ノアの箱舟の「3次のハトは21日」は間違い?

PENTATEUCH_05:「ノア家庭」(『原理講論』453ページ)では、ノアは箱舟からハ卜を7日ずつ三次にわたって放ち、合計21日間費やしたことになっていますが、聖書を見ると、7日は2回しか出てきません。いったいどのように考えたらよいでしょうか。

:確かに、現在私たちが一般的に用いている日本聖書協会発行の口語訳聖書には、カラスを放った後、最初のハ卜を放つまでに7日間かかったとは記されておりません。しかし、第二のハ卜を放つために待った七日間のところ(創8:10)を英語の聖書(R・S・V米国改訂標準訳)で見ると、“He waited another seven days.”となっており、その7日の前にもう一つ7日があったことが暗示されています。この箇所をさらにカトリックの聖書で見ると、はっきりと次のように記されています。

創世記8章6節から8節まで見ると、

「四十日後、ノアは、箱船につくってあった窓をあけて、水がへったかどうかを見るために、からすをはなした。からすは出て、地上の水がかれるまで、行ったり来たりした。ノアは〔七日待ってのち〕今度は、水が地のおもてから引いたかをみるために、めばとをはなすと……」(フェデリコ・バルバロ訳ドンボスコ社18、19ページ)。

さらに

8節の〔七日待ってのち〕の注に、「現今テキストには、ないことばだが10節の『あと七日待ち』とあるから、原本にもあったと思われる」

とはっきりと記されています。

『新聖書註解』(いのちのことば社)にも、「10節の『それからなお七日待って』は、烏を放ってから七日たって最初の鳩が放たれたことを示していると見てよい」(旧約1 118ページ)

と注釈されています。

ANIMAL_22こうしてみると、『原理講論』において三次にわたるハ卜が7日ずつ合計21日間費やされたという見解は、決して不当な解釈ではない、ということが分かります。クリスチャン(特にプロテスタント)にとって真理の判定基準は、人間の理性ではなく、聖書にどのように書かれているかということだけが真理か否かを決定する尺度となっているので、聖書に記されていない事柄に関しては、容易に信じようとはしません。

しかしこの聖句の問題は、現在我々が用いている聖書が決して真理判定のための唯一絶対の基準とはなり得ないことを物語っています。同じヘブル語あるいはギリシャ語の原典から訳された日本語の聖書だけでも、口語訳、文語訳、新改訳、共同訳、バルバロ訳、現代訳……などと実にたくさんあります。また同じ口語訳聖書を用いるクリスチャンの間でも、様々な解釈の相違が生まれ、多くの教派分裂を起こしています。

「統一原理」は、聖書の一字一句の表現よりも、そこに記されている事柄の事実性をより重要視します。「統一原理」は聖書を綿密に読むことによって構築された理論ではなく、あくまでも神からの新しい啓示として与えられたものですから、あるところは事実の方が逆に先行し、聖書の記録の方がそれに対して十分でない部分もいくつかあるのです。(『聖句Q&A』より)

人間の肉体が死ぬのは、人類始祖の堕落の結果?

堕落による死sQ:「統一教会は“肉体の死”を堕罪によって生じたものとは考えず、“自然死”だとしているが、創世記2章17節の『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』というみ言の“死ぬであろう”とは、人間の全存在に対して言われたのであって、肉体であろうが、霊人体であろうが、その人の固有の要素はすべて死ぬのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:一般的にキリスト教の教義学においては、堕罪による死は『原理講論』の主張するごとく第一義的には霊的死、すなわち“霊魂の神からの離反”ということで意見は一致しています。保守派の代表的人物ヘンリー・シーセンの『組織神学』にも、「霊的死とは霊魂が神から離されることである。エデンの園において宣告され、いま全人類の上にふりかかっている罪の刑罰は、第一義的にはこの魂の死なのである」(448ページ)と述べられています。しかし、では堕罪による死が“肉的死をも含むか否か”という問題になると様々な教説があり、一致が見られないのが現状です。

