〝原罪″は血統的に遺伝される?②

統一原理における罪の概念

統一原理における罪の概念は、血統と密接に結び付いている。まず原罪自体が「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」であり、「血統的な罪」であるとしている。すなわち罪の根は淫乱にあったのであり、これは血縁関係によってつくられた罪であるために、子々孫々にまで遺伝されてきたととらえられているのである。人類始祖というような遠い昔の祖先ではなく、われわれに比較的近い先祖が犯した罪も、血統的な因縁によってわれわれに受け継がれるのであるが、これを統一原理では「遺伝罪」と呼んでいる。さらに自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪の「連帯罪」と、自らが直接犯した罪の「自犯罪」とを合わせて、統一原理にはつごう四種類の罪概念が存在することになる。

「遺伝罪」や「連帯罪」という概念は従来のキリスト教にはないが、原罪が血統を通して遺伝されるという考え方は、伝統的にキリスト教が取ってきた立場である。しかし一口に「原罪の遺伝」と言っても、その意味する内容には諸説ある。そこで、ここではそれを二つのタイプに大別して、それらが統一原理と一致する内容をもっていることを示すことにする。原罪に関するキリスト教の教理は、伝統的に旧約聖書の創世記第三章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語と結び付けられてきた。この点についてはキリスト教も統一原理も全く同じである。しかしそれがどのようにして後孫に影響を及ぼすのかということについては、キリスト教の中にも二とおりの考え方があったのである。

第一番目の考え方が「罪責の法廷論的伝播」というものである。「原罪」とは私自身が犯した罪ではなく、人類始祖アダムとエバが犯した罪であるにも関わらず、あたかもその罪を自分が犯したかのような罪責をわれわれが背負わされているというものである。これはわれわれがアダムとエバの子孫であるという「血のつながり(血統)」を条件として、その罪に対する責任を「法廷論的」に負うということを意味する。このような立場を取るのが、プロテスタントの中でもカルヴァン主義の流れをくむ「契約神学(Federal Theology)」である。契約神学の主張するところによれば、神はアダムを通して全人類と契約を結ぼうとしたのであり、その代表であるアダムが罪を犯すことにより、全人類が法廷論的にアダムの罪に巻き込まれるようになった、ということになる。統一原理における原罪の概念も、基本的にはこれと同じ枠組みでとらえられている。

もう一つの考え方は、「罪の生物学的な遺伝」というものである。これは原罪の教義を最初に体系化したと言われるアウグスティヌスの取った立場であった。彼は原罪の本質を情欲としてとらえ、肉欲によって汚された人間の性交を媒介として原罪が遺伝されるのであるととらえた。すなわち、たとえ正当な結婚による夫と妻の性関係といえども、それは罪深い情欲によって汚れているために、すべての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続するのであると考えたのである。このように性欲そのものを罪悪視し、それを原罪の遺伝の決定的な要因とする彼の立場は、後にカトリック教会から否定された。しかし性欲に焦点が絞られているという点を除いては、原罪が繁殖によって後孫に遺伝されていくという彼の主張は認められたのである。

統一原理も性欲そのものを罪とはとらえないので、その点ではアウグスティヌスの立場とは異なる。しかし、われわれが人類始祖アダムとエバから受け継いでいるのは単に法廷論的な罪責だけではなく、堕落によって生じた人間の腐敗した性質をも血統を通じて受け継いでいるととらえている点では、彼の考え方に通じるものがある。これを統一原理では「堕落性本性」と呼んでいる。「堕落性本性」とは、アダムとエバが堕落することによって、サタンとなった天使長ルーシェルの性質を受け継ぐようになり、それが歴史的に継承されてきたために、あたかも人間の本性のごとく深く根づくようになってしまった性質のことを言う。具体的に言えば、それは嫉みや嫉妬、恨みや憎悪、傲慢や反抗心、罪の繁殖や自己正当化といった、およそ人間の自己中心的な性質のすべてを含むと言っていいであろう。このような腐敗した人間性は、親から子へと遺伝や生活習慣を通して伝播されるのである。

このようにわれわれ個人の人生は、法廷論的にも遺伝的にも過去に生きた先祖たちの罪の影響を受けている、というのが「統一原理」の人間観である。個人主義的な倫理観が全盛である現代の観点から見れば、自分自身が犯してもいない過去の罪に対する責任が自分にふりかかってくるという考え方は受け入れ難いかもしれない。事実、実存主義的な哲学に基づいて聖書を解釈する現代神学の多くは、罪が血統を通して遺伝するという考え方を否定する。彼らにとってアダムとエバの物語は、遠い昔に生きたわれわれの先祖に起こった事件について述べたものではなく、常に罪の誘惑にさらされているわれわれの普遍的な状況を描写した「神話」なのである。すなわちアダムとエバはわれわれ自身のことを表しているのであり、彼らはわれわれの血筋をたどっていくことによってたどり着く罪のルーツなのではない。このようにして、彼らはアダムとエバの歴史的実在とともに「罪の遺伝」という観念をも否認してしまったのである。

