアダムとエバの子孫であるという「血のつながり(血統)」を条件として、その罪に対する責任を「法廷論的」に負うということを意味する。このような立場を取るのが、プロテスタントの中でもカルヴァン主義の流れをくむ「契約神学(Federal Theology)」である。契約神学の主張するところによれば、神はアダムを通して全人類と契約を結ぼうとしたのであり、その代表であるアダムが罪を犯すことにより、全人類が法廷論的にアダムの罪に巻き込まれるようになった、ということになる。統一原理における原罪の概念も、基本的にはこれと同じ枠組みでとらえられている。

もう一つの考え方は、「罪の生物学的な遺伝」というものである。これは原罪の教義を最初に体系化したと言われるアウグスティヌスの取った立場であった。彼は原罪の本質を情欲としてとらえ、肉欲によって汚された人間の性交を媒介として原罪が遺伝されるのであるととらえた。すなわち、たとえ正当な結婚による夫と妻の性関係といえども、それは罪深い情欲によって汚れているために、すべての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続するのであると考えたのである。このように性欲そのものを罪悪視し、それを原罪の遺伝の決定的な要因とする彼の立場は、後にカトリック教会から否定された。しかし性欲に焦点が絞られているという点を除いては、原罪が繁殖によって後孫に遺伝されていくという彼の主張は認められたのである。

統一原理も性欲そのものを罪とはとらえないので、その点ではアウグスティヌスの立場とは異なる。しかし、われわれが人類始祖アダムとエバから受け継いでいるのは単に法廷論的な罪責だけではなく、堕落によって生じた人間の腐敗した性質をも血統を通じて受け継いでいるととらえている点では、彼の考え方に通じるものがある。これを統一原理では「堕落性本性」と呼んでいる。「堕落性本性」とは、アダムとエバが堕落することによって、サタンとなった天使長ルーシェルの性質を受け継ぐようになり、それが歴史的に継承されてきたために、あたかも人間の本性のごとく深く根づくようになってしまった性質のことを言う。具体的に言えば、それは嫉みや嫉妬、恨みや憎悪、傲慢や反抗心、罪の繁殖や自己正当化といった、およそ人間の自己中心的な性質のすべてを含むと言っていいであろう。このような腐敗した人間性は、親から子へと遺伝や生活習慣を通して伝播されるのである。

このようにわれわれ個人の人生は、法廷論的にも遺伝的にも過去に生きた先祖たちの罪の影響を受けている、というのが「統一原理」の人間観である。個人主義的な倫理観が全盛である現代の観点から見れば、自分自身が犯してもいない過去の罪に対する責任が自分にふりかかってくるという考え方は受け入れ難いかもしれない。事実、実存主義的な哲学に基づいて聖書を解釈する現代神学の多くは、罪が血統を通して遺伝するという考え方を否定する。彼らにとってアダムとエバの物語は、遠い昔に生きたわれわれの先祖に起こった事件について述べたものではなく、常に罪の誘惑にさらされているわれわれの普遍的な状況を描写した「神話」なのである。すなわちアダムとエバはわれわれ自身のことを表しているのであり、彼らはわれわれの血筋をたどっていくことによってたどり着く罪のルーツなのではない。このようにして、彼らはアダムとエバの歴史的実在とともに「罪の遺伝」という観念をも否認してしまったのである。

しかしカトリックやプロテスタントの保守派をはじめとする伝統的なキリスト教は、公式的にはアダムとエバの歴史的実在を否定していないし、罪の遺伝という観念も捨て去っていない。したがって統一原理における罪の遺伝の概念は、明らかにキリスト教の枠内に入り、その中でも保守的・伝統的な理解をしているグループに入ると言っていいであろう。すなわち、統一原理における罪の遺伝の理解は、純キリスト教的な起源に基づくものであると言うことができるのである。(魚谷俊輔著『統一教会の検証』より)

 

 

