『原理講論』はキリスト教の神と易学の太極を同一視?

浅見定雄氏の批判
神が陽性と陰性を持つという教えの背後に、韓国の通俗的陰陽五行説、日本の陰陽道がある。「陰陽の中和的主体である太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものである云々」、「陽陰が即ち『み言』であるという易学の主張は妥当である」という『講論』の箇所がそれを示している。『講論』は、「キリスト教の〈神〉と易学の〈太極〉、否〈陰陽〉そのものを、まったく同一視している」(浅見定雄『統一協会=原理運動―その見極め方と対策』206~207ページ)。

原理講論
原理講論

批判に対する回答
ここでも浅見氏は、『講論』の論旨を正しく伝えず、また、自分かってに〈まったく〉などという言葉を付け足して故意に文章の意味を曲げ、読者に誤った『講論』のイメージを与えようとしている。『講論』では、キリスト教の「神」と易学の「太極」とを〈まったく〉同一視しているわけではない。〈それに当たるものだ〉と言っているのである。

『講論』は、浅見氏が引用している部分の後、次のように言っている。「しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。

したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである」(『講論』49ページ)。すなわち『講論』の「太極は二性性相の中和的主体である神を表示したものである」という記述は、〈太極は二性性相の中和的主体である神の陽陰の中和的主体という内容のみを表示したものである〉と解釈されるべきなのである。

「陰陽」「み言」に関する問題も同じである。『講論』では、「陰陽が、すなわち〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(49ページ)と記されている。この〈み言〉というのは、前後の文意からして「一陰一陽之謂道、道也者言也」という易経に記されている〈言〉を指すものであるのに、浅見氏は、「陰陽が、即ち(聖書のヨハネ福音書のいう)〈み言〉であるという易学の主張は妥当である」(『対策』207ページ)と文意を取り違えた上、それをかっこにして注意書きまでしている。
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ここでも『講論』は易学の〈言〉は、聖書のヨハネ福音書の〈言〉と同じであると短絡的に考えているわけではなく、それに当たるものだと言っているのである。

ところで、これらのことをもって浅見氏は鬼の首を取ったかのように、「統一原理」はキリスト教ではないなどと主張しているが、事実は反対である。これらのことは、「統一原理」がユダヤ・キリスト教思想の流れの上に立ちながらも、東洋思想の受容できる優れた神学を有していることを示すものであり、むしろアジアにおけるこれまでのキリスト教が、東洋という視座に立って神学の見直しをしてこなかったところに問題がある、と言うべきであろう。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

アベルの小羊はイエスの十字架の予表だった?

アベルとカインs:「カインの供え物が顧みられなかったのは、彼の捧げた供え物が地の産物だったからで、地の産物は血が流れないため、人類の贖いの供え物としての神の小羊、すなわちイエス・キリストの十字架の犠牲を予表(象徴)することができなかったからである。

また、アベルの供え物が受け入れられたのは彼の信仰(人間側の功績)のゆえであって、神の選び(善の表示体)だったからではない。ヘブル人への手紙11章4節に、『信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた』とはっきりと述べられている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:まず第一に、供え物の種類が悪かったという考え方に対してですが、それでは神はいつでも供え物として血の流れるものばかりを要求されたのかというと、決してそうではありません。例えば、素祭などは地の産物でした(レビ2:1~16)。

したがって供え物がすべて十字架を予表しているという考えは、聖書のすべてを“血による贖い”という観点から見ようとする、行き過ぎた見解といえましょう。このことに関して次のように述べられています。

「カインとアペルのささげ物は、罪の赦しを求めてのそれではない。……しかし感謝の中に、神よりの好意と祝福への願いを認めるなら、広義の和解の求めを認め得る。この意味では、作物のささげ物も、羊のそれも本来同じものであろう。……カインの場合、罪のための動物の血が注がれなかったから受け入れられなかったと言われる。しかし、これは啓示の歴史の流れと、直接の文脈の両方から外れている。……カインのささげ物が受け入れられなかった理由が明らかにされなかったからこそ、『神がカインにとり隠された神となり怒りの神となった』」(『新聖書註解旧約1』99ページ〈関根氏〉)。

「神はアベルとそのささげ物に目を留められたが、カインとそのささげ物は顧みられなかった。相違はどこにあったのか。へブル語本文では、ささげ物自体にこの原因を見い出していない」(前掲書69ページ)とはっきり述べられています。

第二に、アベルの供え物が受け入れられたのは、その信仰(アベルの資質・功績)のゆえであったという点に関しては、「統一原理」は必ずしもアペルの信仰を否定するわけではありません。しかしそのことが決定的な条件であったのではなく、その背後にもっと深い神の選びの計画があったとしているのです。例えば、次のように記されています。

「ヤーウェがアベルの供え物を受け入れ、カインの供物を拒否した理由の説明はない。後代のユダヤ教の伝承……は功績によるものであるとしているが、著者は、神の選択が無償であることの説明に使っている。これはイサクとヤコブの場合などにも同じであって、神は長子を無視して別の子を選んでいる」(『カトリック聖書新註解書』207ページ)。

またヘブル人への手紙11章4節に関しては、「アブラハム以外の人々の信仰について旧約聖書は特別に述べていない。この書の筆者の解釈である。……信仰という点で特にアベルの事跡を求めることはむずかしい」(『新約聖書略解』684ページ)と述べられています。(『聖句Q&A』より)

「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」の根拠は聖書のどこに?