しかしカトリックやプロテスタントの保守派をはじめとする伝統的なキリスト教は、公式的にはアダムとエバの歴史的実在を否定していないし、罪の遺伝という観念も捨て去っていない。したがって統一原理における罪の遺伝の概念は、明らかにキリスト教の枠内に入り、その中でも保守的・伝統的な理解をしているグループに入ると言っていいであろう。すなわち、統一原理における罪の遺伝の理解は、純キリスト教的な起源に基づくものであると言うことができるのである。(魚谷俊輔著『統一教会の検証』より)

 

 

〝原罪″は血統的に遺伝される?①

浅見定雄氏の批判

人間の堕落行為に関して、性的関係という〈行為〉の結果が血統として残るとは、古代人の考えならまだしも分子生物学時代の話としてはあきれた新説である(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』12ページ)。

 

批判に対する回答

「統一原理」が人間始祖の堕落を血統的堕落と呼び、人間始祖の堕落の罪(原罪)が血統的に遺伝されるというとき、それは、人間の罪が、生物学的な次元で、すなわち、生物学的な遺伝情報として子孫に伝えられるということではない。それは血統を中心とした霊的、宗教学的事象を生物学的言語を使って説明しているのである。――ただし、罪を持つことにより、人間の肉体に生物学的影響を与えるということはありうるであろう――。

「統一原理」が、人間始祖の堕落を血統的堕落と呼んでいるのは、サタンを介在しての堕落の行為の結果、神に連結されるべき人間始祖の血統が、サタンに連結されることになったということなのである。そして、このような、人間始祖の罪(原罪)――すなわち、神の血統を有するべき人類がサタンの血統を有するに至ったという罪――が血統的に子孫に伝えられるということは、何も生物学的遺伝子によってそれがなされるということではなく、人間始祖を含めた人類の血統的な有機的一体性(血統的因縁)のゆえに、子孫にもその罪が転嫁されるということなのである。このことに関しては、パウロもロマ書で「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり……、こうして、すべての人が罪を犯した」(5:12)と述べているとおりである。

このような「統一原理」の考えは、アウグスティヌスらによって主張された「自然首長原則」の説に近いもので『聖書教理ハンドブック』は、「アダムは、人類の連帯的かしらである。代表の原則は、アダムの堕落のときに行われていた(参照ロマ5:12~21、Ⅰコリント15:22)。アダムが罪を犯して堕落したとき、私たちはアダムの中にあった。それゆえ、アダムの罪とその恐るべき結果は、彼の子孫に転嫁され、彼らのものと認められ、法律的に彼らに対して責任が追及された(参照ロマ5:12、15、18、19)」(いのちのことば社・91ページ)と述べている。

また、原罪が血統的つながりを条件として伝えられるということについては、『大教理問答書』は「原罪はわれわれの始祖たちからその子孫に自然的生殖によって伝えられるから、その方法によってかれらから生まれてくるすべての者は罪のうちにみごもり、また、生まれる」(第26問の答えより)と言っており、『カトリック聖書新注解書』は「原罪はアダムという個人によって犯された罪から出るものであって、生殖を通じてすべての人に伝えられ、すべての人の中に本人の罪であるかのように存在する」(エンデルレ書店203ページ)と言っている。また『現代教義学総説』(新教出版社)では「J・ゲルトハルトは『原罪は、全人間の――原義から離れた――本性の最も内的で最も深い腐敗であって、それは、最初の両親たちの堕落から発生したもので、彼らから肉による出生を通して、すべての子孫に移されたものである』と定義している」と述べている。

以上、「統一原理」は、罪が血統的つながりを条件として転嫁されていくことは主張するが、決して罪の本質を“物質的概念”として扱っているのではなく、徹底的に“関係概念”として捉えているのである。したがって、浅見氏の批難は何ら、当を得たものではない。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

「無性生殖」は、原理講論が述べる二性性相の例外?

浅見定雄氏の批判

すべての植物は、雄しべと雌しべとによって存続するというが、ではシダ類、コケ類、アオカビ、淡水海綿などの無性生殖はどうなるのか。すべての動物は雄と雌とによって繁殖生存するというが、ではアメーバーやゾウリムシ、ミドリムシなどはどうなのか(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』10ページ)。

 

批判に対する回答

動植物の繁殖形態については無性生殖と有性生殖の二つがある。自然界においては有性生殖がほとんどで、最も基本的な繁殖形態といえるが、原始的な生物の中には質問中にあるような無性生殖の生物も存在することは事実である。

しかしながら、無性生殖だとされているゾウリムシやアオミドロなどの単細胞生物も、いったん環境条件などが悪化すると単細胞の二個体があたかも雄、雌のように合体(接合)し、新個体(接合子)となることが確認されている。例えば、アオミドロは細胞が並んだ糸状体で、環境が悪くなると二本の糸状体の向かい合った細胞が配偶子(生殖のための特殊な細胞)となり、互いに接合管を出して接合し、一方の原形質が他方に流れ込んで接合子をつくる。この際、流れ込む方が十性(陽性)であり、流れ込まれる方が一性(陰性)と呼ばれている(『よくわかる生物I』旺文社)。