〝原罪″は血統的に遺伝される?①

浅見定雄氏の批判

人間の堕落行為に関して、性的関係という〈行為〉の結果が血統として残るとは、古代人の考えならまだしも分子生物学時代の話としてはあきれた新説である(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』12ページ)。

 

批判に対する回答

「統一原理」が人間始祖の堕落を血統的堕落と呼び、人間始祖の堕落の罪(原罪)が血統的に遺伝されるというとき、それは、人間の罪が、生物学的な次元で、すなわち、生物学的な遺伝情報として子孫に伝えられるということではない。それは血統を中心とした霊的、宗教学的事象を生物学的言語を使って説明しているのである。――ただし、罪を持つことにより、人間の肉体に生物学的影響を与えるということはありうるであろう――。

「統一原理」が、人間始祖の堕落を血統的堕落と呼んでいるのは、サタンを介在しての堕落の行為の結果、神に連結されるべき人間始祖の血統が、サタンに連結されることになったということなのである。そして、このような、人間始祖の罪(原罪)――すなわち、神の血統を有するべき人類がサタンの血統を有するに至ったという罪――が血統的に子孫に伝えられるということは、何も生物学的遺伝子によってそれがなされるということではなく、人間始祖を含めた人類の血統的な有機的一体性(血統的因縁)のゆえに、子孫にもその罪が転嫁されるということなのである。このことに関しては、パウロもロマ書で「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……、こうして、すべての人が罪を犯した」(5:12)と述べているとおりである。

このような「統一原理」の考えは、アウグスティヌスらによって主張された「自然首長原則」の説に近いもので『聖書教理ハンドブック』は、「アダムは、人類の連帯的かしらである。代表の原則は、アダムの堕落のときに行われていた(参照ロマ5:12~21、Ⅰコリント15:22)。アダムが罪を犯して堕落したとき、私たちはアダムの中にあった。それゆえ、アダムの罪とその恐るべき結果は、彼の子孫に転嫁され、彼らのものと認められ、法律的に彼らに対して責任が追及された(参照ロマ5:12、15、18、19)」(いのちのことば社・91ページ)と述べている。

また、原罪が血統的つながりを条件として伝えられるということについては、『大教理問答書』は「原罪はわれわれの始祖たちからその子孫に自然的生殖によって伝えられるから、その方法によってかれらから生まれてくるすべての者は罪のうちにみごもり、また、生まれる」(第26問の答えより)と言っており、『カトリック聖書新注解書』は「原罪はアダムという個人によって犯された罪から出るものであって、生殖を通じてすべての人に伝えられ、すべての人の中に本人の罪であるかのように存在する」(エンデルレ書店203ページ)と言っている。また『現代教義学総説』(新教出版社)では「J・ゲルトハルトは『原罪は、全人間の――原義から離れた――本性の最も内的で最も深い腐敗であって、それは、最初の両親たちの堕落から発生したもので、彼らから肉による出生を通して、すべての子孫に移されたものである』と定義している」と述べている。

以上、「統一原理」は、罪が血統的つながりを条件として転嫁されていくことは主張するが、決して罪の本質を“物質的概念”として扱っているのではなく、徹底的に“関係概念”として捉えているのである。したがって、浅見氏の批難は何ら、当を得たものではない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「無性生殖」は、原理講論が述べる二性性相の例外?