しかし、『原理講論』は、創世記2章17節の「取って食べると、きっと死ぬ」は文語訳では、取って食べた「その日」(英訳では、“in the day”新改訳では“その時”、ヘブル語ではbeyomベヨム)に死ぬとなっており、したがって、あくまでもアダムとエバは取って食べた“その日″あるいは“その時”に既に死んだと見なければなりません。しかし、彼らの肉体はその後、なおも生き続け、アダムは930歳(聖書的数字)まで生きたというのであるから、堕落によってもたらされた“死”とはまさしく“肉体の死”ではなく“霊的死”と見るべきであると主張しています。

そして、多くの神学者も実はこの見解を支持しています。日本基督教団出版局から出されている『教義学講座(1)』の「永生論」には、「キリスト教の中においても自由派の人々は、死をもって自然現象となし、罪の結果と考えない」(405ページ)とあり、さらに「人間論」の中には、「個々の人の罪が原因となって、人間に生物学的な意味での死が訪れるようになったというような考えは、今日我々が受け入れる必要のないものであろう。

生まれた以上死ぬのは人間の生物学的必然であると考えても、それは聖書の罪と死との理解から基本的には逸脱していない。死者をも生かし得る神から離れているということこそ、身体の死の前であろうが、後であろうが、聖書の中でほんとうに恐れられている死なのである。……罪こそ死なのである」(239ページ)と述べており、堕罪による死は「肉体の死」よりも、より本質的には「霊的死」であることがはっきりと述べられています。(『聖句Q&A』より)

統一教会は、コリントⅠ15:45の「最後のアダム」という言葉を「後のアダム」という言葉にすりかえた?

原理講論
原理講論

:『原理講論』の96ページに「アダムが堕落して、創世記2章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録22章14節の後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリントⅠ15:45)」という文章があります。

これに関して、「統一教会は、コリント人への第一の手紙15章45節の“最後のアダム”という言葉を“後のアダム”という言葉に故意にすりかえて引用し、あたかもイエス様の他に、第三アダムなる者が来るかのようなイメージを持たせている」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしようか。

:まず、著者のパウロがこの聖句で述べようとしている主要な点は、アダムの堕落によって出発した人類の罪悪の歴史が、第二の人(コリI15:47)であるキリストによって終止符が打たれ、そこにおいて〝肉による”(同・46)、〝地に属する”(同・48)古い人類史は終わりを告げ、新しい〝霊による”〝天に属する”人類の歴史が出発する、ということです。

BIBLE_46したがって、ここでいう〝最後のアダム”とは、まさに人類の罪悪歴史を終了させる〝最後のアダム”であり、あくまでも、罪悪史を出発させた堕落アダム〈第一の人〉(コリⅠ15:47)との質的差の対比において語られている〝対句的な表現”に他なりません。ですから、そういう意味では、もしイエス・キリストが〝最後のアダム”であるなら、イエスと同様に、人類を重生させるべき使命を持ってこられる再臨のキリストも、やはり〝最後のアダム”ということができるでしょう。

イエス・キリストと再臨主とは、単なる延長摂理なのであり、それはちょうどエリヤと洗礼ヨハネとの関係と同じように、個体(存在論的に)は違ったとしても天的使命(機能的側面)から見るならば、正に同一人物なのです。

以上のことからいうと、むしろこの聖句は、イエスが三位神の立場からの神そのものではなく、堕落したアダム〈第一の人〉に代わる新しいアダム〈第二の人〉として、すなわち堕落していない〝創造本然のアダム”として来られる方である、との統一教会の見解を、むしろ支持する有力な聖句だと言えるでしょう。