ノアs:『原理講論』によると、「ノアは120年間あらゆる嘲笑を受けながら山頂に箱舟を造った」ということですが、聖書のいったいどこに記されているのでしょうか。

:確かに創世記6章の洪水物語をずっと読んでみても、ノアが啓示を受けてから洪水審判まで120年あったと明確に述べられている箇所はないように思われます。しかし、ヒントとなる重要な聖句が創世記6章3節に記されています。
「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は120年であろう』」。

これは一見、質問の内容とは関係のない聖句のようですが、実はこの聖句の訳には問題があり、同じ箇所をドン・ボスコ社のカトリック聖書で見ると、次のようになっています。

「すると主は、『私の霊はいつまでも人間のうちに居つづけないだろう、かれは、肉だけのものでしかないからである。かれの日かずは、あと120年』とおおせられた」。

これは一般の人間の寿命を意味するというよりも、罪を犯した人々に対して神が、“おまえたちはあと120年しか生きられない”と宣言されたということで、120年後に洪水審判が下されることを暗示していると思われるのです。この見解が正しいことを示すいくつかの文献を挙げてみましょう。

「〈人の齢は120年〉。文法的には人のさばきの執行猶予の期間(Iペテロ3:20)とも、地上の人間の寿命の短縮ともとれる」(『新聖書註解1』いのちのことば社、110ページ)。ノアの洪水s

「J(モーセ五書を構成していると思われる文献J、E、D、Pなどの一つ……著者注)は、物語を『非神話化』して使うことによって、全般的に堕落した人間の状態の証拠として、その寿命が120年に限定されたと考えたのであろう。しかしこの逸話と結びつけた洪水物語との関連上、120年を大災害の発生前に人類に与えられた恩恵の期間とした、と解釈する方がよいと思われる。明らかにこれが創世記の最終著者の意図である。なぜなら、後にPにおいては、120年以上の寿命が個人に与えられているからである」(『カトリック聖書新註解書』エンデルレ書店210ページ)。

「一般人類の生命の息……は、120年後の洪水によって断たれるであろうという神の宣言(おそらくヨナ3:4の場合と同じような悔い改めの期間……)以上の解釈はギリシャ語訳、ラテン語訳、シリヤ語訳に一致するものである」(聖書〈原文校訂による口語訳〉フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社55ページ)。

これらの文章は、洪水前に120年という期間があったとする『原理講論』の主張が、かってな独断ではなく聖書的根拠に基づいていることを明確に示しているものといえましょう。(『聖句Q&A』より)

『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』の盗作?

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?

原理講論
原理講論

:『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作であると中傷する反対牧師もいます。
この中傷は、1975年5月19日、ソウル・セムアン教会で行われた「統一教批判講演会」で、朴英官氏が「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作。それは年代的、構造面、核心思想から見てそうだ」と語ったのが発端です。これは朴英官氏のデマです。

反対牧師は、『原理講論』と『基督教根本原理』の目次を示し、似ていると批判します。しかし、『基督教根本原理』より前に『原理解説』が出ている事実を見落としています。統一教会出版物と、金百文氏の出版物は、下表の年次で出ています【下表を参照】。

金氏が盗作したと言うなら、まだ話の筋は通りますが、「『原理講論』は『基督教根本原理』の盗作」は事実無根です。なお、この盗作の中傷に対し、『受難の現場』(光言社)の319〜325ページに柳光烈氏の反論が掲載されています。

『原理講論』は、金百文牧師の著書『基督教根本原理』からの盗作か?
(太田朝久『踏みにじられた信教の自由』より)

『受難の現場: 統一教会受難とその真相』 柳光烈先生による「教理剽窃是非に対する釈明」

イエス・処女降誕否定の根拠は?