浅見定雄氏の批判

すべての植物は、雄しべと雌しべとによって存続するというが、ではシダ類、コケ類、アオカビ、淡水海綿などの無性生殖はどうなるのか。すべての動物は雄と雌とによって繁殖生存するというが、ではアメーバーやゾウリムシ、ミドリムシなどはどうなのか(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』10ページ)。

 

批判に対する回答

動植物の繁殖形態については無性生殖と有性生殖の二つがある。自然界においては有性生殖がほとんどで、最も基本的な繁殖形態といえるが、原始的な生物の中には質問中にあるような無性生殖の生物も存在することは事実である。

しかしながら、無性生殖だとされているゾウリムシやアオミドロなどの単細胞生物も、いったん環境条件などが悪化すると単細胞の二個体があたかも雄、雌のように合体(接合)し、新個体(接合子)となることが確認されている。例えば、アオミドロは細胞が並んだ糸状体で、環境が悪くなると二本の糸状体の向かい合った細胞が配偶子(生殖のための特殊な細胞)となり、互いに接合管を出して接合し、一方の原形質が他方に流れ込んで接合子をつくる。この際、流れ込む方が十性(陽性)であり、流れ込まれる方が一性(陰性)と呼ばれている(『よくわかる生物I』旺文社)。

さらにもっと次元の低い細菌のようなものにも、そのような接合が見られることが分かってきている。1946年、スタンフォード大学医学部の大学院生だったジョシュア・レーダーバーグは「メチオニンがないと発育できない大腸菌」ともう一つの「スレオニンがないと発育できない大腸菌」とを混合し、三種類の栄養の入った寒天培地―― 一つはメチオニンを含まない培地、一つはスレオニンを含まない培地、もう一つはどちらも含まない培地――にまいてみた。その結果、どちらも含まない培地には、この二種の大腸菌は繁殖しないはずなのに、不思議にも数十個の集落が成育したのである。これは二種の菌の接合による遺伝子の伝達によって、メチオニンとスレオニンがなくても増殖できる新しい種の菌をつくり出したことを意味している。この接合の際、二種の菌は十性と一性という配偶子と同じ働きをすることが確認されている(『性の源を探る』岩波新書183ページ以下)。

また、他の文献にも「高等生物では染色体の交叉(受精)をやっているけれども、バクテリアでも染色体に相当する核酸分子でつなぎ換え(接合)を行うことは珍しくない」(『偶然と必然』東大出版会103ページ)とか、「バクテリアにも雄雌があり、少しへばってくると接合」(『生命の物理学』今堀和友・講談社70ページ)するなどの記述がある。

このように、アオミドロや細菌のような最も下等な生物においてすら非常時には高等動物における有性生殖と同じような現象が見られるということは、基本的には、その背後に十性と一性が潜在的に存在していると言うことができるであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

反対牧師諸君へ- 統一神学博士からの手紙

クリスチャン・フィッシュ
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救い主)の頭文字を並べたもの

統一教会信者に対する拉致監禁・強制改宗に携わっている牧師たちは、統一教会の信仰が「異端」であるということをその活動の動機としています。とりわけ「福音派」と呼ばれる、聖書を文字どおりに解釈する教派の牧師たちは、統一教会がキリスト教を名乗りながらも聖書をでたらめに解釈して人々を惑わすので、その信者に「正しいキリスト教」を教えてあげることが救いであると信じて疑いません。

そのため、彼らは監禁の現場で自らが寄って立つ福音派の神学に基づいて統一教会の教えである「統一原理」を批判し、信者の信仰を破壊しようと試みます。神学に対する専門的な知識を持たない一般の信者たちは、こうした牧師たちによる統一原理批判に対して答えられないばかりか、外部との接触を完全に遮断され、長期監禁・説得をうけるという異常な環境下のもので、彼らの教えこそ「正しいキリスト教」であり、統一原理はでたらめであると思い込まされて信仰を失ってしまう場合が少なくありません。

しかし、キリスト教神学に対する広範な知識があれば、こうした批判が的外れなものであったり、非常に偏った立場からの批判であることが分かり、逆に福音派の神学との比較を通して統一原理の神学としての真価が再認識されるのです。

このたび、キリスト教神学を専門的に学ばれ、米国ニューヨーク州にある統一神学大学院で神学を講じている神明忠昭博士が、主に福音派の反対牧師による統一教会批判の代表的な12項目に対して答えながら、福音派の神学の限界と統一原理の価値を明らかにする論文を特別に寄稿してくださいました。