さらにもっと次元の低い細菌のようなものにも、そのような接合が見られることが分かってきている。1946年、スタンフォード大学医学部の大学院生だったジョシュア・レーダーバーグは「メチオニンがないと発育できない大腸菌」ともう一つの「スレオニンがないと発育できない大腸菌」とを混合し、三種類の栄養の入った寒天培地―― 一つはメチオニンを含まない培地、一つはスレオニンを含まない培地、もう一つはどちらも含まない培地――にまいてみた。その結果、どちらも含まない培地には、この二種の大腸菌は繁殖しないはずなのに、不思議にも数十個の集落が成育したのである。これは二種の菌の接合による遺伝子の伝達によって、メチオニンとスレオニンがなくても増殖できる新しい種の菌をつくり出したことを意味している。この接合の際、二種の菌は十性と一性という配偶子と同じ働きをすることが確認されている(『性の源を探る』岩波新書183ページ以下)。

また、他の文献にも「高等生物では染色体の交叉(受精)をやっているけれども、バクテリアでも染色体に相当する核酸分子でつなぎ換え(接合)を行うことは珍しくない」(『偶然と必然』東大出版会103ページ)とか、「バクテリアにも雄雌があり、少しへばってくると接合」(『生命の物理学』今堀和友・講談社70ページ)するなどの記述がある。

このように、アオミドロや細菌のような最も下等な生物においてすら非常時には高等動物における有性生殖と同じような現象が見られるということは、基本的には、その背後に十性と一性が潜在的に存在していると言うことができるであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

反対牧師諸君へ- 統一神学博士からの手紙

クリスチャン・フィッシュ
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救い主)の頭文字を並べたもの

統一教会信者に対する拉致監禁・強制改宗に携わっている牧師たちは、統一教会の信仰が「異端」であるということをその活動の動機としています。とりわけ「福音派」と呼ばれる、聖書を文字どおりに解釈する教派の牧師たちは、統一教会がキリスト教を名乗りながらも聖書をでたらめに解釈して人々を惑わすので、その信者に「正しいキリスト教」を教えてあげることが救いであると信じて疑いません。

そのため、彼らは監禁の現場で自らが寄って立つ福音派の神学に基づいて統一教会の教えである「統一原理」を批判し、信者の信仰を破壊しようと試みます。神学に対する専門的な知識を持たない一般の信者たちは、こうした牧師たちによる統一原理批判に対して答えられないばかりか、外部との接触を完全に遮断され、長期監禁・説得をうけるという異常な環境下のもので、彼らの教えこそ「正しいキリスト教」であり、統一原理はでたらめであると思い込まされて信仰を失ってしまう場合が少なくありません。

しかし、キリスト教神学に対する広範な知識があれば、こうした批判が的外れなものであったり、非常に偏った立場からの批判であることが分かり、逆に福音派の神学との比較を通して統一原理の神学としての真価が再認識されるのです。

このたび、キリスト教神学を専門的に学ばれ、米国ニューヨーク州にある統一神学大学院で神学を講じている神明忠昭博士が、主に福音派の反対牧師による統一教会批判の代表的な12項目に対して答えながら、福音派の神学の限界と統一原理の価値を明らかにする論文を特別に寄稿してくださいました。

この論文を通して、反対牧師の説得によって統一教会を去った兄弟姉妹の皆さま、監禁から生還したものの統一原理に対する疑問を抱いている信者の皆さま、そうした信者たちを信仰指導する牧会者の皆さま、そして広く一般の皆さまに、統一原理のもつ神学的な価値を再認識していただければ幸いです。

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目次


神明忠昭プロフィール

1944年福島県生まれ。1971年東京大学工学部原子力工学科卒業。73年統一教会宣教師として渡米。77年アメリカ統一神学校卒業。84年ドゥルー大学 (Drew University) 大学院卒業でキリスト教神学博士号 (Ph.D.) 取得。その後、統一神学校神学教授職を経て、94年から2000年まで当校の総長として奉職。2000年以降、世界平和超宗教超国家連合 (IIFWP) および天宙平和連合 (UPF) 国際本部主任研究員。アメリカ宗教学会 (AAR) 会員。北米カール・バルト学会 (Karl Barth Society of North America) 会員。専門分野は教父神学、カトリック神学、現代プロテスタント神学、および組織神学。特に、アウグスティヌス神学とホワイトヘッド哲学に造詣が深い。著書『統一主義における探究』等、多数。学術論文出版多数。66年9月統一教会入教。777双祝福家庭。