さらに、このコリントⅠ一五章45節を〝ギリシア語原典”で見ると「εσχατοζ」となっており、それはマタイ伝27章64節の「εσχατη」の用法と同様に、その部分が「前の」に対する「後の」という意味合いで使用されている言葉になっています。このことは、岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』(山本書店)にも、「(「前の」に対し)後の」という意味であろう(一九四頁)と説明されています。確かにこの「εσχατοζ」は「最後」という意味もありますが――『旧約新約・聖書語句大辞典』(教文館、「索引」の20ページ)は、εσχατοζに対する訳語として「あと、終り、最後、後、果て」などを記載しています――、ここはむしろ47節の「第二の人」との間で、文脈(コンテクスト)における〝聖書の連関性”の観点をふまえながら考慮すべき言葉であると言えるでしょう。なぜなら、パウロはここで一貫して「対句的な表現」を用いながら論述を行っているからです。そのような立場からみていくと、「後の」という訳語を当てることが、極めて妥当性をもってくるのです。

ところで『ギリシア語・新約聖書釈義事典Ⅱ』(教文館)は、このコリントⅠ15章45節について、それは「決定的に〈最後の〉アダムなのである」(97ページ)と論じています。しかし、それは非常に神学的香りのする解釈の仕方です。何故なら、そこでは「堕落したアダムによってもたらされた〈死〉が、キリストによって先取り的に滅ぼされている」ということが前提となっており、つまりイエスが〈先取り的に〉完全な救いをもたらしている、だからこそ「最後のアダムなのだ」と釈義しているに他ならないからです。

この事典のように、神学的なものを前提にして解釈するなら、やはり神の摂理を〝経綸的”に見て、「十字架と復活」に続いて「再臨」という問題が、いまだに残されていることをも基本にして判断するべきだと言えるでしょう。

以上のことなどから考えると、ここはやはりパウロが使用している「対句的な表現」を考慮しつつ、47節との関連性から解釈した方がより適切な解釈になると思われます。

『原理講論』に対する補足説明
『原理講論』に対する補足説明

事実、韓国で出版されているカトリック用の聖書(共同訳)では、明確に「後のアダム=나중 아담」という訳語をそこにあてはめて使用しています。このカトリック用聖書とは、5聖書協会が共同して「聖書翻訳者の要求に最適な新約本文を提供しよう」という目的から1966年に出版した、信頼度の高い「ギリシア語テキスト」をもとに、それをヴァチカンをはじめとする、新教・旧教の聖書協会が合同で翻訳し、刊行した聖書なのです。

また、日本語版の『原理講論』は、韓国語から直接翻訳されたものですから、その韓国語版の『原理講論』に「後のアダム」と明記されていた言葉を、そのまま「後のアダム」として日本語へ翻訳したものに他ならないのです。(ちなみに、他にも中国語のカトリック聖書が、「後に来たるアダム=后来的荳当」という訳語を当てはめています。)

したがって、日本語の聖書には「後のアダム」という訳語がないからといって、即それは「意図的な改竄だ!」と批判するのは、まったく〝的はずれ”な批判であるとしか言いようがありません。(太田朝久『「原理講論」に対する補足説明』より)

統一教会は心身障碍者を「先祖の因縁」と蔑視?

先祖s浅見定雄氏の批判
統一教会は、心身障害者を受け入れない。受け入れないどころか、彼らを、前世の因縁が悪いとか悪霊がついているからだと言って蔑視している。これは、聖書の教え(キリスト教)とは真反対の教えである。ヨハネ福音書第9章には、はっきりと盲人であるのは本人の罪でも、親の罪でもないと書かれている(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』11ページ)。

批判に対する回答
統一教会が心身障害者を信徒として受け入れないなどという方針はどこにも存在しない。「統一原理」の内容を理解し、受け入れることのできる者は誰でも信徒になれる。実際、統一教会の職員の中には身体障害者もいる。ただし、教会の業務に専従するためには、それに相応する心身の健康が要求されることは当然である。このことは、カトリック、プロテスタントを問わずどこの教会でも同じことであろう。

心身障害者になった原因という問題であるが、「統一原理」はすべての物事の原因には内的側面と外的側面のあることを主張する。外的側面というのは地上界からのものであり、内的側面とはそれを超えた霊的側面からのものである。内的側面の中には神からの直接的なものをはじめ、先祖の霊を含めたいわゆる霊界(天界)の霊人からの影響も含まれる――出エジプト記20章5節参照。ただし、浅見氏が言うような〈前世〉すなわち〈輪廻転生思想〉は「統一原理」にはない――。

