統一原理における聖書観 【重要】

原理講論
原理講論

統一原理における聖書観

1980年代後半頃、日本イエス・キリスト教団・荻窪栄光教会で、統一教会信者の脱会説得を行っていた人物の一人が宮村峻(後藤裁判における被告の一人)です。

宮村は、監禁中の統一教会信者に対して様々な教理批判、活動批判等をしました。その彼が、決め言葉として用いていたのが

「原理は聖書に基づいているんだろ、だけど、原理は聖書とは違う、だったら原理はでたらめじゃないか!」

というフレーズでした。

宮村の脱会説得を受けた青年たちの多くが、

「宮村さんのこの言葉によって自分は最終的に原理が間違いだと結論づけた」

と述懐しました。その一方で、「頭では原理がでたらめだと分かっている。だけど、心は原理が真理だと思っているので苦しくてしょうがない。誰かこの矛盾を解いて欲しい」と訴えていた元信者も複数いました。

既成キリスト教会の「福音派」では、聖書を文字通り解釈しようとする立場をとる牧師が多くおり、その教義は、「三位一体」(神、イエス、聖霊の三者が同一の人格であるという教え)、イエスの「処女降誕」、イエスの再臨は雲に乗ってくる等、キリスト教と縁のない一般人にとって、にわかには合理性を感じ得ない面があります。

しかし、聖書の文言解釈による教義だけを見ればそれなりの一貫性もあり、文言にどれだけ忠実かという基準で見れば、統一原理よりも既成キリスト教の方が優れているかのように見える面もあります。そこで、脱会説得の専門家らは、必ずと言っていいほど、聖書の文言に照らし、いかに統一原理がでたらめかという点を、脱会説得の批判の中心に据えています。

では、統一原理は、聖書に基づいている教えなのでしょうか?

監禁現場では脱会説得の専門家らは、かつて統一教会が対外的に発表した信仰告白に、「統一教会は新・旧約聖書を永遠の教典とする」といった文言があることに基づいて、「原理は聖書に基づいているんだろ?」と迫ってきます。また、『原理講論』の中にも、統一原理の教えを論証する過程で、聖書の文言を引用して説明している箇所が多々あります。

そこで、監禁中という特殊な霊的雰囲気もあって、ともすれば「原理は聖書に基づいている」という錯覚に陥りがちです。そして、一旦この錯覚に陥った元信者等は、『原理講論』を何度読んでも、この錯覚から抜け出すことができなくなってしまうのです。もしこのような状況に処したときは、是非、文先生の次のみ言を思い起こして頂きたいと思います。

「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです」(1990年1月13日、参照:『踏みにじられた信教の自由』286頁)

「我々は真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります」(『希望の到来』171頁)

そして、統一原理と聖書との関係については、実は『原理講論』「総序」において、すでにその核心部分が明記されているのです。すなわち、総序には次のように記されています。

「この最終的な真理は、いかなる教典や文献による創造的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも編み出されるものでもない」(37頁終わりから2行目以降)

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「この真理は神の啓示をもって、我々の前に現れなければならない」(38頁1行~2行)

「先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのでさる」(38頁7行~9行)

すなわち、文先生は、聖書の文言を元にして統一原理を構築されたわけではなく、むしろ、神の啓示である聖書には、まだ真理が十分には書かれていないという前提のもと、霊界や地上界を行き来し、神と霊交する中で真理を解明されていかれたのです。

したがって、『原理講論』に含まれる聖書解釈は、文先生が解明された真理に照らした場合、聖書の文言の背後にある神様が真に伝えたかった内容を説いたものということができます。

例えば、『原理講論』には、聖書の創世記3章に出てくるエデンの園にいた蛇は天使長ルーシェルのことだと記しています。聖書の文言を重視する立場からは、この蛇とは文字通り蛇を意味することになるでしょう。しかし、文先生は、霊界・地上界を行き来し、人類堕落の原因を解明し、最後は神様や聖賢達と直談判する中で、遂に神様からも真理であるとの承認を得たわけです。

そうした過程を経た上で、聖書にある「蛇」とは、実際には天使長ルーシェルのことを意味している、との真理に立脚した聖書解釈を示されたわけです。つまり、原理は聖書に基づいているのではなく、逆に文先生が勝ち得た真理に基づいて、聖書には十分に書かれていない真の事実関係を解き明かしたのが統一原理における聖書解釈だということができます。

なお、このような解釈に対しては、「聖書を改竄するもの」との批判が反対派からなされています。しかし、文師ないし関係機関が、聖書を改竄して出版したことは一度もありません。むしろ、聖書の文言には手を加えず、その背後にある真理を解き明かしているのが統一原理における聖書解釈です。

また、反対派の話を聞いて、「原理はでたらめだ」との錯覚に陥った元信者の中には、「自分は本当のキリスト教の教えが全く分かっていなかった。だから原理を真理と信じたんだ」と悔いて、既成キリスト教会の神学校で勉強を始める者もいます。

しかし、この考え方は、かつて多くのクリスチャンたちが既成キリスト教会の教義に限界を感じ、統一教会に来たことを説明できません。つまり、実際には、既成キリスト教会の教義には限界があり、洗礼を受けたキリスト教徒であっても内外の様々な矛盾を解決できないために、この限界に気づいた若者たちが再臨主の説いた統一原理に出会って感動し、信者となっていったわけです。
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韓国でも梨花女子大学事件では、複数の教授や助教授をはじめ、多くのクリスチャン達が統一教会の信徒となったわけですし、日本でも、古参の信者の中には熱心なクリスチャンだった人たちが大勢います。そしてこうした信徒等は、すでに既成キリスト教会の限界を十分に認識した上で統一教会に来ているので、既成キリスト教会の教えをいくら説かれても、信仰を失うということはありません。

ところが、既成キリスト教会を通過せずに統一教会に出会った信徒たちは、反対牧師が聖書の文言解釈をもとに説く、従来の既成キリスト教会の教えを真理だと錯覚し、その門下に下るわけですから、大変な回り道をさせられていることになるわけです。

この後の解説では、聖書の個々の文言を巡っての統一原理と既成キリスト教会の解釈の違いに関して解説がなされていきますが、統一原理における聖書観を見失うと、「木を見て森を見ない」結果となってしまいますので、常に、本則に立ち返って個々の問題を研究して頂ければと思います。

近藤論文