統一原理における聖書観 【重要】

原理講論
原理講論

統一原理における聖書観

1980年代後半頃、日本イエス・キリスト教団・荻窪栄光教会で、統一教会信者の脱会説得を行っていた人物の一人が宮村峻(後藤裁判における被告の一人)です。

宮村は、監禁中の統一教会信者に対して様々な教理批判、活動批判等をしました。その彼が、決め言葉として用いていたのが

「原理は聖書に基づいているんだろ、だけど、原理は聖書とは違う、だったら原理はでたらめじゃないか!」

というフレーズでした。

宮村の脱会説得を受けた青年たちの多くが、

「宮村さんのこの言葉によって自分は最終的に原理が間違いだと結論づけた」

と述懐しました。その一方で、「頭では原理がでたらめだと分かっている。だけど、心は原理が真理だと思っているので苦しくてしょうがない。誰かこの矛盾を解いて欲しい」と訴えていた元信者も複数いました。

既成キリスト教会の「福音派」では、聖書を文字通り解釈しようとする立場をとる牧師が多くおり、その教義は、「三位一体」(神、イエス、聖霊の三者が同一の人格であるという教え)、イエスの「処女降誕」、イエスの再臨は雲に乗ってくる等、キリスト教と縁のない一般人にとって、にわかには合理性を感じ得ない面があります。

しかし、聖書の文言解釈による教義だけを見ればそれなりの一貫性もあり、文言にどれだけ忠実かという基準で見れば、統一原理よりも既成キリスト教の方が優れているかのように見える面もあります。そこで、脱会説得の専門家らは、必ずと言っていいほど、聖書の文言に照らし、いかに統一原理がでたらめかという点を、脱会説得の批判の中心に据えています。

では、統一原理は、聖書に基づいている教えなのでしょうか?

監禁現場では脱会説得の専門家らは、かつて統一教会が対外的に発表した信仰告白に、「統一教会は新・旧約聖書を永遠の教典とする」といった文言があることに基づいて、「原理は聖書に基づいているんだろ?」と迫ってきます。また、『原理講論』の中にも、統一原理の教えを論証する過程で、聖書の文言を引用して説明している箇所が多々あります。

そこで、監禁中という特殊な霊的雰囲気もあって、ともすれば「原理は聖書に基づいている」という錯覚に陥りがちです。そして、一旦この錯覚に陥った元信者等は、『原理講論』を何度読んでも、この錯覚から抜け出すことができなくなってしまうのです。もしこのような状況に処したときは、是非、文先生の次のみ言を思い起こして頂きたいと思います。

「先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです」(1990年1月13日、参照:『踏みにじられた信教の自由』286頁)

「我々は真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります」(『希望の到来』171頁)

そして、統一原理と聖書との関係については、実は『原理講論』「総序」において、すでにその核心部分が明記されているのです。すなわち、総序には次のように記されています。

「この最終的な真理は、いかなる教典や文献による創造的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも編み出されるものでもない」(37頁終わりから2行目以降)

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「この真理は神の啓示をもって、我々の前に現れなければならない」(38頁1行~2行)

「先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのでさる」(38頁7行~9行)

すなわち、文先生は、聖書の文言を元にして統一原理を構築されたわけではなく、むしろ、神の啓示である聖書には、まだ真理が十分には書かれていないという前提のもと、霊界や地上界を行き来し、神と霊交する中で真理を解明されていかれたのです。

したがって、『原理講論』に含まれる聖書解釈は、文先生が解明された真理に照らした場合、聖書の文言の背後にある神様が真に伝えたかった内容を説いたものということができます。

例えば、『原理講論』には、聖書の創世記3章に出てくるエデンの園にいた蛇は天使長ルーシェルのことだと記しています。聖書の文言を重視する立場からは、この蛇とは文字通り蛇を意味することになるでしょう。しかし、文先生は、霊界・地上界を行き来し、人類堕落の原因を解明し、最後は神様や聖賢達と直談判する中で、遂に神様からも真理であるとの承認を得たわけです。

そうした過程を経た上で、聖書にある「蛇」とは、実際には天使長ルーシェルのことを意味している、との真理に立脚した聖書解釈を示されたわけです。つまり、原理は聖書に基づいているのではなく、逆に文先生が勝ち得た真理に基づいて、聖書には十分に書かれていない真の事実関係を解き明かしたのが統一原理における聖書解釈だということができます。

なお、このような解釈に対しては、「聖書を改竄するもの」との批判が反対派からなされています。しかし、文師ないし関係機関が、聖書を改竄して出版したことは一度もありません。むしろ、聖書の文言には手を加えず、その背後にある真理を解き明かしているのが統一原理における聖書解釈です。

また、反対派の話を聞いて、「原理はでたらめだ」との錯覚に陥った元信者の中には、「自分は本当のキリスト教の教えが全く分かっていなかった。だから原理を真理と信じたんだ」と悔いて、既成キリスト教会の神学校で勉強を始める者もいます。