ところで浅見氏の言うヨハネ9章の解釈の問題であるが、イエスの「神のみわざがあらわれるために」と言う言葉は、そのときの状況を十分考慮しつつ解釈されるべきである。イエスがここで意図したことは、“病気や一切の不幸が先祖や本人の犯した罪と全く関係がない″といった普遍な真理を表明することにあったのではなく、弟子たちが、その盲人に関する罪の原因の所在をあれこれ考えていたときに、“今、大事なことはそういうことではない。人間は皆等しく罪人であって、その意味ではこの盲人も他の者もなんら変わるところがない。大切なのは眼の前にいるメシヤをメシヤと認めて、一日も早く救いに入れられることなのだ”ということにあったといえる。

この部分については『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社)も次のように言っている「この場合、父親の罪が子に及ぶかどうか、肉体の受難は本人の罪の結果であるかどうかといった質問は全く見当はずれである」(487ページ)。

すなわち、この場合、見当はずれの質問に対して解答が避けられ、それをきっかけにして新しい別のメッセージが語られているのである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

聖霊は女性神?

HOLYSPIRIT_16:「『統一原理』では、聖霊を女性神としているが、ヨハネによる福音書14章16節などに出てくる“助け主”と訳されている言葉は、ギリシャ語で“ホ・パラクレイトス”という。『ホ』という男性単数主格を表す冠詞で明らかなように、聖霊は男性格である。したがって、聖霊が女性だというのは聖書的見解ではない」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

:この問題は、聖霊なる存在が聖書においては、“主の霊”とか“神の霊”とか“み霊”などといろいろなかたちで呼ばれ、その働きも実に多様に表現されており、それが『原理講論』の重生論における聖霊とは必ずしも同じものを意味していないため、説明に若干の困難を要します。

結論から言って聖書全体における聖霊とは、広義の意味においては、人類の救済と新生のために個人と歴史に働く一切の神の霊的活動を意味します。その意味では、質問の指摘のように聖霊は必ずしも母性的働きのみに限定することはできないことを「統一原理」は認めます。

しかし、聖霊を女性格と見ることは決して不当なことではなく、初期のクリスチャンたちの多くが、聖霊を女性的存在として見ていた証拠がいくつも残っています。

そもそも、霊を意味するヘブライ語は“ルーアッハー”(ruach)という女性名詞が使われています。〈新約聖書によく見られる“プニューマ”(pneuma)というギリシヤ語は中性名詞となっています〉。さらに旧約聖書において、神の知恵(hokmah――ヘブル語原典では女性名詞)は女性の霊として描かれています(箴8、9)。その他、聖霊の働きは慰労と感動を与え人間の心をイエスに導く(コリントⅠ12:3)といった女性的働きを有していることが明らかです。

使徒時代以後にユダヤ人のクリスチャンたちが用いていた『ヘブル人福音書』(Gospel of the Hebrews) には、イエスが「我が母、聖霊よ」と述べている言葉が引用されています。
また、初期のシリア、もしくはエジプトのクリスチャンたちの産物である『トマス行伝』(The Acts of Thomas)には、聖霊に対して「慈悲深い母、隠された神秘を現す女性、至高なる方の愛する方よ……」と呼びかける讃美歌や礼拝の祈祷文が載っています。『マニの福音書』(The Gospel of Mani)には、父なる神の権能と母の祝福、および、子の善を讃える三位一体論の頌栄が見いだされますが、恐らくこれはマニ教徒たちが、その当時のあるクリスチャンの団体から学んだものであろうと考えられています。(統一神学より)このようにイエスの復活以後における聖霊の働き(狭義の聖霊)を女性神ととらえることは、決して非聖書的結論ではないといえましょう。(『聖句Q&A』より)

「イエスの復活」って?

