失楽園の物語に隠された意図とはなにか?
創世記の第3章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語は、キリスト教における「原罪」の教義の基礎となっている。この物語の意味する内容については古来よりさまざまな解釈がなされてきたが、それを解く重要な手がかりとして、この物語の「著者の意図」を探るという方法がある。「聖書の著者って、神様じゃないの?」という敬虔な方もおられるだろう。もちろんそれも一つの見方だが、ここではより現実的・歴史的観点からこの物語の意味を探ってみようと思う。
これは聖書批評学という学問がとる手法で、聖書の各部分を書いた著者の年代、背景、思想的傾向、想定されていた読者、語ろうとしたメッセージの内容、などを研究するものだ。聖書を歴史的背景に照らして読む利点とは何だろうか?聖書は比喩や象徴に満ちている。そして一つひとつのシンボルが意味する内容は文化圏ごとに異なっている。たとえば日本では「湯水のごとく使う」と言えば、どこにでもたくさんある物のようにムダ遣いすることを意味するが、砂漠で生活する人々にこの言葉を直訳したら、全く正反対の意味にとらえるはずだ。したがって、我々とは時代も文化背景も違う著者が書いた文献を読むときには、とんでもない間違った解釈をする危険があることが分かる。逆に著者の生きていた時代的・文化的背景を知っていれば、一見何を言っているのか分からない記述も、その意味するところが分かろうというものだ。
旧約聖書の批評学によれば、創世記が含まれている「モーセ五書」は、J・E・P・Dという4つの資料を編纂して作られたというのが定説になっていて、創世記の第3章はこの中で最も古い時代の「J資料」(紀元前850年頃)に属するものだと言われている。この「J資料」というのは、神様を「ヤハウェ(Jahweh)」と呼んでいることから、その頭文字をとって「J資料」と名付けられたものだ。もちろんその著者の正確な名前は分かっていない。そこでヤハウェを崇拝していた人物ということで、一般的に「ヤハウィスト」と呼ばれている。
さて、最近の聖書批評学が明らかにした内容によれば、創世記第3章の著者「ヤハウィスト」の記述は、彼が生きていた当時の近隣諸国の神話のモチーフに満ちているという。したがって著者はこれら近隣諸国の神話をよく知っており、当然彼が語りかけていた同時代・同文化圏の人々も、それらのモチーフが何を意味するか知っていたことになる。したがってこれらの神話的モチーフの意味を解読することを通して、創世記第3章の物語が「彼らにとって」何を意味したのかが推察できるというわけだ。
創世記の記述によれば、アダムとエバは「蛇」に誘惑されて「善悪を知る木」の実をとって食べて罪を犯し、その途端に裸が恥ずかしくなって、いちじくの葉を腰に巻いて下部を隠したとされている。その当時、中東全域において「蛇」は性的快楽、健康、知恵、肥沃等の神として崇拝されていた。これはアシュラと呼ばれる繁殖の女神をあがめる「多産崇拝」で、このカナンの土着信仰は歴史的にイスラエル民族を唯一神ヤハウェに対する信仰から逸脱させようとする誘惑であり続けた。多産崇拝の大母神としてのアシュラの役割は、「すべて生きた者の母」と呼ばれた創世記のエバの記述と酷似している。エバの名前はヘブル語では「ハゥワー」であり、アラム語の「蛇(ヒゥャッ)」と同根である。
農耕民族に広く分布していたこの多産崇拝においては、人間、穀物、牛などの豊饒は、男性神と女性神の性的結合によってもたらされると考えられていた。そしてその神々の性的結合を象徴する「宗教的儀式としての性交」が、神殿娼婦と男性崇拝者との間で行われ、それによって地上に豊饒の祝福がもたらされると信じられていた。アシュラ崇拝にはしばしば「アシュラ」と呼ばれた木の柱が用いられ、性の儀式はしばしば木の下や木製のアシュラ像の横で行われた。したがってこの多産崇拝の情景は、創世記第3章の記述に非常によく似ているのである。創世記3章の情景の中には、多産崇拝の「神々の結婚」の儀式を構成する要素がすべて含まれている。蛇の「あなたは神のようになる」という言葉は、まさに性的恍惚を通して神と人とが交じり合い、地上に豊饒、癒し、不死をもたらすという、多産崇拝の主張を物語っている。
このように創世記第3章をそれが書かれた当時の歴史的状況に照らして読めば、それがカナンの多産崇拝に対する反論または警告として書かれたことが分かる。カナンの宗教において蛇は癒しと不死を象徴する生き物であり、神格化されていた。しかし創世記の著者は、蛇を狡猾なものとして描くと同時に、単なる動物にすぎないものとして描いている。これには蛇に神秘的な力があると信じていたカナンの多産崇拝の神話が、まやかしにすぎないものであるという意図が込められているのである。