この論文を通して、反対牧師の説得によって統一教会を去った兄弟姉妹の皆さま、監禁から生還したものの統一原理に対する疑問を抱いている信者の皆さま、そうした信者たちを信仰指導する牧会者の皆さま、そして広く一般の皆さまに、統一原理のもつ神学的な価値を再認識していただければ幸いです。

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目次


神明忠昭プロフィール

1944年福島県生まれ。1971年東京大学工学部原子力工学科卒業。73年統一教会宣教師として渡米。77年アメリカ統一神学校卒業。84年ドゥルー大学 (Drew University) 大学院卒業でキリスト教神学博士号 (Ph.D.) 取得。その後、統一神学校神学教授職を経て、94年から2000年まで当校の総長として奉職。2000年以降、世界平和超宗教超国家連合 (IIFWP) および天宙平和連合 (UPF) 国際本部主任研究員。アメリカ宗教学会 (AAR) 会員。北米カール・バルト学会 (Karl Barth Society of North America) 会員。専門分野は教父神学、カトリック神学、現代プロテスタント神学、および組織神学。特に、アウグスティヌス神学とホワイトヘッド哲学に造詣が深い。著書『統一主義における探究』等、多数。学術論文出版多数。66年9月統一教会入教。777双祝福家庭。

統一原理における聖書観 【重要】

原理講論
原理講論

統一原理における聖書観

1980年代後半頃、日本イエス・キリスト教団・荻窪栄光教会で、統一教会信者の脱会説得を行っていた人物の一人が宮村峻(後藤裁判における被告の一人)です。

宮村は、監禁中の統一教会信者に対して様々な教理批判、活動批判等をしました。その彼が、決め言葉として用いていたのが

「原理は聖書に基づいているんだろ、だけど、原理は聖書とは違う、だったら原理はでたらめじゃないか!」

というフレーズでした。

宮村の脱会説得を受けた青年たちの多くが、

「宮村さんのこの言葉によって自分は最終的に原理が間違いだと結論づけた」

と述懐しました。その一方で、「頭では原理がでたらめだと分かっている。だけど、心は原理が真理だと思っているので苦しくてしょうがない。誰かこの矛盾を解いて欲しい」と訴えていた元信者も複数いました。

既成キリスト教会の「福音派」では、聖書を文字通り解釈しようとする立場をとる牧師が多くおり、その教義は、「三位一体」(神、イエス、聖霊の三者が同一の人格であるという教え)、イエスの「処女降誕」、イエスの再臨は雲に乗ってくる等、キリスト教と縁のない一般人にとって、にわかには合理性を感じ得ない面があります。

しかし、聖書の文言解釈による教義だけを見ればそれなりの一貫性もあり、文言にどれだけ忠実かという基準で見れば、統一原理よりも既成キリスト教の方が優れているかのように見える面もあります。そこで、脱会説得の専門家らは、必ずと言っていいほど、聖書の文言に照らし、いかに統一原理がでたらめかという点を、脱会説得の批判の中心に据えています。

では、統一原理は、聖書に基づいている教えなのでしょうか?

監禁現場では脱会説得の専門家らは、かつて統一教会が対外的に発表した信仰告白に、「統一教会は新・旧約聖書を永遠の教典とする」といった文言があることに基づいて、「原理は聖書に基づいているんだろ?」と迫ってきます。また、『原理講論』の中にも、統一原理の教えを論証する過程で、聖書の文言を引用して説明している箇所が多々あります。

そこで、監禁中という特殊な霊的雰囲気もあって、ともすれば「原理は聖書に基づいている」という錯覚に陥りがちです。そして、一旦この錯覚に陥った元信者等は、『原理講論』を何度読んでも、この錯覚から抜け出すことができなくなってしまうのです。もしこのような状況に処したときは、是非、文先生の次のみ言を思い起こして頂きたいと思います。