イエス 復活 霊人体 使徒s:「統一原理」によれば、イエスの復活は霊的なものであったというわけですが、ルカによる福音書24章39節から43節の「わたしの手や足を見なさい。……霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」という言葉や、「イエスはそれを取ってみんなの前で(焼いた魚の一切れを)食べられた」という記事は、イエスの肉体復活を支持しているかのように思われますが、どのように考えたらよいでしょうか。

:まず初めに、イエスの復活が霊的だったと思われるいくつかの根拠を挙げてみましょう。第一は、復活後のイエスの体は普通の肉体とは異なっていたという点です。“閉めきった部屋に、突然現れる”(ヨハネ20:19)、“道を歩いていた弟子への超自然的顕現”(ルカ24:15~31)等。

第二は、福音書よりも以前に書かれたパウロ書簡の中に、不思議にもイエスの肉体復活についてほとんど記されていないということです。その中でもコリント人への第一の手紙15章3節から8節が、復活に関する最古の伝承とされていますが、ここでパウロは、イエスが復活後、地上の人々に次々と現れた事実を述べています。初めはペテロに、次に十二弟子、500人の兄弟、ヤコブ、すべての使徒、そして最後にパウロにも現れたというものですが、この聖句に関しドイツの新約学者キュンメルは、次のように述べています。(要点のみ)

「パウロがここで、復活のイエスの目撃者を列挙する意図は、彼ら(弟子たち)と同じ復活のイエスと出会ったことを主張することによって、自分も使徒の資格があることを示そうとするところにある。ところでパウロのイエスとの出会いは、クリスチャン迫害のためダマスコヘ行く途上での、明らかな霊的出会いである(使9:1~9)。したがって、もし“パウロの出会い”と“弟子たちの出会い”が全く異なったものであったとしたならば、このパウロの主張に、異議を申し立てることのできた多くの人々が、まだ生きていたはずである」。

さらにキュンメルは、「今日、復活証人の目撃が“幻視”という学術用語で言い表されるのは、おそらく的確な仮説と思われる」(『新約聖書概論』日基、147ページ)と述べています。

さて問題の聖句ですが、ルカによる福音書24章40節の“手足を見せた”は、米国改訂標準訳や新改訳聖書では削除されており、一般に後世の加筆とされています。43節の“魚を食べた”も、ユノビオン(前で)アオトン(これを)エファゲン(イエスは食べた)は用語上、ルカの編集句とされているので、編集者(ルカ)の加筆と思われている部分です。36節から39節の“霊には肉や骨はないが″の部分は、他の福音書のイエスの海上歩行物語と全く同じ形式であり、ルカが海上歩行物語を採用しなかった代わりに、これを復活物語に組み込んだものと考えられている部分です。

一般的に、イエスの肉体を強調する聖句は、当時、“イエスは肉体をもってこられたはずはない”とする異端(仮現説)に対抗しようとして、その弁証の弾みから生じたものと考えられています。(『聖句Q&A』より)

ロマ書7章の「パウロの嘆き」における自己矛盾の描写は、イエスによる回心以前のことを指している?

イエス キリスト教 十字架 復活s:「統一教会では、ローマ人への手紙7章15節から24節のパウロの嘆きを例に挙げながら、『イエスによって救われたと主張するクリスチャンが相変わらず自己の矛盾性に悩んでいるということは、結局、その救いが完全なものではなかったことを示している』と言っている。

しかし、パウロがここで言いたいのは、7章25節から8章にかけて述べられているように『そのような自己矛盾に悩んでいた罪深い自分がイエスによって救われたのだ』ということなのであって、この自己矛盾の描写はイエスによる回心以前のことを指しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいのでしょうか。

:確かに指摘のとおり、この聖句をキリスト教の救いの限界性の根拠として用いるには若干説明が必要かと思います。実はこのパウロの嘆きが信仰をもつ以前のことなのか、それとも信仰者の現実を指しているのか、学者の間でもかなり意見が分かれているのです。