処女降臨 マリア イエスs:「統一教会はイエスの処女降誕を否定しているが、イザヤ書7章14節にははっきりと『見よ、おとめ(a virgin)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』と預言されている」という意見がありますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、三位一体やイエスの肉体復活と並び、保守的なクリスチャンにとってはイエス・キリストの神性(無原罪)を裏付けるものとして絶対に譲れない中心的教理の一つではありますが、今日この“処女降誕説”に疑問をはさむ神学者は決して少なくありません。その問題となっている点をいくつか挙げてみましょう。

一つは処女降誕の根拠となるイザヤ書7章14節は確かに七十人訳(ギリシャ語)では“処女”(a virgin)となっていますが、ヘブル原典では単に、“おとめ”(a young girl)となっており、必ずしも処女を意味しないということ。この点については日本基督教団の『旧約聖書略解』は、「イエスの奇跡的誕生との関連において、マタイ福音書の著者がイザヤ書7:14を奇跡的に解釈するのは当然であるが、イザヤ自身はこの聖句にそのような意味をもたしていないことは、これがスリヤ・エフライム戦争においてアハズ王に語られた神の言葉であることからも理解しうる。「おとめ」と訳されているヘブル語は「結婚適齢の若い女」をさし、処女であっても、既婚の女であってもよい」(667ページ)と述べています。ハルナックもその著『History of Dogma』の中で「処女降誕の観念は旧約聖書の誤訳による」と説明しています。

第二はこの聖句は、直接にはイエスの誕生を指していないという点です。この点についてさらに『旧約聖書略解』(前掲書)は「……それで、この預言の『おとめ』とは誰のことであろうか。……アハズ王に『しるし』となるのであるから、王の知っている若い女のことでなければならない。王の后か、預言者の妻かであろう。ヘブル語では、『彼女は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』となっているが、七十人訳以外の有力なギリシャ語訳旧約聖書は『あなた(アハズ王)は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう』と訳している。ゆえにこの『おとめ』は王の后となる女であると解釈する註解者もいる……当時流布していた救世主の誕生の待望との関係から、メシヤをさしているのだとする見解(は)妥当ではない」(667ページ)と述べています。すなわち、この預言はイザヤの時代に関するものであるというのです。

新改訳のイザヤ書7章14節の注にも「イザヤ時代に生まれて来る男の子のことが念頭におかれている」と書かれています。

第三は処女懐胎の物語は福音書のマタイとルカの初めの章だけで扱われており、マルコ、ヨハネ、パウロなどはこれに言及していない点。これは必須の重要教理でないことを示しているともいえます。

第四は処女懐胎がメシヤの「無原罪誕生」の根拠とされているが、それは古代世界においては、子供をつくるのは男性のみであり、女性はただ子供を宿すにすぎないと信じられていたからで、今日の科学は、両親が共に子供の肉体および精神の構造を決定することを証明している。したがってイエスから父親を取り除いても、イエスを原罪のない存在とすることにはならない。
以上の点を挙げることができます。(広義昭『聖句Q&A』より)

ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)

人間の肉体が死ぬのは、人類始祖の堕落の結果?

堕落による死sQ:「統一教会は“肉体の死”を堕罪によって生じたものとは考えず、“自然死”だとしているが、創世記2章17節の『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』というみ言の“死ぬであろう”とは、人間の全存在に対して言われたのであって、肉体であろうが、霊人体であろうが、その人の固有の要素はすべて死ぬのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:一般的にキリスト教の教義学においては、堕罪による死は『原理講論』の主張するごとく第一義的には霊的死、すなわち“霊魂の神からの離反”ということで意見は一致しています。保守派の代表的人物ヘンリー・シーセンの『組織神学』にも、「霊的死とは霊魂が神から離されることである。エデンの園において宣告され、いま全人類の上にふりかかっている罪の刑罰は、第一義的にはこの魂の死なのである」(448ページ)と述べられています。しかし、では堕罪による死が“肉的死をも含むか否か”という問題になると様々な教説があり、一致が見られないのが現状です。

しかし、『原理講論』は、創世記2章17節の「取って食べると、きっと死ぬ」は文語訳では、取って食べた「その日」(英訳では、“in the day”新改訳では“その時”、ヘブル語ではbeyomベヨム)に死ぬとなっており、したがって、あくまでもアダムとエバは取って食べた“その日″あるいは“その時”に既に死んだと見なければなりません。しかし、彼らの肉体はその後、なおも生き続け、アダムは930歳(聖書的数字)まで生きたというのであるから、堕落によってもたらされた“死”とはまさしく“肉体の死”ではなく“霊的死”と見るべきであると主張しています。

そして、多くの神学者も実はこの見解を支持しています。日本基督教団出版局から出されている『教義学講座(1)』の「永生論」には、「キリスト教の中においても自由派の人々は、死をもって自然現象となし、罪の結果と考えない」(405ページ)とあり、さらに「人間論」の中には、「個々の人の罪が原因となって、人間に生物学的な意味での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。

生まれた以上死ぬのは人間の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の前であろうが、後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。……罪こそ死なのである」(239ページ)と述べており、堕罪による死は「肉体の死」よりも、より本質的には「霊的死」であることがはっきりと述べられています。(『聖句Q&A』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)

統一教会は心身障碍者を「先祖の因縁」と蔑視?