しかし、この考え方は、かつて多くのクリスチャンたちが既成キリスト教会の教義に限界を感じ、統一教会に来たことを説明できません。つまり、実際には、既成キリスト教会の教義には限界があり、洗礼を受けたキリスト教徒であっても内外の様々な矛盾を解決できないために、この限界に気づいた若者たちが再臨主の説いた統一原理に出会って感動し、信者となっていったわけです。
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韓国でも梨花女子大学事件では、複数の教授や助教授をはじめ、多くのクリスチャン達が統一教会の信徒となったわけですし、日本でも、古参の信者の中には熱心なクリスチャンだった人たちが大勢います。そしてこうした信徒等は、すでに既成キリスト教会の限界を十分に認識した上で統一教会に来ているので、既成キリスト教会の教えをいくら説かれても、信仰を失うということはありません。

ところが、既成キリスト教会を通過せずに統一教会に出会った信徒たちは、反対牧師が聖書の文言解釈をもとに説く、従来の既成キリスト教会の教えを真理だと錯覚し、その門下に下るわけですから、大変な回り道をさせられていることになるわけです。

この後の解説では、聖書の個々の文言を巡っての統一原理と既成キリスト教会の解釈の違いに関して解説がなされていきますが、統一原理における聖書観を見失うと、「木を見て森を見ない」結果となってしまいますので、常に、本則に立ち返って個々の問題を研究して頂ければと思います。

近藤論文

「『原理講論』は盗作」批判に対する徹底反論

原理講論
原理講論

教理剽窃是非に対する釈明
-剽窃うんぬん、とんでもない話-
柳 光烈

剽窃の意味
国語辞典によれば剽窃(ひょうせつ)とは、「詩や文を作るのに他人の作品の一部をひそかに取って書くこと」と定義されている。剽窃とは明らかに芸術作品の創作と発表の過程で多く問題にされることである。

分かりやすい言葉でいえば、剽窃とは「文章泥棒」である。健全な常識は剽窃を「真理泥棒」とは考えない。したがって今、統一教会の原理に関して、剽窃のいかんを解明しようとすることは、根本的には時間の浪費で、無意味なことだといえる。なぜなら、教理は真理の範疇に属するものだからである。真理はある発明家の特許品でもなく、ある詩人や作家の作品でもなく、ただひとえに人類共有の道理なのである。

世間で、同じだったり似ているものがあった時に、どちらかが剽窃だから剽窃した方は撤回せよ、といつも言っていたら、人々は、発展や生産的なことをおいても、年中けんかに明け暮れるようになるだろう。

イタリアの気候と韓国の気候が剽窃問題で争い、AとBの血液型が同じだからといって、どちらかがどちらかを真似たんだろうとけんかし、この団体とあの団体が、どんな剽窃の経路を通して「愛国」をその団体の目的に打ち立てるようになったのかを明らかにしなければならないだろう。

そしてすべての宗教団体が、その教理の共通点がなくなるまで、戦闘をし続けなければならないだろう。カトリックはプロテスタントに、「どうして人の聖書を盗用するのか」と「聖書禁止仮処分申請」を提起し、また既成キリスト教会は統一教会に「なぜ他人の神様を父と信じ、他人のイエスを救世主と信じるのか」と、剽窃騒ぎを起こさなければならない。

しかし神は、いくつかの教派の人たちだけの神、つまりそういう局限性を帯びた神ではない時に、むしろ初めて真の神になるのであり、「キリスト教徒だけのイエス」の意味を越えて、世界万民のイエスである時に、その時初めてイエスは、真のメシヤの位置に立つようになるのである。

何か言ったからといって、それが全部言葉になるのでなく、必要な言葉を必要な時に語る時にその言葉が価値をもつようになる。こう言ったからといって、統一教会がある特定教団の教理を借りて使ったり是認したり、正当化しようとしているのでは、決してない。

剽窃問題の発端
今まで統一教会に関して、教理剽窃が正式に問題化したことはない。それは根本的に問題になる性質のものではなかったからである。ところが去る(注:1975年)5月19日、ソウルセムアン教会で「統一教批判講演会」というのがあり、その演説者の一人である朴英官氏が〈歴史的批判〉と称して語った言葉の中で、統一教会の文鮮明先生が金百文先生のイスラエル修道院から教理を剽窃した、と公表したのである。あるいはこれが今、教理剽窃問題という、なくもがなの説明をしなければならなくなった、そのきっかけであったのかもしれない。

朴氏の公表した剽窃問題とその真相
まず、朴氏の語った内容を正確に紹介してから、項を別にして解答を提示しようかとも思ったが、便宜上適当に区切って問題点と真相の説明をし、それぞれに処理した。

朴氏は「『原理講論』は『基督教根本原理』の剽窃である」と宣言した。氏はまるで自分が宗教裁判官であるかのような態度をとったが、たとえ骨の髄まで見透かされる神様であっても、教理剽窃うんぬんといった式の判決などは下されないだろう。朴氏はまた次のように語った。

「基督教根本原理から剽窃したのです。それは年代的に、構造面から、核心思想から見てそうなのです。今から20年前に、金百文が京畿道・・・・・・にイスラエル修道院を立て、そこで3年、3年、3年と9年間キリスト教の根本原理を教えた時に、二人の人が熱心にそこで学びました。一人が統一教会の文鮮明で、もう一人が朴泰善です」――まるで自分の目で見てきたように言い放った。