しかし、たとえこれが回心以前のことであったとしても、このような自己の内における罪との闘いが、イエス様との出会いによって完全に解消されたのかといえば、パウロは決してそのようなことは一言も言っていないのです。『新聖書註解』(いのちのことば社)には、次のように述べられています。

「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。

それに対し、高橋三郎は、……律法に対して死ぬということは、われわれの人生において、ただ一度だけであるのであって、それ以後は機械的に同じ状態が進行するという風にもし考えるとすれば、それは信仰生活の実相を完全に無視した議論と言わねばならない。宗教改革者がいみじくも言ったように、われわれキリスト者の生涯は、常に新たな悔い改めの連続である。そうだとすれば、律法に対して死ぬという体験的事実は、(ある決定的一時点において、一回限りの出来事として開始されたとしても)その後われわれの全生涯を通して繰り返されて行く継続的事態であると言わねばならない。

そして、『律法に対して(常に新たに)死ぬ』ということは、われわれが常に新たに、律法主義的生活に逆転する可能性をうちにはらんでいるということを前提としている」(新約2、226, 227ページ)。

これはキリスト者の救いがイエス様を信じた瞬間に何もかも完成してしまうのではなく、その後も常に罪と闘わねばならない事実をはっきり示しているといえましょう。しかも8章23節には既にみ霊によって新生した者にも、さらに体のあがないが残されていることがはっきりと記されています。

このようにパウロの嘆きを一般キリスト者の現実と理解することは、必ずしも不当な解釈でないばかりか、キリスト教の救いというものが、終末(再臨)時にもたらされる体のあがない(完全なる救い)という基準から見て、いまだ未完成であるとの「統一原理」の主張は、聖書的見地から見ても何ら誤っていないといえます。

〔厳密には、完全に救われる(原罪を脱ぐ)ということと、自己の矛盾性から解放される(堕落性を脱ぐ)ということは別問題であり、原罪が赦されているということが直ちに霊肉の何の葛藤もない状態を意味するわけではありませんが、『原理講論』では、キリスト教においていまだ肉的救い(原罪の清算)が残されている事実を明示するための一例として、このような表現が用いられていることを御承知願います〕。(『聖句Q&A』より)

ユダの手紙6節以下は天使の淫行堕落説の根拠にはならない?

SATAN_37浅見定雄氏の批判
ユダ6、7の「御使いたち」は複数であって堕落した天使長ルーシェルを指しているのではない。さらに「不自然な肉欲」とはソドムの男色、つまり、同性愛のことであってエバとルーシェルのような異性との性関係ではない(浅見定雄『原理講論の仮面を剥ぐ』18ページ)。

批判に対する回答
確かにこの聖句は、直接ルーシェル天使長に関するものではない。『講論』も、この部分のみをもってルーシェルが淫行により堕落したのだと結論しているわけではない。しかし、ここでの「御使いたち」の堕落の原因が、「淫行」にあったということは、ルーシェルの堕落もまた淫行にあったと言うことを理解するのに大いに力(傍証)となるものである。

ところで、「不自然な肉欲」が同性愛だということであるが、ここでも浅見氏の“浅学”ぶりが遺憾なく発揮されている。

まずこの部分(ユダ6、7)は、外典エノク書からの引用であることが認められている。例えば、『新約聖書略解』は次のように解説している「後期ユダヤ教の著名な物語となっている天使の不倫をさす。地位を守ろうとはせず(エノク書15:7、そのおるべきところを捨て去った御使(同書12:4、10:4~6、10:11~12、54:3~5)。本来の権威ある身分と高い天のすまいを捨て人間の娘のところにはいり、淫行を犯した天使が……」(日本基督教団出版局760ページ)。

また、この部分については『フランシスコ会訳聖書』は、次のように注解している「本節は、創6:1~4の背景、すなわち、人間の娘をめとって堕落した天使のことを物語る神話に言及したものであろう。この話しは、外典エノク10:11~15、12:4、15:4~9、19:1に詳しく述べられている。本節に関するこの解釈は、次節の〈かれらと同じく〉という句からもうなずける。……“不自然な肉欲”は直訳では“異なった肉”。堕落した天使が人間の女を求めたように、ソドムの人々もその町を訪れた二位の天使をおかそうとした(創19:5、なお、外典アセルの遺訓7:1参照)。この堕落した天使たちの罪とソドムの人々の罪は、外典ナフタリの遺訓3:4~5でも関係づけられている」(147ページ)。