先祖s浅見定雄氏の批判
統一教会は、心身障害者を受け入れない。受け入れないどころか、彼らを、前世の因縁が悪いとか悪霊がついているからだと言って蔑視している。これは、聖書の教え(キリスト教)とは真反対の教えである。ヨハネ福音書第9章には、はっきりと盲人であるのは本人の罪でも、親の罪でもないと書かれている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』11ページ)。

批判に対する回答
統一教会が心身障害者を信徒として受け入れないなどという方針はどこにも存在しない。「統一原理」の内容を理解し、受け入れることのできる者は誰でも信徒になれる。実際、統一教会の職員の中には身体障害者もいる。ただし、教会の業務に専従するためには、それに相応する心身の健康が要求されることは当然である。このことは、カトリック、プロテスタントを問わずどこの教会でも同じことであろう。

心身障害者になった原因という問題であるが、「統一原理」はすべての物事の原因には内的側面と外的側面のあることを主張する。外的側面というのは地上界からのものであり、内的側面とはそれを超えた霊的側面からのものである。内的側面の中には神からの直接的なものをはじめ、先祖の霊を含めたいわゆる霊界(天界)の霊人からの影響も含まれる――出エジプト記20章5節参照。ただし、浅見氏が言うような〈前世〉すなわち〈輪廻転生思想〉は「統一原理」にはない――。

ところで浅見氏の言うヨハネ9章の解釈の問題であるが、イエスの「神のみわざがあらわれるために」と言う言葉は、そのときの状況を十分考慮しつつ解釈されるべきである。イエスがここで意図したことは、“病気や一切の不幸が先祖や本人の犯した罪と全く関係がない″といった普遍な真理を表明することにあったのではなく、弟子たちが、その盲人に関する罪の原因の所在をあれこれ考えていたときに、“今、大事なことはそういうことではない。人間は皆等しく罪人であって、その意味ではこの盲人も他の者もなんら変わるところがない。大切なのは眼の前にいるメシヤをメシヤと認めて、一日も早く救いに入れられることなのだ”ということにあったといえる。

この部分については『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社)も次のように言っている「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の受難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(487ページ)。

すなわち、この場合、見当はずれの質問に対して解答が避けられ、それをきっかけにして新しい別のメッセージが語られているのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

聖霊は女性神?

HOLYSPIRIT_16:「『統一原理』では、聖霊を女性神としているが、ヨハネによる福音書14章16節などに出てくる“助け主”と訳されている言葉は、ギリシャ語で“ホ・パラクレイトス”という。『ホ』という男性単数主格を表す冠詞で明らかなように、聖霊は男性格である。したがって、聖霊が女性だというのは聖書的見解ではない」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、聖霊なる存在が聖書においては、“主の霊”とか“神の霊”とか“み霊”などといろいろなかたちで呼ばれ、その働きも実に多様に表現されており、それが『原理講論』の重生論における聖霊とは必ずしも同じものを意味していないため、説明に若干の困難を要します。

結論から言って聖書全体における聖霊とは、広義の意味においては、人類の救済と新生のために個人と歴史に働く一切の神の霊的活動を意味します。その意味では、質問の指摘のように聖霊は必ずしも母性的働きのみに限定することはできないことを「統一原理」は認めます。

しかし、聖霊を女性格と見ることは決して不当なことではなく、初期のクリスチャンたちの多くが、聖霊を女性的存在として見ていた証拠がいくつも残っています。

そもそも、霊を意味するヘブライ語は“ルーアッハー”(ruach)という女性名詞が使われています。〈新約聖書によく見られる“プニューマ”(pneuma)というギリシヤ語は中性名詞となっています〉。さらに旧約聖書において、神の知恵(hokmah――ヘブル語原典では女性名詞)は女性の霊として描かれています(箴8、9)。その他、聖霊の働きは慰労と感動を与え人間の心をイエスに導く(コリントⅠ12:3)といった女性的働きを有していることが明らかです。

使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエスが「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
また、初期のシリア、もしくはエジプトのクリスチャンたちの産物である『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文が載っています。『マニの福音書』(The Gospel of Mani)には、父なる神の権能と母の祝福、および、子の善を讃える三位一体論の頌栄が見いだされますが、恐らくこれはマニ教徒たちが、その当時のあるクリスチャンの団体から学んだものであろうと考えられています。(統一神学より)このようにイエスの復活以後における聖霊の働き(狭義の聖霊)を女性神ととらえることは、決して非聖書的結論ではないといえましょう。(『聖句Q&A』より)