ところが、20年前(注:1955年に該当)という言葉自体が当たっていない。それはまあ、子供っぽい当てずっぽうだったのだろうと、了解することにしよう。朴氏の言葉は事実、ほとんどが間違っている。

先生は解放(終戦)の年(注:1945年)の秋から翌年の春まで、そのころはまだ修道院は発足前であったが、金百文先生の集会運動の草創期に、朴氏が指摘した京畿道のとある田舎のイスラエル修道院ではなく、上道洞(ソウル)礼拝所(正式名称ではない)で約六ヵ月の間補助引導師をされ、やがてそこを出られたことはある。しかしその田舎にあるイスラエル修道院で……二人が熱心にそこに出向いて学んだというのは、全く根拠のないことで、それこそ誰のどんな小説を剽窃して話をつくり上げたのか、理解に苦しむ。

朴氏は、「一人が統一教会の文鮮明だ」と言うけれども、文先生は朴氏が語るそんな主人公としての一人ではなかったし、さらに朴氏が、「もう一人が朴泰善だ」と言うが、あるいは朴長老本人は肯定するかもしれないけれど、私たちの知るところでは、彼はその時そこに一緒にいた事実は全くなく、そればかりか、文先生と朴長老とはいまだかつて一面識もない間柄である。そうした二人を金氏の二大弟子でもあったかのように、わざと粉飾して言ってもかまわない、そんな特権が朴氏にあるのだろうか。

また朴氏は両方が出した本の出版年代を挙げて、次のように言った。

「基督教根本原理は、1958年3月2日出版、原理講論は1966年で、年代的に見ても原理講論があとだ」。

上記の言葉自体は間違いではない。ただもっと適切に言うべきことを、わざと省いたまま、自分に都合のいいように語ったところに問題があるのであって、この内容は真実ではない。

朴氏は、もう少し学者らしく、またもう少し正確な批判をするためには、次のように論証すべきであった。

「統一教会の原理解説が発行される三年前に、耶蘇教イスラエル修道院(金百文)から『聖神神学』という本が出された。その本の目次を見ると、第1課-聖子経路(ヨハネ1章、第2課-重生論(ヨハネ3章)、第3課-聖神神学(ヨハネ3章)、第4課-救援論(ヨハネ3章)、第5課-礼拝学(ヨハネ4章)、第6課-聖体論(ヨハネ6章)、第7課-キリスト観(ヨハネ7~14章)、第8課-信仰結果論(目的論的結果原則、ヨハネ15章)、第9課-創造前世界(ヨハネ17章)となっている。それから3年後、1957年(檀紀4290年)8月15日に統一教会から発刊された『原理解説』の目次は、前編、第1章-創造原理、第2章-メシヤ降臨とその再臨の目的、第3章-人類歴史の終末論、第4章-復活論、第5章-堕落論、第6章-復帰摂理から見た予定論、第7章-エリヤとして再臨した洗礼ヨハネとイエスの再臨、第8章-キリスト論、後編-四位基台復帰を中心とした人類歴史の蕩減復帰路程、第1章-復帰基台摂理時代、第2章-復帰摂理時代、第3章-復帰摂理延長時代、第4章-復帰摂理完成時代である。二つを対比すると両者の間には、類似の痕跡は何もない。

前者が目次の表示を学校の教科書の方式をとって〈第○課〉としているのに対し、後者は一般著書の様式に従って〈第○章〉と表示している。そして双方の目次には同じ単語が一つもないだけでなく、構造面でも大きく異なっていることはたやすく分かる。

前者はヨハネの神学を分析、検討、整理し、再構成した各論を列挙したところに特徴があるが、後者は神学上、いや信仰上基本となるいくつかの主項目を前編に収録したあと、後編で神の復帰摂理歴史の展開の実際相を綿密に説明、描写した。

そして前者の神学の目次には、「聖子経路」「重生論」「聖神神学」「救援論」「礼拝学」「聖体論」「信仰結果論」「創造前世界」といったようなものがあるのに比べ、後者の原理解説には、前者のものとは非常に異なる「創造原理」「メシヤの降臨とその再臨の目的」「人類歴史の終末論」「復活論」「堕落論」「予定論」「洗礼ヨハネとイエスの再臨」などがあるほか、約半分の量を後編の復帰摂理歴史が占めている。

このように両者間の各主題でさえ95パーセント以上が相違し、ただ一つ、前者が「キリスト観」を、そして後者が「キリスト論」を書いているだけだ。

キリスト教神学の各分野を総合的に論述した著書であれば、どんな正統的な基督教神学者の著書であっても、『聖神神学』や『原理解説』と照合してみれば、相似点は多々あっても、この二書の間の差異よりももっと大きな差異を発見することは、できないだろう。まず構造面からしてそうである。