「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです」(1990年1月13日、参照:『踏みにじられた信教の自由』286頁)

「我々は真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります」(『希望の到来』171頁)

そして、統一原理と聖書との関係については、実は『原理講論』「総序」において、すでにその核心部分が明記されているのです。すなわち、総序には次のように記されています。

「この最終的な真理は、いかなる教典や文献による創造的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも編み出されるものでもない」(37頁終わりから2行目以降)

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「この真理は神の啓示をもって、我々の前に現れなければならない」(38頁1行~2行)

「先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのでさる」(38頁7行~9行)

すなわち、文先生は、聖書の文言を元にして統一原理を構築されたわけではなく、むしろ、神の啓示である聖書には、まだ真理が十分には書かれていないという前提のもと、霊界や地上界を行き来し、神と霊交する中で真理を解明されていかれたのです。

したがって、『原理講論』に含まれる聖書解釈は、文先生が解明された真理に照らした場合、聖書の文言の背後にある神様が真に伝えたかった内容を説いたものということができます。

例えば、『原理講論』には、聖書の創世記3章に出てくるエデンの園にいた蛇は天使長ルーシェルのことだと記しています。聖書の文言を重視する立場からは、この蛇とは文字通り蛇を意味することになるでしょう。しかし、文先生は、霊界・地上界を行き来し、人類堕落の原因を解明し、最後は神様や聖賢達と直談判する中で、遂に神様からも真理であるとの承認を得たわけです。

そうした過程を経た上で、聖書にある「蛇」とは、実際には天使長ルーシェルのことを意味している、との真理に立脚した聖書解釈を示されたわけです。つまり、原理は聖書に基づいているのではなく、逆に文先生が勝ち得た真理に基づいて、聖書には十分に書かれていない真の事実関係を解き明かしたのが統一原理における聖書解釈だということができます。

なお、このような解釈に対しては、「聖書を改竄するもの」との批判が反対派からなされています。しかし、文師ないし関係機関が、聖書を改竄して出版したことは一度もありません。むしろ、聖書の文言には手を加えず、その背後にある真理を解き明かしているのが統一原理における聖書解釈です。

また、反対派の話を聞いて、「原理はでたらめだ」との錯覚に陥った元信者の中には、「自分は本当のキリスト教の教えが全く分かっていなかった。だから原理を真理と信じたんだ」と悔いて、既成キリスト教会の神学校で勉強を始める者もいます。

しかし、この考え方は、かつて多くのクリスチャンたちが既成キリスト教会の教義に限界を感じ、統一教会に来たことを説明できません。つまり、実際には、既成キリスト教会の教義には限界があり、洗礼を受けたキリスト教徒であっても内外の様々な矛盾を解決できないために、この限界に気づいた若者たちが再臨主の説いた統一原理に出会って感動し、信者となっていったわけです。
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韓国でも梨花女子大学事件では、複数の教授や助教授をはじめ、多くのクリスチャン達が統一教会の信徒となったわけですし、日本でも、古参の信者の中には熱心なクリスチャンだった人たちが大勢います。そしてこうした信徒等は、すでに既成キリスト教会の限界を十分に認識した上で統一教会に来ているので、既成キリスト教会の教えをいくら説かれても、信仰を失うということはありません。

ところが、既成キリスト教会を通過せずに統一教会に出会った信徒たちは、反対牧師が聖書の文言解釈をもとに説く、従来の既成キリスト教会の教えを真理だと錯覚し、その門下に下るわけですから、大変な回り道をさせられていることになるわけです。

この後の解説では、聖書の個々の文言を巡っての統一原理と既成キリスト教会の解釈の違いに関して解説がなされていきますが、統一原理における聖書観を見失うと、「木を見て森を見ない」結果となってしまいますので、常に、本則に立ち返って個々の問題を研究して頂ければと思います。

近藤論文