失楽園を性的に解釈したカトリック神学に対抗し、それを性的に解釈しようとしないプロテスタント神学があります。
創世記2章24節の「結婚賛歌」と、創世記3章の「失楽園」の関連性をめぐって、聖書の記述順序を、そのまま時間的経過と同一視したルターは、結婚賛歌に「妻」という言葉があることから、アダム・エバは堕落(失楽園)前にすでに性交していたとして、次のように解釈しました。
「原人アダムとイブ(エバ)とはその堕落の以前にすでに性の交わりを行っており、それは二人の貞節ときよき愛のしるしでもあった。彼らは裸であって、性に対しても自然な開放的な態度をとっていた」(岩村信二著『キリスト教の結婚観』日本基督教団出版局、122ページ)
反対牧師は、このルターの聖書解釈に基づいて、「妻」の言葉に注目させ、アダム・エバの堕落の原因は、統一教会がいうような「性的問題」ではなかったします。そして、ルターが、原罪を「自己中心」「高慢」と見て、心的解釈をした見解を利用しながら、統一原理の「堕落論」は間違いであると批判し、統一教会信者を脱会説得するのです。
しかし、ルターとは違って、聖書の記述順序をそのまま時系列とはとらえない解釈も存在しているのです。カトリック聖書(ウルガタ)を校訂した教父ヒエロニムスは、次のように述べます。
「アダムとエバに関しては、堕落以前の彼らは楽園で純潔であったと主張しなければならない。しかし、罪を犯し楽園を追放されてからはただちに結婚した。それから『それ故に人はその父と母とを離れて、妻と結び合い、そして彼らは一つの体となる』の(創世記2章24)節がくる」(ペイゲルス著『アダムとエバと蛇』203ページ)
人間始祖アダムとエバの堕落を性的に解釈することは正しいというのです。
創世記2章2節で、神は天地創造を終えて休まれたと書かれているにもかかわらず、2章4節から、再び、違ったかたちの天地創造が記されています。ですから、ルターのように、聖書の記述順序をそのまま時間的経過と同一視するのは単純すぎて、問題があります。
いずれにせよ、カトリックとプロテスタントは、失楽園解釈をめぐって対立しています。統一原理は「堕落論」において、ルターのように「自己中心」の動機で、アウグスティヌスのように「性的形態」を通じて堕落したと見ており、その意味では、カトリック神学とプロテスタント神学を和合させる観点を持っていると言えます。
(太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』:光言社より抜粋)