三年前に出た『聖神神学』と、あとに出た『原理解説』の内容を調べてみると、『聖神神学』の中にも少ながらず「原理」という単語が目につくのが特色ある点といえるだけである。そのほかには、原理解説の方で聖神神学を参考にしたといえるような痕跡は何もない。

文鮮明先生か記した『原理原本』と先生の話された内容を総合的に整理して、劉孝元協会長(当時)が原稿を書き、これに柳光烈文化部長(当時)が文章の修正を加え、そしてまた文鮮明先生の監修を経て刊行したのが『原理解説』であるし、その上、この本の製作過程において、『聖神神学』という本が出ているという事実すら、知ることができなかったのが本当のところである。

朴氏の主張どおり教理剽窃の意図があったとすれば、まずこの最初の著書からそれが始まっていなければならないはずである。二つの本の出版年代の差異が三年であるということは、後の者は十分に前の者を写したり、適当に変えてしまうことができるからである。

一方朴氏は、1966年に出た『原理講論』は1958年の『基督教根本原理』よりも遅いと指摘し、そして構造面でも、また核心にある思想も、互いに同じであると主張している。

しかしたとえ同じ点があろうと、金百文先生の方も文鮮明先生の方も誤ったことはないのであり、ただ、偶然か、そうでなければ、霊通した根源が一つの神なので、ある程度同じでありながら、また二人がいろいろな面で互いに異なっているように、それなりの差が二つの本の間にもあるのかもしれない。

正に年代順にいうならば、かえって朴氏の主張とは正反対の結論が出るが、すでに1954年に出た聖神神学の序文(啓)に本章と共に未来に伝えるキリスト教三大原理書という予言があったので、基督教根本原理(1958年刊)が統一教会の原理解説(1957年刊)を剽窃していたとは、少しも考えない。しかし、表れた事実と経緯だけは、明らかにし少数の誤者の認識を正しめたい。

①上述したように、1954年3月2日に出た金百文先生の『聖神神学』と、1957年8月15日に出た統一教会の『原理解説』は、必要があれば十分に前者を模写する時間上の隔たりがあったのだが、両者は少しも似たところがない。朴氏の主張を裏づけるだけの剽窃行為をしなければならなかったとすれば、この段階しか機会がなかったにもかかわらず、統一教会側では、何年か前に『聖神神学』という本が出ていることも知らないまま、ただ自分たちの講義をし、自身の原稿をのみ執筆してきて、1957年に自体の必要性によって、『原理解説』を発刊したのである。

②『原理解説』が出てから半年足らず(1958年3月2日)で金百文先生の『基督教根本原理』が出たのだが、これが構造面から一見すると、統一教会の『原理解説』と非常に似通っていた。つまり、編、章、節というふうに体系的に論理を展開するばかりでなく、構成も第1編-創造原理、第2編-堕落原理、第3編-復帰原理と大別して、朴氏のような人物がこれを詳細に前後をわきまえてよく見たら、金百文先生が統一教会の原理を剽窃したのだ、という結論を出すのにあつらえ向きになっている。しかし筆者の見るところでは、この両者の間には、少なくとも意識的、故意的な剽窃関係はなかったと断言したい。金百文先生の『基督教根本原理』が、わずか半年の間に統一教会の原理解説の模写作業をしてしまうのは、とうてい不可能である。それは菊判(注:縦218mm×横152mm:A5判よりやや大きい)850ページ近い膨大な本であり、また前に述べたとおり、1954年度の『聖神神学』が出る時から計画されていた本であるからである。

ただ目次の編成や論理展開の構成が、統一教会の『原理解説』のそれと近似しているが、『原理解説』とは全く関係なく、6.25事変(韓国動乱)直後に出した最初の本(聖神神学)に比べて時間的余裕があったので、実務者によっていくらでも、学術書に使う一般様式を導入したり、また日進月歩の洗練を期すことができたからである。

③また朴氏は、いい加減にも、1966年5月1日に出た『原理講論』を持ち出して、1958年に出た『基督教根本原理』よりも年代的にあとであると、何か大きな発見でもあるかのように声を大にしているが、そんな言い方をすれば1958年に出た『基督教根本原理』は、1957年に出た統一教会の『原理解説』よりあとだ、ということもできるのだが、そんなにわとりか玉子かというような論難までしなくても、これに対する反証の資料はいくらでもある。朴氏には申し訳ないことだが、統一教会の『原理講論』は、統一教会から最初に出た本でもないし、一番新しい本でもない。『基督教根本原理』に先立って出た『原理解説』の改訂版で、再版と変わるところのない本であることを、今、遅ればせながらでも認識し、その見解を正さなければならないだろう。

人のことを言おうとするなら、もっと注意深く調べてみる手間くらいは惜しまないでもらいたい。

また朴氏自身が『原理講論』以前に『原理解説』がすでに出ていたことを知っている以上、二つの本を対照して互いにどんな差異があるかくらいは調べておいたら、こんな無謀な失敗はしないで済んだはずである。