すなわち、ここで、ユダ書が言わんとしていることは、エノク書にある〈人間と天使〉と言うような「不自然な肉欲」と同じように、ソドムの人たちも〈人間と天使〉(創19:5)というような「不自然な肉欲」に走ったということなのである。

以上、浅見氏は、『仮面』の中でいかにもすべてを知っているかのように「ソドミー」などという言葉まで出してきているが、ここでの「不自然な肉欲」とは、同氏の言うような「同性愛」を意味しているのでなく、明らかに〈天使と人間〉との関係を意味しているものである。

したがって、この聖句は、ルーシェル天使長とエバの淫行関係という問題に関して、十分傍証としての意味を持つものである。(世界基督教統一神霊協会・神学問題研究会編『統一教会への教理批判に答える:浅見定雄氏に対する反論』より)

神のかたちとは、人間特有の理性、人格、道徳性のことであって、男と女のことではない?

アダムとエバ 神のかたちsQ:「『統一原理』は東洋哲学でいう陽陰が神の属性であることを裏付けようとして、創世記1章27節の『神のかたちに創造し、男と女とに創造された』を『神の陽陰の二性性相が分立実体として展開されたのが、男と女である』と解釈しているが、“男と女に創造した”は、次の28節に“生めよ、ふえよ”とあるように繁殖のためであって、“神のかたち”とは、人間が動物とは異なった理性的、人格的、道徳的存在であることを示しているのである」という意見を聞きました。どのように考えたらよいでしょうか。

A:「統一原理」は、“神のかたち”に理性的、人格的、道徳的存在としての内容が含まれることを決して否定するものではありません。むしろそれらは、性形の二性性相として陽陰の二性性相と比べ、より本質的なものであるとしています。一般的に、東洋哲学(易学)は陽陰を強調し、西洋哲学(キリスト教)は性形を強調しています。

したがってキリスト教はどうしても、“神のかたち”を人間一個人における内容としてしか見ない傾向が強いのです。しかし「統一原理」は、“男と女に創造された”こと自体に、はっきりと“神のかたち”が現れていると見ます。

バプテスト、カルヴァン系で保守派の神学者の一人であるヘンリー・シーセンは、“神のかたち”として精神的、道徳的性質の他に社会的性質の類似性を挙げており、その“交わり”の基本が正にアダムとエバにおける夫婦としての交わりであり、しかもその交わりの原型は正に神の三位一体性に由来していると述べています(『組織神学』366ページ)。

ところでキリスト教の三位一体、すなわち“父と子と聖霊”という概念は、『原理講論』の示す神の三相、すなわち“中和的主体”(神)、“神の男性性相”(イエス)、“神の女性性相”(聖霊)という概念と相通ずるものがあるといえます。したがって“三位一体性に由来する”とは、言い換えれば“神自体内の陽陰の二性性相に由来する”ということにもなりましょう。

新正統主義の代表的神学者K・バルトは、このことを次のように説明しています。「人間における神の像とは、人間が男と女とに造られたことを言い、それは神自身の本性の中で起こる共同と共存の関係すなわち三位一体という原型的関係を模写し繰返したものにほかならない」(『キリスト教大辞典』226ページ)。

さらに『新聖書註解』でも、同様に「K・バルトはボンヘッファーなどの考え方に従い、男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する。神性には「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場が内在している。人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある……。神のかたちとは人間同士の相互関係であり、個人としての人間そのものは神のかたちではない」(旧約1 いのちのことば社 81ページ)と記されています。このように“男と女に創造された”ことを“神のかたち”と解釈することは何ら非キリスト教的見解ではないといえましょう。(広義昭『聖句Q&A』より)