創世記第3章の物語の解釈は、エバが食べたという「善悪を知る木」の木の「知る」という言葉が何を意味していたかが、解釈のポイントになる。ヘブル語において「知る」という動詞(原語の発音は「ヤダ」)は非常に広い意味を持っていたが、しばしば男性が女性と性関係を持つという意味で用いられた。しかし創世記の記述は性行為そのものを禁じているのではない。むしろ結婚は神の祝福であった。したがって物語は婚姻関係以外での性関係を断罪しているのである。カナンの多産崇拝は、祭の時に夫や妻以外の男女と性関係を結ぶことにより、長寿、多産、神との交流を約束する宗教であり、その宗教的シンボルには「蛇」と「木」が含まれていので、創世記の著者は明らかに神殿娼婦による性の儀式を伴うカナンの多産崇拝に対する反論、あるいは警告を意図してこの物語を書いたのだということが分かるのである。
さらに、「いちじくの葉」は性的な宗教の乱交と関連したものであった。そしてアダムとエバは堕落した後に、裸を恥ずかしく思って下部を覆った。また罪に対する罰は、妊娠と出産の苦痛に関連している。したがって聖書の記事は、多産崇拝が約束した祝福が安っぽい詐欺的誘惑であり、その結果は祝福とは逆の「呪い」であるというメッセージを語っていることが分かる。多産崇拝における神殿娼婦との性の儀式の結果もたらされるのは、豊穣、子孫の繁栄、永遠の命ではなく、逆に不作、産みの苦しみ、そして死であり、ヤハウェの真の祝福である「命の木」への道は閉ざされてしまう、というのが著者の言いたいことである。
創世記3章の著者は、カナンの多産崇拝の性の儀式が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるという主張を物語の中に込めている。これがその時代における失楽園の物語の意味であった。しかしこの物語は今日の我々に対しても普遍的なメッセージを語りかける。なぜなら今日ほど「性の偶像化」がなされている時代はないからだ。今日の我々の文化は性を礼賛し、あたかもエデンの園の蛇のごとく「取って食べなさい」と人々を誘惑している。しかしその結果もたらされているものは、人々の精神的退廃と家庭の崩壊である。
統一原理は、不倫なる性愛が人間を腐敗堕落させる悪の根源であるととらえている点において、創世記第3章の著者と完全に一致している。そしてちょうど木によって象徴されたアシュラが全ての存在の母なる神として崇められていたように、統一原理においても「善悪を知る木」は全人類の母となるべき「エバ」を象徴するものであったと解釈されている。そして木の実はエバの貞操を意味し、それを「取って食べる」という行為は、まさしく性関係を意味していると捉えられているのである。そして堕落によって閉ざされてしまった「命の木」とは、本来アダムが罪を犯さなければ至るはずであった完成の理想であった。このように見ると、はるか古代に生きたヤハウィストと統一原理は、時代や文化圏の違いを越えて、神が人類に対して語りたい普遍的なメッセージを受けとめているということが分かる。
そして統一原理はその物語の背後に、人類始祖の堕落に関するさらに詳細な秘密まで読みとっている。まず創世記に登場する蛇は、単なる動物ではなくて堕落してサタンとなった「天使」を象徴するものであると解釈されている。その蛇がエバを誘惑して善悪の実を食べさせたということは、本来アダムとエバの養育係として二人の成長を手助けするために創造された「ルーシェル」と呼ばれる天使が、まだ幼かったエバを誘惑して霊的な性関係を結んでしまったことを意味しているのである。そしてエバがその木の実をアダムにも食べさせたということは、彼女がアダムを誘惑し、彼までも罪の中に巻き込んでしまったことを意味するのである。
すなわちヤハウィストが書いた物語の持つ意味は、聖書批評学的に見れば当時の文化的状況を背景として理解されるのであるが、その物語の中には彼自身も意識しない内に、人類歴史の最初に犯された不倫の罪に関する秘密が隠されていた、と統一原理は見るのである。ヤハウィストは当時の社会的問題について真剣に悩み、その解決を求めていたので、神はそれをモチーフとして人類の罪の根源に関する秘密を啓示したのである。そして統一原理の堕落論は、今日我々の社会が抱える同じ問題の解決の為に与えられた、「神の啓示」なのである。(魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』より)