浅見定雄氏の批判
人間の堕落行為に関して、性的関係という〈行為〉の結果が血統として残るとは、古代人の考えならまだしも分子生物学時代の話としてはあきれた新説である(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』12ページ)。
批判に対する回答
「統一原理」が人間始祖の堕落を血統的堕落と呼び、人間始祖の堕落の罪(原罪)が血統的に遺伝されるというとき、それは、人間の罪が、生物学的な次元で、すなわち、生物学的な遺伝情報として子孫に伝えられるということではない。それは血統を中心とした霊的、宗教学的事象を生物学的言語を使って説明しているのである。――ただし、罪を持つことにより、人間の肉体に生物学的影響を与えるということはありうるであろう――。
「統一原理」が、人間始祖の堕落を血統的堕落と呼んでいるのは、サタンを介在しての堕落の行為の結果、神に連結されるべき人間始祖の血統が、サタンに連結されることになったということなのである。そして、このような、人間始祖の罪(原罪)――すなわち、神の血統を有するべき人類がサタンの血統を有するに至ったという罪――が血統的に子孫に伝えられるということは、何も生物学的遺伝子によってそれがなされるということではなく、人間始祖を含めた人類の血統的な有機的一体性(血統的因縁)のゆえに、子孫にもその罪が転嫁されるということなのである。このことに関しては、パウロもロマ書で「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……、こうして、すべての人が罪を犯した」(5:12)と述べているとおりである。
このような「統一原理」の考えは、アウグスティヌスらによって主張された「自然首長原則」の説に近いもので『聖書教理ハンドブック』は、「アダムは、人類の連帯的かしらである。代表の原則は、アダムの堕落のときに行われていた(参照ロマ5:12~21、Ⅰコリント15:22)。アダムが罪を犯して堕落したとき、私たちはアダムの中にあった。それゆえ、アダムの罪とその恐るべき結果は、彼の子孫に転嫁され、彼らのものと認められ、法律的に彼らに対して責任が追及された(参照ロマ5:12、15、18、19)」(いのちのことば社・91ページ)と述べている。
また、原罪が血統的つながりを条件として伝えられるということについては、『大教理問答書』は「原罪はわれわれの始祖たちからその子孫に自然的生殖によって伝えられるから、その方法によってかれらから生まれてくるすべての者は罪のうちにみごもり、また、生まれる」(第26問の答えより)と言っており、『カトリック聖書新注解書』は「原罪はアダムという個人によって犯された罪から出るものであって、生殖を通じてすべての人に伝えられ、すべての人の中に本人の罪であるかのように存在する」(エンデルレ書店203ページ)と言っている。また『現代教義学総説』(新教出版社)では「J・ゲルトハルトは『原罪は、全人間の――原義から離れた――本性の最も内的で最も深い腐敗であって、それは、最初の両親たちの堕落から発生したもので、彼らから肉による出生を通して、すべての子孫に移されたものである』と定義している」と述べている。
以上、「統一原理」は、罪が血統的つながりを条件として転嫁されていくことは主張するが、決して罪の本質を“物質的概念”として扱っているのではなく、徹底的に“関係概念”として捉えているのである。したがって、浅見氏の批難は何ら、当を得たものではない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)