結 論
結論はこうである。朴氏のやり方のように、双方の教理書を取り上げて年代順に考えたり、またその表れた結果をもって見るならば、あたかも金百文先生の『基督教根本原理』が統一教会の『原理解説』を模倣したかのような印象が濃いけれども、その著作経緯をよく見ると、そんなことは全くあり得ず、それはそれなりの完全に独自的な教理書であることは疑い得ない。また『原理解説』もやはり、著作経緯から見て根源的に独自的なものであって、朴氏のいう剽窃うんぬんなどは、とんでもない話である。

文先生はたった半年とはいえ金先生と共にいたのだから、いくらかでも金先生の教理を聞いたのではないかと、あくまでも主張するなら、話はこの問題からそれていかざるを得ない。

文鮮明先生は、まだ修道院が出来もしないころ、ある礼拝所の、それも解放直後の混沌としていた時期に、補助引導師として半年間を過ごしながら、自由に往来する金先生と時たま接触されたが、そのまま北韓に行って教会を設立し、その後約3年間も厳しい監獄生活を送られた。

6.25以後、すぐに南下して避難の苦役を経たのちに、先生なりの福音伝播活動をして教理を広めたのであるが、そうした経緯を経ながらも、あのように世界の耳目を集めるほど、古い教理をよくよく考え、整理する能力をもっているのだから、その先生が、自らは何もせずに、人の教理を盗むような人柄であるはずがない。

文鮮明先生か他人の教理を剽窃した人物になるようにあくまで結論を導こうとすれば、朴氏は、文先生と他の全世界の神学者、牧師たちも共に、伝統的なキリスト教の教理を99くらい剽窃してから、別の特殊な人の教理も一つくらい剽窃したと計算しなければ、つじつまが合わなくなるだろう。百歩譲って、ある先輩、先生から文や真理を学んで自分のものにしたことが、すべて剽窃行為になると、規定するほかないとしての話である。

その代わり、その時には全世界の学者たちは一人残らず、剽窃行為者として自認しなければならないだろう。(『受難の現場: 統一教会受難とその真相』p.319~325)

自然を観察すれば神様が分かるって本当?①

地球 虫眼鏡 観察s浅見定雄氏の批判

『講論』は自然界を通して神のことが分かるとしているが、古代の「パウロ」にとってはともかく、現代人にとっては、この世界を観察して分かるのはあくまでこの世界の性質だけで、そこから神の性質など、知ることはできない。だからこそ神学という学問があるのだ(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』8ページ)。

批判に対する回答
自然を通して神を知ることは神学ではなく、聖書を通して神を知ることだけが神学であるとのことであるが、これも神学の初歩的認識すら無視した表現である。神学の中には自然を通して神を知るという「自然神学」ないしは「一般啓示」と、聖書などを通して神を知ろうとする「啓示神学」ないしは「特殊啓示」の二つの立場がある。もちろん「自然神学」「一般啓示」は認めない、と主張する人もいる。しかし、一方ではそれらを認める神学者も多くいるのであって、前者のような考えは決して一般的、客観的見解とは言えない。

かつては、バルトとブルンナーという二大神学者がこの問題を中心に大論争(イマゴデイ論争)したこともあったが、いまだに決着を見ていない。『講論』は、どちらかと言えば後者の方に立って、「自然神学」「一般啓示」にも位置を与えようとする。すなわち、人間は堕落したといえども、まだ、その中に、神の本性(かたち)が残っており、それゆえ、十分とは言えないまでも自然の中における神の啓示を理解する能力を持っていると考えるのである。このような立場に立って、『講論』は、自然界から、自然科学者は自然科学的に多くの真理を学び取るし、宗教者は宗教的(神学的)に多くの真理を学び取れると主張するのである。

ただし、『講論』は「神の言」すなわち「特殊啓示」を軽視しているのではない。もちろん「特殊啓示」は「自然啓示」より全面的に優先されるべきものである。しかし、自然を通して神を理解することも、特殊啓示の光に照らされてなされるところ、神を知るための有効な助けとなると考えるのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より、一部修正)

CiNii 図書 – 浅見定雄氏に対する反論 : 統一教会への教理批判に答える

統一教会の教義 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

原理講論 | 世界基督教統一神霊協会(統一教会)公式ホームページ

Amazon.co.jp: 原理講論―重要度三色分け: 世界基督教統一神霊協会: 本

人類歴史をたった6000年と見なしている?

日と月s浅見定雄氏の批判
人類歴史をたった6000年のことと見なしている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』20ページ)。

批判に対する回答
『講論』で扱われている人類歴史六千年という数字は、あくまでも聖書の記述を中心とした摂理的数字であって、象徴的なものであり史実とは異なるものである。参考のため、以下に『講論』の思想的展開である『統一思想教材』(統一思想研究院)から一文を引用しておきたい「人類始祖出現六千年説には必ずしも固執しない。六千は六数に摂理的な意味があるのであり、実際には数万年以上あると見る」(208ページ)。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)